二宮ひかる『ナイーヴ』


 二宮ひかるほど、いやらしい漫画家もあるまい。
 いやらしい、というのは、「エッチ」という意味ではなく、気持ちを逆撫でする、不愉快、というようなニュアンスである。

 いろんな情報を総合すると、どうも二宮は女性のようではあるが、描く漫画は、男性の自分勝手な漫画である。
 いや、たしかに、世に、男性の自分勝手な欲望の漫画など星の数ほどある。

 どこがちがうのか。

 『ナイーヴ』の舞台は、ある建設資材系の会社で、主人公の女性(麻衣子)は、最初、派遣社員である(のち正社員採用)。
 そこにもともとからいる男性正社員(田崎)がもう一人の主人公で、いきなりホテル(正確にはホテル街=渋谷道玄坂のある京王神泉駅)に女性主人公を呼び出すところから話がはじまり、なぜか女性主人公のほうは、その呼出しにこたえて、やってくるのである。

 まず、この男性主人公の能動性は、ラブコメにはない。
 読んでいて「いやらしい」のは、ラブコメにつきものの、受動性や「やさしさ」(いい意味でいってるんじゃないっすよ)がなく、まさに現実に存在する男性サラリーマンのある種の部分を、自然主義的なリアリズムで再現しているという点である。
 実際に、男性主人公は、実在的男性サラリーマンの「がさつ」さをしばしば発揮する。女性主人公はもう何人もの男と寝ているということになっていて、それで男性主人公もベッドに誘うのだが、課長と食事をしているのを見るだけで、嫉妬心に狂って、女性主人公に頭からビールをかぶせるのである。

 話のはこびで、男性主人公と女性主人公は、恋仲になっていくのであるが、契機になっている行動や節々のイベントだけみれば、とんでもない行動ばかりである。
 立場の弱い派遣社員を「喰う」正社員、そうやって手をつけながら嫉妬に狂う身勝手な男――早い話、これはセクハラ男性社員の世界観である。

 といって、セクハラの話ではないので誤解なきよう。
 『ナイーヴ』にかぎらず、二宮作品の多くは「和姦」であり、男性側の身勝手で欲望的な能動的行動にたいして、女性側は受容する。男性像が異常なまでに自然主義的なリアリズムなのにたいして、女性側の造形は実にファンタジックに改造されている。

 男性側の造形をみていると、たとえば飲んだあとで「おっし、みんなできょうはソープいくぞ」とかいって気勢をあげているようなタイプ、あるいはそれでついていったことを「つきあいだからしょうがないだろ」とかいうタイプの人種が想起される。(いや、じっさいには主人公はその種のことを言わない。行かないことを公言したりする。しかし、ぼくにしてみれば、それはそうした人種のなかでのヴァリエーションにすぎないというふうに見えるのだ。)

 あんまし、現実世界では、お友だちになりたくない人である。

 二宮の「うまさ」は、こうした世界観を、巧妙な装置で隠蔽していることである。

 『ナイーヴ』というタイトルは、女性主人公がいわゆる「天然ボケ」とでもいうべきミステリアスな部分をもっていて、その「ナイーヴ」に振り回され、魅入られていく、というこの作品のテーマを示している。女性主人公の造形は、非常に欲望的に、かつ世界観に実に適合的に出来ている。後続の連載である『ハネムーンサラダ』でもそうであるが、女性の「謎めいた」部分が、男性の欲望をひきだす、というのは、とりわけ最近の二宮のお気に入りの女性造形であろう。

 女性主人公が、松江にいったさいに、泊まった宿で、小泉八雲(明治時代に日本に帰化し、日本の怪談などを発表した)の逸話を男性主人公に話すシーンがある。
 ある武士の妻が今際の際に“けっして後妻はとらないでほしい”と頼み、武士はそれを約束して、妻は死ぬ。しかし武士が約束をやぶって後妻を娶ると、先妻の幽霊が、後妻のところに出るという話である。この話を小泉八雲の妻が八雲に聞かせたとき、八雲は「おかしい。出るなら夫のもとに出るべきだ」と憤慨する。しかし、八雲の妻は「それは男のひとの感じ方であって、女の感じかたではありません」と言ったという。

 うそだ。

 この逸話は、まさに八雲の言う通り、夫のもとにむけられるべき怨念が後妻にむけられているという点で、きわめて男権主義的である。男の論理でつくられた話である。水子の霊が、男性は襲わず、女性をのみ迷わす怪談のように。
 にもかかわらず、後妻のもとに化けて出るのは女の論理だといってみせるところに、この漫画の男権主義の隠蔽、いやらしさの真骨頂がある。「それは男のひとの感じ方であって、女の感じかたではありません」というセリフは、この漫画のなかで作動している隠蔽装置を端的にしめしているのだ。

 しかし、かといってぼくは二宮をくだらない漫画家だとは思わない。
 男性の身勝手さや欲望をうっすらと合理化しながら、それが実によく描けているのだ。
 二宮が描く欲望や身勝手が、おそらく自分の一面として存在しかねないという、情けのない自覚をもちながら二宮作品に接している。

 なんていったって、二宮の作品を、ほとんどすべてぼくは持っているのだから。


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