植芝理一『謎の彼女X』



 西炯子『STAYプラス』の感想のところでのべたように、高校生男子のぼくにとって、「不思議系の女子」+「知性の匂い」という同級生の女子というのは、たまらん存在だった。

 いや、厳密にいえば、そういう女子は現実には存在しなかった

 女性になぜ自分がこれほどまでに焦がれるのか、という強烈な気持ちが高校生のぼくにあった(その気持ちの実体は「性欲」が80%くらいなんだろうけど)。
 それほどまでに欲しているのに、対象となる女子という存在は、まったくわけがわからない存在なのだ。何を考えているかわからない。

 芸能人とかファンシーな小物とかに心を奪われているような態度がバカ=非知性的な存在のように思えた(すいません、過去の話ですので)。学校勉強の成績がちっとばかしよかったという程度で「日本一の知性」とマジで思い上がっていたぼくからすると(すいませんすいません)、そういう人間の内実をわからない女子どもが侮蔑にあたいする存在に感じられたね。うん。

 ぼくが中学校時代に好きだった女の子は、ぼくではない別の男子が好きだったのだが、そいつはぼくよりもはるかに学校成績順位的に下だった。そのことをそのまま知性の高低だとみなしたぼくは(わぁっ)、女子一般に「愛」と「憎」を感じたわけ。
 これは高校に入っても本質的にかわらなかった。なぜおれを理解しない、と。

 女子一般にたいする、神秘的な印象、かつ、なんらかの侮蔑的感覚がその時代にはあった。
 ぼくの脳内で、女性が侮蔑からぬけだすには、唯一その女性が「知性的」である、とぼくが判断したときであった。
 「神秘的で知性的」! たちまち、その女子を聖潔なものとして崇拝することになる。

 高校時代、それに近い女性は現れた(もちろんぼくの脳内でそういう印象だったというにすぎない)が、自分が求めた理想の女子はついに現れなかった。当たり前だが

 かくして神秘的で知性的な女の子(ぼくの場合はこれが「年上」という観念と結びつきやすかったわけだが)は、ぼくの頭のなかで考え出された理想像であった。妄想だ。

 妄想であるからには、それは性的でなくてはならない。
 性的存在であるぼくをやさしく受け入れてくれる、やはり性的な存在であることが必要だ。『ちまちま』のところでの感想でものべたように、肉体的結合でさえイメージしがたい高校生だったぼくにとって、必ずしもこの妄想において「性的」であることは、リアルなセックスでなくてもいい。むしろ、セックスに至る前のお互いに交わしあうインタラクティヴな行為こそ、ぼくが求めていたものだった!

 こうして、「神秘性」+「知性」+「双方向的な性」として、「理想女子」の妄想造形が完成する。

謎の彼女X 1 (1)  さて長々とぼくの妄想をまたしても述べてしまったが、植芝理一『謎の彼女X』は、ぼくの理想の妄想体のある部分を確実に体現している。

 主人公椿明(つばき・あきら)の高校に、謎にみちた卜部美琴(うらべ・みこと)が転校してくるというシンプルな設定の物語だ。


 植芝はおそらくぼくと年が近いせいもあるだろうが、出てくる高校生の格好、文化、雰囲気のすべてが、ぼくの高校時代にきわめて近い。
 スカートが意外に長めであるとか、ルーズソックスや今なら黒のハイソックスを履かせないという点でも(椿が中学時代に好きだった早川というキャラクターには黒のハイソックスを履かせている)、80年代後半〜90年代初頭的である。

 それは、なんだか、ぼくの高校時代なのだ。

 うん、これはある意味で、高校生のころのぼくの心象風景をデフォルメしたものだといってもいい。


 卜部は、ほとんどしゃべらない。そして前髪で顔がいつも隠れている。授業が終われば、いつも机に突っ伏して寝ており、女子的(いや男子もやりますが)な「群れる」コミュニケーションを拒否する。そして授業中に、突然大声で笑い出してイスから転げ落ち、「非常に個人的な出来事なので」と説明もせずに、また座り直してしまう。

 荷宮和子が「押しつけられた親密性競争」と題して〈普通の女の子に思われたいなら、いつも一緒にトイレに行く友達をキープしておかなければならないというプレッシャー〉について書いたことがある(荷宮『アダルトチルドレンと少女漫画』p.24〜25)。
 卜部は、このようなプレッシャーにも耐えられる超絶的な神秘性をもっているように見える。そして普通の女子に加わらないというだけで、すでに知性の資格をもっているような気になるし、卜部の整然とした喋り方は(ときどき「なんでって言われても……わたしはそういう人だから」と、論理が飛躍するけど、それは非知性ではなく神秘性なのだ!)ぼくには十分に「知性」を感じさせた。

 安彦麻理絵は、しばしば自伝的にこうしたエキセントリズムをイタい過去として露悪的に描いたが、女子の「群れ」に加わらず、風変わりな行動(「個性」と認識される)をとる女子は現実に存在した。それを本当に写実してしまうと安彦麻理絵になってしまうのだが、この植芝の、卜部の描写は、現実の拡大辞の一つであって、現実を妄想として大きく育てたものである


 卜部は一ヶ月たっているのに、「手ぇつないでいい?」と椿がきいても、「だめ!」ときっぱり(見開きページで)拒絶する。なのに、自分の指先についたヨダレを椿になめさせる行為は「日課」とさせるのだ。

 卜部はカマトトなのではない。
 ある日教室で笑い転げたのは、どこかから声がして、「椿くん…… あなたが わたしの―― 生まれて初めてのSEXの相手となる男の子だ――って……」と言ったというのだ。
 指の唾液をなめさせることは、その先にはセックスがあるということが想定されている。
 うう、なんという神秘的かつ性的な状況。

 ついでにいえば、椿が卜部に自分の気持ちをうちあけるとき、キスをしてその気持ちを伝えようとするが、「ダメ! こんなありきたりなアプローチじゃダメ!」と封じてしまう。
 神秘的かつ知性的な性的妄想女子が、このぼくに求めるものは、「ありきたりなアプローチ」ではないもの、すなわち「個性」なのだ
 他人とちがうことが独創であり「個性」だとされる高校生時代にとって、ぼくを受け入れてくれる女の子は、ぼくの「個性」を理解してくれる女の子でなければならない! ここでも卜部は、ぼくの理想妄想体なのだ。

 いやもう、なんかそういうゴタクを捨てておいて、この漫画グラフィックがすばらしい

 放課後まで机に突っ伏して寝ていた卜部を起こした瞬間の卜部の顔の大ゴマ。
 机にヨダレの池をつくり、口からヨダレをたらしながら、眠たそうに「何……?」と椿に問いかける卜部の顔は、「けっこう可愛かったよな……」(by椿)。どころじゃねーよ。これはもうアレだと思う。
 そして、そこでヨダレの池を思わずなめてしまう椿。
 わかる、わかるぞ。放課後に好きな子のタテ笛を吹いた経験のあるぼくとしてはよくわかるぞ。

 いつもの植芝なら、この「よだれ」のフェティシズムを民俗学的なものに変換してしまうのだろうが(ex. 経血に神聖な意味を持たせるなど)、ぼくとしてはそれでは逆に面白くない。今回は、そこへはいかない。植芝は、今回、少なくとも1巻の範囲までは、体液に民俗学的な解釈をもたせず、あたかも、意識を「脳が産出する胆汁のようなもの」と主張した19世紀の半ばの俗流唯物論のような態度をとる。「すっごくうれしい事が起こると――口から大量に“よだれ”があふれちゃう」「それは―― 椿くんが今なめた“よだれ”が―― わたしが―― とってもドキドキしている時の“よだれ”だから……」などという卜部の言葉はそれをよく表している。あたかも、体液は、思想を伝達する分泌物であるかのようだ。



 正面からまっすぐに椿の目を見つめて自分の気持ちを伝える卜部。

「わたし あの日からずっと――
 今日みたいに

 椿くんが好きだって
 言ってくれるのを
 待ってたんだよ」

 卜部は振り返って叫ぶ。

「今日からわたしは――
 椿くんの彼女だよ!」

 これですよ、これ!
 陳腐なやり方として昨今捨てられがちなこのセリフ、このシークエンス!
 女の子は、ぼくらの好意を受けとめてくれるべく、待っていてくれるのです!



 ぼくは、植芝の漫画について、「進学校的高校生オクテ派のストライクゾーンど真ん中」だとかつてのべた
 植芝の絵はたまらなく好きだ。飽かず眺めることができる。かつて『夢使い』をその表紙のイラストだけでぼくは買ってしまった。雑然とした細部を積み上げる展開図も、そこで活躍する美少女も、ぼくの心に訴求する。
 高校時代の女子への心象風景を、極端にデフォルメした、その設定も大好きである。
 絵とデフォルトだけあげれば、植芝は「同志よ!」といいうるほどにぼくと同じ世界に生きている。
 しかし、問題が民俗学的な異世界描写に入ってしまうと、ぼくにとってはとたんに焦点をはずされてしまったものになる。今回の漫画はそうなるのかどうか。もし今のこの調子が続いてくれれば、ぼくは断然この漫画を支持するだろう。






講談社アフタヌーンKC 1巻
2006.9.3感想記
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