『風の谷のナウシカ』を批判する

※1998年の12月祭に提出したものを加筆・補正したものです。


1. 『ナウシカ』に多くの人が共感をよせている
 多くの人が、『ナウシカ』をみて、それに感動し、支持をしています。しかしそのとき、多くの人の頭のなかにあるのは、マンガの『ナウシカ』の方ではなく、アニメ映画の『ナウシカ』の方だと思います。学生にとったアンケートでは、印象にのこった映画の第1位が『もののけ姫』で、第2位が『タイタニック』、そして第3位が『ナウシカ』でした。10年以上も前の作品でこれほどの支持を誇る映画は他にありません。

 王蟲の怒りをしずめる冒頭のシーンからはじまって、いたるところで人間とは敵対する世界にすむ蟲たちと対話するナウシカは私たちの心に強く残ります。腐海を焼き払う大国トルメキアの道ではなく、大海嘯の先頭にたつ王蟲たちと心を開きあい、「自然との共存」をイメージさせます。人間にとって敵対的とさえみえる蟲や腐海が実は世界を浄化する作用をうみだしているのです。
 人間のつくりだしたいちばん愚かしいもの=巨神兵(核兵器をイメージさせます)は、自然=王蟲と対決して、けっきょく敗れます。
 平和な谷への侵略者(トルメキア)やその残虐な行為についてもナウシカは一つひとつに怒りをもやし、たたかいます。そして、殺戮を憎み悲しみ、たとえば、トルメキアに滅ぼされた小国ペジテの復讐(アスベル)にたいしても──この復讐には一見道理があるようにみえますが──殺戮をやめるように呼びかけます。

 多くの人にとって、そして僕にとっても、こうしたナウシカの一つひとつの行動が共感を集めたのではないでしょうか。自然と人間との共存、愚かしい人間の破壊や殺戮への批判が、かたぐるしい説教でなく、いきいきとしたSFの形で語られています。



2. マンガ『ナウシカ』の結末に多くの人が納得いっていないはずだ
 ところが、マンガ『ナウシカ』は、同じ宮崎駿の作品であり、出発点はアニメと同じところにありながら、到達したところは、かなりちがったところにいってしまったと思うのです。マンガ『ナウシカ』はアニメほどには読まれていないでしょう。そして、ある人から聞いた話ですが、連載誌である「アニメージュ」にはその結末に異論をとなえる投書が続いたそうです。

 いったいなぜでしょうか。

 マンガ『ナウシカ』には、論じたいことがたくさんありますが、とりあえず、結末についてだけのべます。
 マンガ『ナウシカ』では、大海嘯も王蟲・腐海もすべて旧世界の人間がしくんだ「世界浄化」のプログラムだったことになっています。そして、汚れた世界のみに生きられるよう、そして清浄な世界には耐えられないように、人間さえも改造されたことになっています。ドルクの聖都シュワの墓所にはこの「浄化」後の世界のために、旧世界の人間の「知と技」が封印されており、その管理者=「墓所の主」がいます。そして「たまご」状になった「憎しみをしらない浄化された人間」も実は用意されていました。旧世界の人間は、浄化までの作業を終わらされるためだけに存在していたのです(浄化とともに滅亡する)。
 ナウシカは墓の主と対決します。

 いくつか思うことがあります。



3. 最後にナウシカは何と対決したのか、ナウシカは何を訴えたのか
 その最大のものは、もはやここでは、「自然と人間」という構図は消えてしまっていることです。大海嘯、王蟲・腐海さえ人間がつくりだしたというのですから。

 ※そのほかにも、人間と巨大文明のつくりだした愚かしさの象徴である巨神兵(核兵器、国家、「神」、などをイメージさせます)は、ナウシカを「ママ」とよび、最後にはナウシカに「利用され」、「墓所の主」を滅ぼすこと、また──これはマンガでは初めからそうなのですが──トルメキアは単純な風の谷の侵略者ではなく、ナウシカはトルメキアの従属的な同盟国の代表として、戦闘にも参加し、実際にドルクの軍と戦争することなどがあげられます。しかし、これらはちょっとおいておきます。

 「自然と人間」そのものがもはや主題ではないのです。

 では、いったいなにがメインテーマになっていくのでしょうか。

 それは、自然にしろ、社会にしろ、破滅的な難局を前にしてどんな態度でそれにあたるのかということだと思います。

 マンガの『ナウシカ』では、くりかえし、ナウシカを「虚無」がおそいます。乱暴に言ってしまえば、それは絶望とか、投げやりとか、そういうものをあらわしていると思います。破滅的な難局を前にして、ナウシカだけでなく、私たちの前にこの種の誘惑が何度も訪れます。いま、世界全体が、地球環境のことにしろ、核兵器のことにしろ、民族戦争のことにしろ、難局にあります。一人の人生についてもいえるかもしれません。そこから「虚無」、絶望や投げやりに陥りたくなります。自殺もそのひとつでしょう。ナウシカはいちど絶望し、自殺をはかり、大海嘯にのみこまれるシーンがあります。そして、その「眠り」にあるとき、「虚無」がおそい、ナウシカはあやうくそれに呑み込まれそうになります。真実を見きわめること(浄化された世界)、周囲の励まし(セルム)によって、ナウシカは「虚無」から脱出します。これ(虚無)が、ナウシカ(そして私たち)を待ち受ける一つの罠です。

 そして、その反対の極に、もう一つの罠がまっています。これが「墓所の主」であり、ちょっとうまく表現する言葉がありませんが、ユートピア的な「進歩と理想の思想」です。「墓所の主」は、人間のみにくさを「浄化」して滅ぼし、新世界をつくろうと呼びかけます。そのために人間の知識と技術を動員しよう、とよびかけています。ナウシカはこれを痛烈に批判します。
 「墓所の主」は、愚かしく凶暴な人間を、賢明で穏やかな人間にとりかえ、理想社会を築こうという呼びかけです。
 ナウシカは、人間はどこまでいっても清濁あわせもち、その愚かしさゆえに、これからも殺戮と破壊をくりかえすだろうが、自分と自分の愛しいものをまもりつづけて生き抜いていくし、生きねばならない、と主張しています。それは、『ナウシカ』のラストで、ほかに呼びかける言葉もなく、「生きねば…」というただそれだけの倫理が残されてつぶやかれることにもあらわされています。



4. ナウシカの結論は誠実な苦悩だが、臆病な結論だ
風の谷のナウシカ 6 (アニメージュコミックスワイド判)  私は、単純に「墓所の主」の言葉に与するつもりはありません。しかし、ナウシカにいいたいのです。

 「私たちのいま言えることは、ほんとうにそれだけしかないのだろうか?
 人間は、目の前の破滅的な難局をのりきる賢明さをもっていることに、もっと確信をもつべきだ。
 人間は、いろんなまちがいや紆余曲折をへながらも、進歩をしてきたではないか。
 なるほど確かに人間は、どうしようもない、愚かしい部分、おくれた部分をたしかにもっている。しかし絶望のまん延する時代にあって、そのことを百回強調し、大声で叫ぶことに、どんな意味があるというのだろうか。『人間は清いばかりの生き物ではない』『人間は清濁あわせもつ』などというのは、くだらない一般論だ。
 いまこそ、人間の『清』の部分、どんどん大きくなっている人間の進歩と賢明さに確信をもち、新社会の建設の理想を高らかにうたいあげるときだ!」

 人間が聖人のようになって理想社会を建設するという考えはたしかに空想的です。どんな時代でも、人間は進歩的な側面をもちつつ、つねに旧時代の母班をおびた、おくれた側面を複雑に残しているという矛盾した存在です。その意味では、ナウシカの「人間=清濁あわせもつ」という議論は一般的には正論です。

 しかし、いま、その一般論をむなしくくり返すことにどんな意味があるのでしょうか。
それよりも、人間がこの20世紀のうちにも大いに進歩してきたことにしっかりと確信をもつべきだと考えます。それは願望ではなく、社会そのもののなかに実際にうまれてきている萌芽なのです。ナウシカ、というより、宮崎駿は、そのことへの不確信ゆえに、ナウシカをあのような結論におわらせたと考えます。

 戦争と平和の問題をみてもそれはわかります。侵略と殺戮と支配が野放図に行われた19世紀から、不戦条約がつくられ、二度の大戦をへながら、戦争を非合法においこみ、すべての民族が平等であるという国際機構と国際法がつくられてきたのではないでしょうか。
 環境問題でも、資本が利潤をもとめて公害をたれ流す時代から、二酸化炭素規制をはじめ、世界規模で人間がこれをコントロールし、規制する流れが力強く育っているではありませんか。
 政治体制も、世界の圧倒的多数が、野蛮な君主制を廃し、国民自身が自分の運命を決める民主主義、共和制が広がってきました。

 紆余曲折があっても、人類は殺戮と破壊を許さない社会を着実に準備しつつあります。ナウシカは「新社会をつくろう! 自然と共生し、殺戮と破壊のない社会を!」とたからかに呼びかけるべきだったのです。それが、多くの人が、アニメ『ナウシカ』でナウシカに共感し期待したことだったのではないでしょうか。マンガの結末は残念ながら、その期待を「裏切り」、臆病な結論におちこんでしまったといわざるをえません。
 私たちは、ナウシカの誠実で、ギリギリの苦悩に心をよせながらも、それをのりこえていくべきなのです。

(本文おわり)




余談■■■□■
 なぜ、宮崎駿はこのような結末に到達したのでしょうか。
 マンガ『ナウシカ』の最終は、ソ連崩壊、ユーゴ内戦と歩調をあわせて進みました。このことが、色濃く影をおとしたことはまちがいないでしょう。『未来少年コナン』では、侵略的大国インダストリアが小国ハイハーバーに敗れ、人類の愚かしい兵器=ギガントはおとされ、インダストリアの支配されていた民衆が蜂起して、インダストリアは崩壊し平和がおとずれます。このような進歩と理想にはっきりとたった作品をつくった宮崎からは、考えられないほどの後退です。

 宮崎はこう語っています。

「いちばん大きな衝撃的だったのは、ユーゴスラビアの内戦でした。もうやらないだろうと思っていたからです。あれだけひどいことをやってきた場所だから、もうあきてるだろうと思ったら、飽きてないんですね。人間というのは飽きないものだということがわかって、自分の考えの甘さを教えられました」

「『ナウシカ』を終わらせようという時期に、ある人間にとっては転向とみえるのじゃないかというような考え方を僕はしました。マルクス主義ははっきり捨てましたからね。捨てざるをえなかったというか、これは間違いだ、唯物史観も間違いだ、それでものをみてはいけないというふうに決めましたから、これはちょっとしんどいんです。前のままの方が楽だって、今でもときどき思います。……労働者だから正しいなんて嘘だ、大衆はいくらでも馬鹿なことをやる、世論調査なんて信用できない」

 ドルクの初代皇帝が「墓所の主」から知と技をうけとり、進歩の理想にもえながら、最後にはドルクが巨大な抑圧帝国に変質していくのはソ連の歴史に重なります。また宮崎はこんなことも言っています。

「自分の観念で、自分の感じたものをなんとかねじ伏せようとしてきた。それもやめた。今の政治家でも、ただ印象だけで見てます。…政治家としての能力がなくても、この人、いい人だと」

 ここには、理論への不信、自分の実感(好きだとか愛しているとか)への信仰、人間の進歩への懐疑といった、ナウシカが最後に主張したことがすべて顔を出しています。

 この批判はくりかえしませんが、マルクスについては一言いっておきたいのです。

 マルクスは、理想社会の絵図はまったく書きませんでした。彼の残した大著『資本論』は徹頭徹尾、現実の分析です。労働者階級だからいつも正しいなどという見方とも無縁でした。蜂起した民衆の未熟が、革命を失敗に終わらせたことも冷静に分析します。「利潤追求にふりまわされる社会をのりこえて、人間が社会の主人公になる」というマルクスの次社会の大まかな特徴づけと、ソ連はまったくかけ離れたものとなり、それ自体、マルクスと無縁のものでした。
 そういう意味では宮崎のいっている「マルクス主義」とは、宮崎のもっていた貧しいマルクス主義観であり、それが「崩壊した」にすぎません。

 しかしいいたいことは、そのことではありません。

 マルクスは、現実(資本主義)の格闘やたたかいのなかで、人権や民主主義、経済運営感覚にすぐれた人間の個性が準備され、次の新しい社会をになう基礎が、資本主義そのもののなからつくられることに注目しました。つまり、「墓所の主」のしめした理想や進歩と、ナウシカが直視した人間の現実を、いっそう高い立場で統一させたすぐれた理論家であり、私たちの答えもそこにあるような気がしています。


以 上

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