佐世保小6事件 長崎家裁決定(要旨)を読む


 どっかで書いたような気がするけど、中学生であったぼくはナイフをもっていて、なぜそんなものを持っているのかと驚いた兄がぼくにたずねたとき「不良たちがぼくにからんできたらこれでヤる」とか答えて、兄に止められた記憶がある。兄のことだから、「そんな危ないことはやめろ」というふうではなく、「お前が返り討ちに遭うだけだぜ」と合理と冷笑半ばした言い方でたしなめられたのだが。

 多様な要素を勘案してちょうどよい着地点をさぐる、という思考作業は、多様な価値を学び、幾多の経験を積み重ねてなしうることである。
 その価値を教え、経験を与えるのは、子どもをつつむ共同体である。
 だから、子どもというのは、そのままであれば、どんなふうにでも極端になりうる。
 単線・直線にものごとをつきつめれば、びっくりするような行動や言説がアウトプットされてしまう。でもそれは驚くにはあたらないことなのだ。それを柔らかく、ときには厳しく受け止めるのが、社会というものなのだから。

 あるいは、子どもは何かの事情で、器質的に極端だったり歪んだりしている性状をもっていることがある。家庭が丸ごとそうだったりもする。
 そうしたときに、社会や共同体や隣近所や学校こそが、幾重にもそれをカバーする役割を本来もちあわせていなければならない。

 兇悪な少年犯罪が増加してきたから少年を厳罰化しろだの、体罰やスパルタ教育を激化させて少年を矯正しろだの、果ては自分も受けたことのない徴兵制を始めて少年を鍛え直せだの、といった言説が最近目立ってきた。自分とは異なる化け物のような「少年」がこの社会のいずこからか育ってきたから退治しろというわけで、その頭のシンプルさこそ矯正したほうがいいのではないかと、ぼくなどは思うのである。

学齢に達した子どもたちを、わたしたちは一種の〈悪〉として見ている。/ほんの何人かの同世代の子どもたちが、なにか事件でも起そうものなら、たちまち『キレる十七歳』といったような言葉が流行し、あたかもその世代自体に問題が内在しているかのような風潮が世論をおおいつくす。/けれども、他の世代がどれほど凶悪犯罪を連続して起したとしても、『キレる三十七歳』などといった言葉がささやかれたためしはない。どうしても世代論を語りたいなら、少年犯罪史上、最高の犯罪率を誇った一九六〇年ごろに『少年』だった人びとこそ、史上最悪の世代として語られなければならない」(白倉伸一郎『ヒーローと正義』)

「ショッカーは人間の世界とそうでない世界とのあいだにまたがる越境的な共同体である…。怪人は半分『人間』ではあるが、人間世界への外部からの侵略者でもある。……学齢期の子どもは、むじゃきな赤ん坊や、あどけない幼児でもなければ、さかしらなオトナでもない、グレーゾーンに棲息する存在である。/とくに第二次性徴のはじまる十歳ごろからは、そうした子どもの両義性が顕著になる」(同前)

「法制審議会が『少年法改正のための要綱』を法相に答申した直後にスタートした『(仮面ライダー)クウガ』は……少年怪人に怒りをたたきつける第三五話を放送する。『愛憎』とサブタイトルがつけられたこのエピソードにおけるクウガの敵は、少年をつぎつぎと殺戮する少年怪人ゴ・ジャラジ・ダだ。/この怪人に対し、クウガはあらんかぎりの力でパンチの連打を浴びせかける。怪人がぐったりしたところを、べつの場所に運び、さらに剣でめった斬りにする。地面に倒れ伏した怪人に、馬乗りになって剣を突き立て、ようやくとどめを刺す。/義憤というには感情的すぎるほどの、怒りの奔流をほとばしらせるかれは、少年犯罪について議論沸騰する社会に対して、明確なメッセージを送っていたといえよう。/『最近の子どもたちはわからない。けれども、人を殺すようなヤツは、少年だろうがなんだろうが、怒りの鉄槌をくだすべきだ!』と」(同前)

 少年犯罪に出会ったとき、少年を得体のしれない、越境していく怪人とみなすのではなく、それを「社会」のせいにするというより、そこに「自分」を見いだしてみるという作業は有効ではないだろうか。「『低下するモラル、激増する少年犯罪、混迷の世界情勢』みたいにいう人は多いけれども、『おれのモラルは低下している』とか『おれの犯罪が激増している』などという人はいない。つねにだれかよその人の〈悪〉が増大しているのであり、自分の問題だと思う人はだれもいない」(同前)。

 長崎の佐世保でインターネットの書き込みに端を発して同級生を殺害してしまったといわれている小学6年生の事件の家裁決定が報道された。その決定を読むうちに、なんだか自分の生育過程に似ているいくつかのことがあったこと、あるいは、自分とは必ずしも重ならないが、自分の周辺に思いを馳せるという問題がいくつもあった。
 今から書くことは、心理学や精神医学的に「そういう意味じゃないよ」ということもあるかもしれないが、そういう細部の検証を抜きにして、まさに思いつくがままの感想として書いてみたい。

「少年(※少年法では未成年は男女ともこう表現される)は……対人的なことに注意が向きづらい特性のため、幼少期より泣くことが少なく、おんぶや抱っこをせがんで甘えることもなく、一人でおもちゃで遊んだり、テレビを見たりして過ごすことが多い等、自発的な欲求の表現に乏しく対人行動は受動的であった。少年の家族は、このような少年の行動を『育てやすさ』『一人で過ごすことを好む』というようにとらえ、少年に対し、ささいな表情の変化や行動にあらわれる少年の欲求を受けとめて、少年に積極的にかかわるということをしてこなかった」


 このサイトを見てもらうとわかるけど、ぼくの基準原理はどうしても「私を見て」というアスカ状態だということである。このサイトをみて「こいつよほど自分のことが好きなんだ」と思ったあなた、正解です。
 じっさい、ぼくもそんなふうな子どもだった。
 家族にもそう評価されていただろうし、表情や行動の読みとりをされた記憶もない。

「その結果、少年は自分の欲求や感情を受け止めてくれる他者がいるという基本的な安心感が希薄で、他者に対する愛情を形成し難かった。そのため、基本的な安心感や愛着を基盤とする対人関係や社会性、共感性の発達も未熟である」

 他人に感謝することがない私、とぼくは自分の結婚式で言った。親への感謝を対象化したのは、そのときが初めてだったかもしれない。それはただありがたみの心がない、とかいう道徳説教の話ではない。左翼であるぼくの友人たちには、人間に惚れっぽい人や他人の不幸や哀しみに心の底から共感できるという人がけっこういる。たぶん、世間よりそうした人間の密度は濃いと思う。理屈やパターンではなく、本当に悲しんでいる、本当に怒っている、というふるまいは、左翼文化に接して強く感じるようになった。逆に言うと、ぼくは以前は、あるいは今でもそうであるかもしれないのだが、他人にたいする共感、愛着というものが極めて弱かった。
 女の子を好きにはなるが、少なくとも自己愛の裏返しだったのではないか、という不安がある。相手そのもの感情や人格に立ち入って、共感や愛着を感じる、という力が希薄ではなかったか。

「少年は……主観的・情緒的なことを具体的に表現することが苦手である。また、言葉や文章の一部にとらわれやすく、文章の文脈やある作品が持つメッセージ性を等を読み取ることができない、その上、例えば相手の個々の言動から人物像を把握する等、断片的な出来事から統合されたイメージを形成することが困難なため、他者の視点に立ってその感情や考えを想像し共感する力や、他者との間に緊密な関係を作る力が育っていない」


 この部分は、このサイトにあるぼくの漫画や本の感想にどれくらいあてはまるものだろうか。
 「まさにお前のこと」というむきもあろうが、自分的には道半ば、という採点をしておきたい。有事法制の議論などはできるかぎり、相手との共感点にたって「対話」をするように努めてきたのだが……。
 むしろ、自分のことはひとまずタナにあげるとして、ネット世界では、「主観的・情緒的なことを具体的に表現する」ということは、本当になかなか難しいことを実感する。漫画評ひとつをとっても、極端な客観レビュー、まあいわば「あらすじ紹介」になるか、「面白い!」式の他人に伝わらない感想垂れ流しになるかどちらかになってしまうのだ。
 くわえて、掲示板文化にあふれるのは「言葉や文章の一部にとらわれ」「断片的な出来事から統合されたイメージを形成することが困難」をきわめた不毛な冷笑合戦である。

「少年は怒りを認知しても、感情認知自体が未熟であることや社会的スキルの低さのために怒りを適切に処理することができず、怒りを抑圧・回避するか、相手を攻撃して怒りを発散するかという両極端な対処行動しか持ち得なかった」


 掲示板文化のなかで日々生起している無数のトラブルが、ただ単にリアル世界での接触がないために重大問題へと発展していないだけで、まさにこのような両極端の行動パターンが毎秒ごとに日本のどこかで展開されているとみるべきであろう。
 「凶悪な少年犯罪のために死刑を!」「甘やかされたガキに体罰を!」と憑かれたように掲示板に書き込んでいる人々は、まさしく共感や愛着、そして社会的スキルの欠如や不足によって、攻撃性を開花させているのである。

「少年は、……傾倒していたホラー小説等の影響により、攻撃的な自我を肥大化させていた」


 ここは見出し報道にもなったからよく知られているだろう。
 ホラー、ポルノ、暴力、戦争などのフィクションの人格への影響を否定するむきは強い。先ほどから挙げている白倉伸一郎も『ヒーローと正義』のなかで、「ポルノ規制を求める人は、だれかよその人がポルノを見ると悪影響を受けると主張する。『おれがポルノを見たら、何をしでかすかわからないぞ』という人はいない。そのほうが、よほど説得力があるにもかかわらず」と述べている。

 これらの創作物は――ポルノのように出演者にたいする人権侵害をのぞけば――「完全に現実とは絶縁されたフィクションである」という管理が自らの中でできるのであれば「影響はない」とみることはできないだろうか。非常にシンプルな理屈で恐縮だが、戦争や暴力のようなものは設定の非日常性がそれをフィクションであるという前提で接しやすい。それでも、問題を攻撃や暴力によって解決する、という文化は知らぬうちに――まさにぼく自身のなかにも――入りこむのかもしれないけど。
 しかし、たとえばポルノは、現実との境が曖昧になりやすい
 ある論者は、「AVの隆盛とともに強姦事件は増加しただろうか?」と疑問を呈していたが、なるほど強姦のような設定はフィクションというフレームをつくりやすい。しかし、ある意味で見せかけの攻撃性が小さければ小さいほどポルノはフィクションとリアルとの境目が低くなっていく。女性に対するささいな攻撃性や支配欲は、まさにその瞬間に入りこんで現実に展開するのではないか。
 セクハラについては完全で長期の統計はないが、「増加」しているというデータ(1994年度のセクハラ相談件数850件だったが1999年度には9451件と10倍以上。都道府県労働局の統計より)は、このこととの相関がないと言い切れるであろうか。
 アダルトビデオの性行動を妻や恋人に強要する男は、後を断たない。

「岡田(斗司夫) 『オタクは犯罪犯さない』とか『ロリコンは犯罪犯さない』というのはもう言えないんだよ。『幼女をレイプするような漫画を描いていても実際の犯行には結びつきません』なんてウソはもう言えないんだよ。結びついちゃうんだから(笑)。だからといって、エロ漫画を見るのはやめるわけにはいかないから、なにかキレイごとが必要なんだよ(笑)」(『日本オタク大賞2004』)

 子どもの場合は、そのフレームづくりが、ある意味で柔軟である。
 それゆえに、「影響」ということは、ポルノに限らず、ホラーやバイオレンスなどについても、ぼくは十分に考えられる話だと思う。

「少年は、現在は本件触法行為に対して現実感を持ち合わせておらず、情緒的な葛藤はないと思われるが、今後の処遇により共感性などを獲得すれば、本件触法行為の意味を次第に理解するようになり、情緒的な混乱を引き起こし、自傷行為に及ぶ可能性もある」

 家裁決定は、最後に、少年が児童自立支援施設のなかで社会的スキルを体得し、教育の力によって情緒を回復していったとき、逆に自分の行いの重大さを「豊かな感情」によって想起してしまい自殺してしまうかもしれない、として、カギのある部屋に閉じ込めて拘束するという措置も付け加えている。
 「少年犯罪暴力的鎮圧論者」のモノサシをどこまで伸ばしていっても、この解答は出てこない。
 殺害者と被害者、二人の人間を結局スポイルしてしまうのが、「人を殺したら死刑にしろ」式の思考である。長崎家裁の措置は、まさに加害者を立ち直らせながら、その人間として回復する過程こそが、加害者にとって最も苦しい罪への向きあい方だということを示している。
 池田小の大量児童殺人の犯人が、「死刑にしてくれ」と望み、そのとおり猛スピードで死刑になったわけだが、執行後の遺族の空しさたるや、いかばかりかとさえ思う。

 最後に、マスコミのこの家裁決定へのアプローチについてふれておく。

 一番共感できたのは、「毎日」社説である(2004.9.19付)。
「事件の全容が解明されたとは言えないが、鑑別所の教官や家裁調査官ら少年事件の専門家が多角的に調査、鑑別した結果だけに納得させられる記述が少なくない。子を持つ親には『ドキリ』とさせられる個所も目につく」

 ここには、事件に「自分」を見る、という視点がある。

「犯行の動機などは断定されていないが、そのことがかえって事件解明の手がかりを広げ、両親や周囲の大人の対応の至らなさや理解不足を浮上させた効果もある。事件の暗部に一歩近づけたとの印象を受け、再発防止のヒントも読み取れる。……被害者側の冷静な感情に接せられたことによって、多くの人々も事件に切実な問題として向き合うことができたのではないか。/少年による凶悪事件では、概して動機の解明より恐怖心やおどろおどろしさばかりが強調されてきた。その結果、事件が起きるたびに加害少年を厳罰に処そうとする声が高まる傾向が認められるが、背景事情を知れば知るほど不可解さや根拠のない恐怖心が薄れていく。大人の責任が明確になったり、加害少年が抱える危うさが、実は多くの少年に共通することに気づいて衝撃を受けることもある。/結局は被害者の痛み、加害者の悩みを社会全体で共有、共感しなければ少年事件の抑止は難しい
 そして「厳罰化では抜本的解決は望めない。加害少年の生い立ち、境遇などを市民が正しく理解し、教訓をくみ取ることが再発防止の近道となるはずだ」という結論は、久しぶりに読むことのできた少年事件の問題解決の王道である。

 「朝日」社説(同17日付)は、「どこにでもいる子が、ふとしたきっかけで殺人を犯すことがありうることを指摘し、子育てのあり方を改めて考えさせようとした。家裁の決定はそう読むべきなのだろう」にはうなずけるのだが、「親はなくとも子は育つ、と言われてきた。それは地域の中に子どもの集団がしっかりと存在し、遊びを通して社会性を身につけたからだろう。今や、そうした集団は消えてしまった。地域で子どもをどうはぐくむか、時代に合わせた方策も考えざるをえない」という表現がなんとも凡庸で、「何よりも、親が子どもの目線に立って、わが子に向き合う。忙しさを理由に逃げてはならない。テレビ漬け、ゲーム漬け、ケータイ漬けの中に、わが子を放置していないか。こうしたことも考えてみる必要がある」という呼びかけは、確かにそうかもしれないけど、読むほうは一般論で済ませてしまうおそれがあるような呼びかけである。

 「読売」社説(同16日付)は、さすがに厳罰化を主張するわけにはいかなったようであるが、「十四歳未満の少年は、刑事責任を問われない。矯正教育の体制が整備された少年院にも収容できない。今回の決定は、こうした現行法の制約の中では、もっとも重い処分である」という表現には、罪の重さをそのものを問うというより、なんだか厳罰を主張できない悔しさを滲ませているような気がするのは、ぼくが読売に対してバイアスをかけているせいであろうか。
 そして、同社説は「その上で、決定が強く問いかけたのは女児の両親の『育て方』である」「昨年の十二歳の少年による長崎市の幼稚園児殺害事件でも、やはり家庭における育て方の問題が指摘された」「低年齢化する少年事件を防ぐためには、子供に対する親のかかわり方も重要だ」と話をまとめる。もちろん、そういう要素は含まれているのだが、「親の育て方がなってないわけよ」というところに話を流し込んでいく手法には疑問を感じざるをえない。




2004.9.22記
家裁決定要旨は「しんぶん赤旗」2004.9.16〜17付より
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