玄田有史・曲沼美恵『ニート』


ニート―フリーターでもなく失業者でもなく

 この本は、「内容がなにもない本」である。

 いや、それは語弊がある。
 データ的および社会学・経済学的分析が、乏しい本である。
 後から述べるけども、それは必ずしも「悪口」ではない。


 この本は、6つの章から構成され、おもに玄田が理論的な部分を担当し、曲沼がインタビューを中心にしたルポをその間にはさむ、という形でまとめられている。



ニートの定義

 「ニート」とは、これだけ有名になった言葉だから、いまさら解説の必要はないかもしれないが、「=ひきこもり」「フリーターの一種」だという誤解もあるので、いちおう本書での定義を書いておこう。

 もともとはイギリスの「教育、雇用、職業訓練のいずれもしない若者」(p.24)を指す言葉(Not in Education, Employment, or Trainingの頭文字をとった)であるが、本書が使う日本的な定義では、ぼくがまとめてみると、「働いておらず、学校にも行っておらず、その希望も失っている若者」ということになる。本書の言葉でいうと「この若者たちは、学校に行っていない。学校に行こうという希望も、ない。働いていない。働こうという希望も、ない。そんな就職にも進学にも希望を失っている若者」(p.20)で、統計上40万人いるとしている(本書以後、04年版労働経済白書では03年に52万人とされた)。

※なお、本書の算出法の疑問点については最後にのべる。

 イギリスと違うポイントは、ただ在学・就労してないというだけでなく、働くことも学校に行くことも「希望していない」という点だろう。これは統計上、ある明確さをもって算出することができる(本書ではハッキリのべていないが、おそらく就業構造基本調査)。
 フリーターは、おおざっぱにいって、「不安定雇用+失業者」(内閣府定義)で、前者はいいとして、後者も「職安で求職している」という条件がつくので、ニートとフリーターは統計概念上、きっぱりと区別することができる。(細かいことをいえば、就業構造基本調査に出てくる、「無業者」のうち「就業希望者」もフリーターである)


 そうすると、ニートとは「ひきこもり」なのか、ということが頭に浮かぶ。

 くわしくは本書を読んでほしいが、結論をいえば「(うつなどをのぞく)社会的ひきこもりも含むが、それよりもっとさまざまな状況にあって『就活(就職活動)の前段階で立ち止まってしまった』人たちが、ニートなのだ」(p.49)ということになる。
 つまり、「社会的ひきこもり」⊂「ニート」、だ。

 玄田と曲沼が強調したいニート像とは、畢竟つぎのようなものになる。

「ごく普通に生活しているように見えたり、他人ともけっこうメールしたりしているけれど、心の奥底に深い孤立感と漠然とした自信の喪失感が潜み、それがきっかけとなって明確な理由もなく就職ができないでいる、そんな人なのかもしれない」(p.50)。



アマゾンのレビューで賛否両論になっているワケ

 Amazonのカスタマーズレビューには46件(2005.3.5現在)というかなりたくさんのレビューが書き込まれているけども、半分くらいはこの本にケチをつけている。

 ケチをつけているうちの半分は、「ニートというのは働く意思のない奴らなのだ」式の、ニートに対する鬱憤晴らしのような書評ともいえぬ書評。相手にしなくてもよい

 あとの半分は、「本書の構築(ママ)は非常に悪い」「ばらばらであり読むのがつらいし、論点がずれているから読んでもニートについてはわからない」「個々の情報も稚拙」といった具合の批判である。こちらの批判はむべなるかな、という気がする。


 ニートについてではないが、丸山俊『フリーター亡国論』、山田昌弘『希望格差社会』、橘木俊詔『脱フリーター社会』のような、統計的手法や社会学的な分析(ニートを生み出す原因はかくかくで、ニートの特徴は統計的にいえばしかじかである、といったふうの)を期待して読み始めると、「『ニートの実像はよく分かっていない』ということ以外は、実はあまり述べていない本」(Amazonのカスタマーズ・レビューより)という感想をもってしまうのは無理もないだろうと思う。

 「たしかに、わたしはそのとき悩んでいた。ニートをインタビューしはじめて数カ月が過ぎていたが、ニートとはいったいどういう存在なのか、まったくつかめずにいた」(p.89)という曲沼の言葉は、この本のある意味でスタンスを象徴的に表している。2章のインタビューを読んでいると、ニートについての統一したイメージは浮かび上がらず、原因や特徴といった、そういうわかりやすいものを求めた読者はイラつかされる。

 したがって、ぼくが冒頭にのべたような感想が当然に生まれてくるのである。


 あるいはもう一人の著者である玄田も次のようにのべる。

「『ニートはなぜ増えたのか』
 ニートのことについて、マスコミや政治家、政策担当の人たちと話すと、きまってこう聞かれ続けてきた。しかし、私は、質問に答えるのに、いつも言いよどんでしまう。
 人がなぜ不登校やひきこもりになるのか、決定的な原因はいまだにわからない。なぜある人はニートになり、別の人はそうならなかったのか、ほとんど違いはないようにさえ思う。ニートが数年間で急に増えたことも、はっきりとした理由はわからない。ニートについて考えたり、話を聞けばきくほど、『なんともいえない』『それぞれ違うし』としか言えなくなってしまう」(p.252)

「いずれにせよ、大事なことは、ニートの原因を分類してわかったような気になることでは絶対にないということだ。一人ひとりのニートのなかでは、労働市場、教育、家庭にかかわる生きづらさが、本人のチカラだけでは解きほぐせないほど複雑に絡み合い、それぞれの現状を生んでいる」「だからこそ、一人ひとりの状態をまるごとそのまま理解しようとすることからしか、すべてははじまらない」(p.258)

 これが、玄田および曲沼のスタンスの核心であろうと思う。


 そこで玄田・曲沼が選んだ方法論は、ぼくが推察するに、(1)ニートの逡巡や模索を、決めつけせずに、そのまま受けとめてみる、(2)即効的な就労対策としてのみアプローチしない、というものである。

 その結果、あいだに挿入される曲沼のインタビュー・ルポは、ある意味でとらえどころのないニートたちの「ためらい」や「ふみきれなさ」をそのまま載せることになったのだろう。
 また、中学生の長期(1週間程度)の勤労体験に着目したのは、促成栽培的な職業観の育成ではなくて、心の深いところでくり返し立ち返ることができるような原初的な体験を重んじたからであろうと思う。

 したがって、“わかったふうに分類したり分析してニートを理解したつもりになるな。本気で彼/彼女らに向き合うという、社会の側の姿勢こそが必要なのだ”――全編をつうじて、2人のこのような思いだけは強烈に伝わってくる。(背景となる原因については、最後で不況による労働市場の変化、二極化する教育、家庭の変化という3つだけがのべられるが、それもあくまで背景にすぎない。)

 こういう「全力でニートにぶつかってみる」、という姿勢が感じられるがゆえに、6章での玄田の議論は、「就労についての高みからの説教」というより、「五里霧中のなかでおぼろげにつかんだヒントを、必死で言葉にして読者に提起してみる」、という切迫が感じられるものとなっている。


 中学生=14歳の労働体験にしても、玄田や曲沼はこれを解決策だとは扱っていない。
 そのヒントになるとりくみだとはしているが、全体が模索につぐ模索(それこそニートの頭の中のように)になっており、現時点で確定的なことはあまりなく、とりあえずつかんだ事実をそのままほうりなげてみた、という感じの印象をうけた。


 だが、これは、ある意味、耳を傾けるべき方法論ではないだろうか。

 左翼の仲間たちと話をしているとき、「ニートについては就労対策という点からだけ考えると、アプローチを誤るかもしれんな」といわれた。もっと極端に、「あれは労働問題じゃなくて、教育にかかわる問題だよ(家庭が悪いとかいう意味ではなく)」という人もいた。
 だから、フリーターの問題とアプローチを変えることは、ぼくは間違っていないのではないかと思う。

 玄田や曲沼の言っていることが当を得ているかどうか別にしても、「まずニートのありのままの模索や逡巡を受け止めようではないか」という姿勢は、正しいもののように思われる。



なぜ14歳の就労体験がヒントになるのか

 玄田・曲沼が五里霧中のごとき中でようやくみつけだしたヒントは、先にものべたように「中学生=14歳の勤労体験」である。


 すなわち、この二人の頭のなかには、次のような問題解決の流れがあるといえる(ぼくによる非常に乱暴なまとめ)。

“ニート(や若者全体)は、人づきあいなどの会社の生活がうまくやっていけるかどうか極度に心配している。また、やりたいことがみつからないことでも悩んでいる。ひとまとめにいうと、「跳ぶ前に考えている」。考えすぎている。そういうときに、嫌いな仕事だと思っていたものでもやってみたら意外とそうでもなかったなという体験や、コワいと見えるおじさんが実は仕事の倫理をたたきこむがゆえの愛で厳しくしてくれているのだとわかる体験、あるいはキツくてしんどいけどもなんか充実感があった体験、逆に理想的っぽい仕事も実はキツいのだという体験など、なんでもいいから「実践によるブレイクスルー」をした体験があれば、一歩をふみだす勇気がもてる。問題はその一歩につながっていく力をどこで養うかだ。それには、迂遠に見えても、中学校のときに長期の労働体験をしてみるのはいいのではないか”


 だから、玄田は14才の就業体験が「職業選択」に結びつくことなど何の期待もしていない。生きる上で、大人になってから立ち返れるようなものをどこかで学んできてほしい、社会がなしうるその一助が就業体験でであり「現在考えられる、ほとんど唯一のニート防止策」(p.143)ではないだろうかと玄田はいうのである。

「14歳が一週間働く意味は、そこでやりたい仕事をみつけることではない。自分がやりたいと思ってやってみた仕事の現実に触れ、自分の持っていた希望や夢がいかに表面的であったかを知ることの方が、ずっと意味がある。逆に、仕事なんて、それが自分にとってやりたいことでなかったとしても、それはそれで面白いこともあるんだと、感じられれば、もっといい」(p.139)

「五日間のなかで、大人が驚くほど、14歳たちは多くのことを学んでくる。ものづくりの現場では、仕事には何にもまして安全が優先されなければならないことを。病院や老人ホームでは、見聞きしたことを軽々しく口にしてはならないプライバシーの大切さを。何より、ちゃんと『あいさつ』さえできれば、自分は否定されない存在となりえることを。地域に生きる大人との交わりのなかで、14歳たちは、社会に生きていくための対応力が自分のなかにも、ちゃんとあることを、実感してくる」(p.140〜141)
 
「増加するニートは、兵庫や富山の14歳たちが(勤労体験で)得たような具体的な実感が、スッポリ抜け落ちたまま、大人になっている」(p.142)


 とにかく、この本から学ぶべきことは、データや分析、解決策ではない。
 ニートや若者にお前は、社会はどうむきあっていくのか、正面からむきあっているのか、という「姿勢」そのものである。





 最後に細かい疑問・ツッコミを。

 ニートを統計上算出するうえで、「専業主婦」を除いていないのではないか(p.18〜20)。厚労省のニート算出ではちゃんと除いている。
 p.23「家事や育児のせいじゃない」でのべているのは主婦のことだろうと思うのだが、「主婦もニート」ってことか?(たしかに「非労働力人口」だし「非在学」「就業非希望」だが)