中村修『なぜ経済学は自然を無限ととらえたか』




 コミュニストすなわち「赤」系の人間であるぼくは、「緑」系の人(環境を重視する立場のグループ、「環境派」と便宜的に書いておく)が主宰する経済学のゼミに出ている。
 東京にいたときも出ていたが、福岡に引っ越してからはもう出る機会もないだろうとあきらめていた。しかし、最近は便利なもんだあるだべなあ。「Skype」という多角的に話せる無料ネット電話を使って福岡にいながらにしてゼミに参加するということをさせてもらった。

 今回テキストにしたものの一つがこれ。1995年の本だ。




自然は無限ではなく劣化する有限なもの



 自然は劣化する有限なものであるのに、従来の経済学は、劣化しない無限なものとして自然を扱い、無限に経済成長をつづけるという前提をおいてきた——中村はこう主張する。人間の生存基盤にかかわる前提を誤って設定してきた、というわけである。
 中村は、経済学の主流派ばかりではなく、マルクス経済学や厚生経済学にも批判の矛先をむけ、環境経済学にさえその「限界」を見るのである。どれも環境への配慮や認識は多少あっても、「自然は劣化する有限なものである」という前提がおかれていない、という。
 近代経済学やマルクス経済学など近代由来の経済学の根底には、ニュートン力学のモデルがあり、それゆえに「永遠で一様な時間と均質な空間」が前提とされている——中村はこのように考えた。これが近代の経済学派の「無限の自然」という無意識の前提をつくりだしている、というのである。
 中村の結論は、「自然は劣化する有限なものである」という前提をすべての経済学がはっきりと置き、そこから物質循環を維持できるような基本原理をもつべきだというものである。経済活動が自然に制約されるべきであるという意味で、「農学」のような学問のあり方こそが持続的社会の方向を指し示す、とする。

 マルキストであるぼくは、中村の議論に親近感を覚えるし、なにより「人類の生存のためには無条件に自然=有限ということを経済学の前提におかねばならない」ということに刺激をうけた。




「環境にやさしい」程度ではすまない厳しさ



 「環境に配慮している」という程度のことではすまない、というのが中村の批判である。外部不経済のものを多少は内部化しましたよ、とか環境にやさしい施策もやっております、なんて話ではないというわけだ。そんなヌルい答えこそ、「自然は劣化する有限なもの」だという前提がなく、物質循環を確保することを基本原理においていないせいだと言わんばかりなのである。

「自然問題への現実的アプローチにおいて、地域性や個々の経済学者の認識・価値観が多様なため、内部化の作業は地域性・価値観に委ねられ、無原則とならざるをえない」(本書p.199)

 要するに、「物質循環の確保」という基本原理を厳密におけば、普遍的な回答が導き出されるし、それはかなり厳しいものであるのだから、経済学者ごとの気まぐれで手ぬるい「環境にやさしい施策」などというものはふっとんでしまうというわけだ。

 中村のいう物質循環を確保するためのキビしさを示すものとして、石油価格の設定をみてみよう。いまガソリン税の暫定税率廃止の問題が議論されているわけだが、暫定税率を仮に環境税に転換するとしても、いったいどれくらいなら妥当なのか。ぼくであれば、「いまリットル145円くらいだから、んー、やっぱり化石燃料を使わせないためには、200円くらいかなー」などと能天気に答えるかもしれない。
 中村は違う。「もし、基本原理がなければ石油価格は経済学者の価値観・各国の政治経済状況に応じて無原則に論じられ、科学的客観性を失った場当たり的議論に陥ってしまう」(p.214〜215)。

 中村は、炭酸ガスの増加をもたらさない薪燃料を想定する。
 薪採取のための労賃、ガソリンと同じように利用できる形態への加工……などを考慮して計算すると、薪1「リットル」分あたり1000円となるという。
 物質循環を確保するために、化石燃料であるガソリンから、再生可能な資源である薪への転換という物質循環確保のための政策が実施されなければならないとすれば、ガソリンは1リットル1000円以上になるというのだ。

 物質循環の確保を基本原理におくということの厳しさがわかろうというものである。

 マルクス主義において、資本主義の限界をしめすものとして環境問題への資本主義の無策ということはしばしば言われる。そして、資本の活動を社会的理性によってコントロールするという共産主義の方向こそがそこに活路を与えるのだ、ということはマルキスト陣営のなかでもしばしば語られる自負である。

 だが、実践においてそのことがどれくらい重要視されているか、ましてや経済学(もしくは政治経済学)の基本原理として「自然は有限」「循環の維持」をおいているか、といえばはなはだ心もとない。
 それはたしかに、せいぜい「持続可能」と言葉だけで述べているのではないのか、と言われても仕方がないという気になる。
 「市井の人々と話す」という活動家の現場では、なおさらである。
 ぼくらマルキストを地域で支えてくれている人には低賃金の人が多いし、苦しんでいる零細業者が多い。「ガソリン価格が高くて本当に困りますよね!」といって共感しあっているのが実際のところだ。
 一体どうやって「持続可能な社会にするためにガソリンはリットル1000円にすべきです」などと話せるだろうか。イッパツで支持がふっとぶ

 そうであるだけに、中村がここで提起していることは重いのである。

 だが、そういう刺激をぼくに与えてくれたにもかかわらず、この本のもっている論理構造については不満が大きい




原論批判ではなく現代経済学を内在的に批判すべきだった



 最大のものは、「現代経済学が自然を無限ととらえているのは、その原論が18〜19世紀の経済学に問題があるからである」という論立てをして、近代の経済学の原理的批判をしつこくやっていることである。

 中村はたとえば現代の主流派経済学で最も重要な概念となっている「一般均衡」という概念を確立するのに功績のあったワルラスを批判し、ワルラスが自然を無限だとする前提にたっているがゆえにワルラス以降の経済学では「自然=有限論」に原理的にふみこめないのだ、と主張する。
 しかし、ゼミの参加者からこのことについて、「ワルラスの枠組みでも自然=有限論の経済学はできますよ」という批判の声が出た。
 常識的に考えて「自然は有限である」という制約条件をおけば、いかなる経済学であろうともその制約条件を折り込んだ回答はできるはずである。原理的に無理、などと初めから相手にしないのはまず感覚的に納得いかないし、それを説得する材料も中村からは出てこない。

 中村は次のようにすべきであった。

 現代経済学で「自然=有限」だと設定すると論理的・モデル的・原理的に破綻するということを緻密に説明すれば、ほとんど自動的に原理的問題点は明らかになる。そのうえで「彼らの始祖である経済学者の○○のロジックのココに問題があるから論理破綻・モデルが崩壊するのだ」とやれば非常に説得力があるはずなのに、その作業をおこたって、「18〜19世紀の経済学者は『自然=無限』としていた」とだけ言うのは「そりゃあまあそうですけどね」とでも返事するしかないのである。そしてそれ自体は、1回言えばいい話で、中村のようにそんなにあれこれ「論証」を重ねる必要もない話なのだ。しつこい

 ひとことでいえば、近代の経済学の始祖の原理批判・モデル批判をするのではなくて、「現代経済学」にたいする内在的批判をすべきなのだ(ぼくが先ほどのべた、ガソリン価格の例はその一例であったのだが、十分に展開されていない)。
 やり方があべこべなのだ。
 18〜19世紀に起源をもつ経済学は「自然=無限」のドグマから出発しているので現代経済学は全部ムリ、という外在的批判をしてしまっているために、読んでいる方は「自然は有限であるという制約条件をおけば、いかなる経済学であろうとも、それを折り込んだ経済学はできるはずじゃないの?」という疑問が出てきてしまうのである。ニュートン・モデル(静的な力学的世界観)を粉砕しないと自然=有限論は展開できないのか、というとそんなことはないはずである。

 したがって、原論批判(18〜19世紀経済学批判)をやられると、ワルラス批判にせよリカードウ批判にせよ、そしてマルクス批判にせよ、言ってもしょうもないことをくどくど言っている感じがするのだ。




むしろ近代の経済学から学ぶべきである



 むしろこれらの18〜19世紀経済学からは「学ぶ」べきことをくみ上げるほうがいいと思う。
 ゼミの主宰者が話のなかで、「スミスは新自由主義の始祖ではない。もっとモラリストだ」みたいなことを言っていたが、たとえば、この点は非常に重要なことである。
アダム・スミスの誤算 (PHP新書―幻想のグローバル資本主義 (078))  今回ゼミでとりあげたテキストのうち、中村のほうでないテキスト(室田武・多辺田政弘・槌田敦編著『循環の経済学』)では、保守主義者の佐伯啓思の資本主義論、市場経済論もとりあげられている。佐伯の『アダム・スミスの誤算』『ケインズの予言』という二つの新書では、それぞれグローバル資本主義にたいし、それに対抗する「モラリスト」「国民経済学者」としてスミスとケインズを再読しているが、このような視点こそ本来必要ではないかとぼくは思う。
ケインズの予言 (PHP新書―幻想のグローバル資本主義 (079))  中村はこれらをすべて「自然=無限」論者として切り捨てていくのである(スミスにたいしても別格扱いしてはいるが、生かしているとは言いがたい)。

 今回のゼミでもう一つのテキストとなった室田武・多辺田政弘・槌田敦編著『循環の経済学』の方がこの点でははるかに示唆に富んでいる。
 たとえば『循環の経済学』第2章でブローデルや佐伯啓思、ポランニーなどの議論をひいて、「市場経済」と「資本主義」を概念的に区別しているのは非常に重要である。資本主義の否定がそのまま市場経済の否定へとつながってしまう議論にたいして、この整理は決定的とも言える批判的意味をもっている。

「確かに、現代の物質循環の危機は、単に技術論(リサイクル技術)だけで解決できない構造をもっている。生命系の循環を超え、増大し拡散しながら蓄積する廃棄物は、肥大し拡張し続ける人間社会の『欲望』の帰結の物理的表現であるからだ。そして、この終わりなき欲望の拡張表現は、自己拡張運動を続ける資本主義によってつくり出されている『社会的欲望』である。槌田の言うように『社会的欲望は社会的に解決するしかない』」(『循環の経済学』p.51)

「槌田は欲望を肯定し、市場メカニズムというものは、欲望によって作動する人間社会という熱化学機関の物質循環を促進させている社会システムであると捉えている。そのとき問題は、市場メカニズムの存在そのものではなく、それが自然の物質循環を破壊させないように制御するにはどうすればよいかということになる」(同前p.55)

 ぼくは、「自然=有限」という制約を経済学に挿入すべきだ、という主張にはほぼ全面的に賛成する。だが、現代ではそれをどうやって達成していくかということが問題の焦点になるべきで、マルキスト的にいえば、「資本をいかに規制していくか」という謂いになるし、佐伯のいい方であれば「スミスやケインズから学べることはないか」ということになるだろう。また、社会的な支持をどうやって調達していくのか、ということも大きな問題になる。
 『循環の経済学』には過去の経済学に対して、こうしたリスペクトがあってぼくも面白いのに、中村本の方はそれがないので、なんだかなあという気持ちが残るのである。




中村のマルクス批判への批判



 ちなみに、本書でなされているマルクス・エンゲルスへの批判についても、ぼくには不満が残る。マルキストとしてここは一言。言わいでか。

 たとえば中村はエンゲルスが熱力学に不信感をもっているかのように書いているのだが、そもそも中村自身が書いているように、エンゲルスは熱力学の第一法則を、近代科学史をぬりかえる大発見の一つとして高く評価している。なぜ「エンゲルスの熱力学への『不信感』」(中村p.39)などと言えるのかさっぱりわからない。
 第二法則であるエントロピー増大則に対して否定的な見解をのべたのは、クラウジウスが「最初の加熱→熱的死」という世界観を描き、そこに「神」が入り込む余地があること、実際に観察されたのは自然法則の半分でしかないのに、その半分を絶対視してひとつの宇宙像を構築しようとしたことへの批判であった(マルクスへの1869年3月22日の手紙)。なのに、そういう事情を無視して中村が“エンゲルスがクラウジウスを批判したのは、エンゲルスの奉ずる否定の否定の法則と矛盾するからだ”、などと解釈するにいたっては呆れる他ない。

 また、中村のマルクス批判は、「経済学では生産と消費が永遠に続くかのような議論がおこなわれてきた。例えば、マルクスが再生産を論じるとき、単純再生産と拡大再生産の二つの場合に分けて説明している。しかし、ここで論じられるのは経済的価値だけである」(中村p.91)、「マルクス経済学における経済の再生産や拡大再生産……では、これらが永遠に続くかのように論じられていて、いつまで続くのか、どこまで成長するのかは明記されていない。このような姿勢は、明らかに無限の自然という仮説を利用しているということである」(中村p.126)、という点に集中している。

 あるいは、マルクスを含めたリカードウ以後の経済学が、自然・労働・商品の質、すなわち使用価値を問わず、抽象的な経済的価値のみを論じるようになったことを中村は批判している。

 だが、マルクスの再生産論にせよ、価値論にせよ、それは資本主義の現実を記述したのであって、マルクスがめざした社会のことを論じたものではないことは明らかである。
 マルクスはむしろ自然との物質代謝がうまくいかなくなることをふくめて、資本主義のもとでは再生産がたえず撹乱されることを論じたのだし、さらに本来労働生産物には使用価値と価値があるのに、資本主義のもとでは使用価値(質)が捨象され、経済的価値だけが追求されてしまうことをラディカルに批判しているのである。
 そして、経済的価値だけを化け物のように追求する社会から、自然・労働・商品の質という視点を経済に復活させ、社会的必要や社会的理性の見地から再生産を保障する=持続可能な社会を考えたのがマルクスであった。

 なるほどたしかにマルクスは「自然は劣化するし、有限である」ということを明示的に自分の経済学の大前提にはおいていない。しかし、むしろ自然を無限のものとみなして循環ができなくなるまでに自然を搾取しつくす資本の活動に対してのブレーキを述べたのがマルクスであり、マルクスから学ぶべきことは多くあるはずである。(マルクス・エンゲルスの自然観については、たとえばこちらを参照)

 中村がマルクスのこの側面にあえて目をつむってしまい、あるいはエンゲルスの態度をわざわざ曲解しているのは、中村の前提になっている「これまでの経済学はすべて自然を無限だと考えてきた」ということを無理に証明しようとしているからにほかならない。

 中村は近代の経済学者も自然にたいする重要な認識を示しており、それを活かせば多くのことがひきだせることにうすうす気づいている。しかし、それを言い出せば自分の立論のインパクトが薄まってしまうために、「有限な自然という認識を持っていたが、経済理論のために無限の自然を仮説としておいた」(中村p.128)というぐあいに、「認識はしているが前提にはしていない」などという不自然な区別へと走ってしまうのである。

 くり返すが、中村は原論批判をやるのではなく、あくまで現代経済学を俎上にのせ、その内在的な批判をおこなうべきだったのである。





日本経済評論社
2008.3.4感想記
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