本田由紀・内藤朝雄・後藤和智
『「ニート」って言うな!』

――感想その2



※感想その1からのつづき

「ニート」って言うな! 問題は、本書の〈第2部「構造」――社会の憎悪のメカニズム〉である。

 第1部は、たとえばぼくの『ニート』書評への反論というふうにも言えるが、第2部は、ぼくが佐世保小殺人事件への家裁決定について書いた感想への反論にもみえる。いやー、俺様ごときに3人がかりで総反論か、オイ?(いえ、もちろん偶然です)。

 「ニート」をめぐる議論の問題のコアにあるのは、本田が明らかにしたように、本来は「ニート」問題というのはフリーター問題に吸収されるべきものであり「社会の構造」(経済構造)の問題のはずなのだが、それが本人や家庭の責任=個人責任として把握され、一方的にバッシングされているという点である。

 つまり第3部で、東北大の現役学生である後藤が、(ちょっと執拗な、かつ、単純すぎると思えてしまうほどに)問題の腑分けをしているように、要は「個人の責任か社会の責任か」という問題なのだ。

 ニートを「個人責任」と「教育」で結ぶ問題の現れ方は、“ニートになってしまうのは本人の責任であり、親(や甘やかす学校)の教育が悪いからで、教育そのものを見直して叩き直さなければならない”、というふうなものだろう。

 第2部の冒頭で、内藤が〈全体主義とは、教育が社会を埋め尽くす事態をいうのではないでしょうか〉(p.114)とのべていることは、こうした議論を念頭においているのではないのだろうか。内藤にとって、こうしたふうにあらわれる教育というのは、〈他人に特定の生のスタイルを無理強いせずにはおれない歪んだ情熱〉(p.206)として認識され、〈教育は阿片である〉(p.182)という認識にまでいたる()。


 “ニートになってしまうのは本人の責任であり、親の教育が悪いからで、教育そのものを見直して叩き直さなければならない”という認識を具体的な形でしめしているのは、たとえば第3部で後藤がとりあげた朝日新聞投書欄の怒れる老人たちであり、保守論壇である。後藤による、投書の紹介部分を引用しよう。

〈この投書は八五歳無職の男性によるものだが、自分の就業に関する艱難辛苦を書いた後、「ニート」につて、《辛苦を経験した私には、その甘えぶりが腹立たしい》と感情的な批判を投げかけている〉(p.267〜268)

 この85歳無職の男性にとって、「ニート」と自分は完全に切断されている。「ニート」は自分とは何の共通性ももたない、理解不能な異物なのであり、この老人にとって外的なもの、まったき「他者」である。
 これは推測の域をでないが、おそらくこのような怪物たる他者が仮に犯罪を犯せば、この老人はその「ニート」=他者を異常者として断固とした厳罰を加え、世界からの追放をのぞむであろうし、そのような怪物を生み出さないための「教育」を社会に要求するであろう。

 そこでは、他者も外的なものであり、その他者に働きかける「教育」もまた外的なものにならざるをえない。
 本来教育は、教育者である私と教育をうける対象である彼/彼女が同じ社会のなかで暮らしていることを前提としながら、その子のなかにある発達の芽を法則的に促進するという作業である。同じ社会でくらしている以上、共通した発達の法則をもっているはずだが、一人ひとり事情がちがっていることに見合ってその促進の形を変えるものだ。
 私と彼との間に普遍性を見いだしつつ、彼の特殊性に光を当てる。
 そして、外側からいくら「促進」しようとも、あくまで発達するのは彼自身であり、彼自身の中にあるものに働きかける以外にはない。
 このような教育観においては、教育は内在的なものである。

 そうではない「教育」とは、まったく白紙の生徒を「染めあげ」ようとする行為か、自分とはまったく別の、理解不能の他者を「改造」する営みでしかない。洗脳に近い行為だ。
 
 85歳の老人がおそらく施したがっている教育とは、「甘え」を叩き直し人間を「改造」する教育なのではないかと思う。社会か個人かという問題軸において、ここでは「個人」という答えしか出てこない。


 ところが、内藤が第2部でとりあげるのは、このような「教育」の話というよりも、「少年犯罪」の話であり、しかもわざわざ佐世保小学校殺人事件という、いちばん不適切な例なのである。

 ワイドショーや週刊誌では、凶悪な少年犯罪については行為の凶悪性や異常さが強調されるとともに、本人の凶悪ぶりや異常さについても強調される。自己責任へと問題を収斂させ、異常者の排除、外的な「教育」の強制をもって終わるのが常だ。
 そこでは、「殺人少年」は、つねに自分たち=社会にとって他者であり、自分たちとはまったく何の延長線上にもない異物として受け取られている。


 ところが、佐世保小学校事件では、加害者となった子どもがあまりにも「ふつう」であったために、このような「他者」「異物」「異常者」としての受けとめをすることができなくなった。
 ぼくが紹介した大手紙の3つの社説も、程度の差はあれ、いずれも「ふつうのどこにでもいる子」が犯罪をおかしてしまった問題として把握された。
 ゆえに、この事件の受け止めは、加害者の一方的なバッシングではなく、自分たちの社会や人間関係の反省へとむかったのである。

 なるほどあげられている要素は玉石混交だろう。たとえば、ネットというメディアだけの影響で殺人を犯すということは考えにくい。
 ぼくは、一つの仮説として、こう考えた。若いうち、子どものうちはどんなふうにでも意識が先鋭化したり、行動が極端化する芽をどの子どもももっているはずだが、普通はそれが社会や家庭によって幾重にも保護カヴァーをかけられている。しかし、たまたま負の連鎖が重なってしまう偶然のなかで人を傷つけたり、ひょっとして殺めたりしてしまうところまで行き着いてしまうのだ。――
 だから、幾重にもかけられている保護カヴァーが劣化していないかどうかを大人たちが点検するのは、ぼくは正しい態度であると思う。たとえばインターネットについて、内藤はそれ自体では人を殺す力などないとしつつも、〈たしかにインターネットには、現実感覚の諧調を狂わせるような奇妙な作用があります〉(p.139)とのべているように、これは「外れやすい(こわれやすい)保護カヴァー」の一つだといえる。ゆえに親や教師たちはネットの使い方を教える。それはぼくはこの事件との関係でいっても、ムダなことではないと思う。
 そういうこと一つひとつに神経をとがらせるという社会の風潮は、ぼくは健全なものだと考える。

 ぼくも書いたし、内藤もまったく同じ論調で“凶悪な少年犯罪は昔ほど多くないし、それほど激増もしていない”と書いたが、それは内藤のいうような〈大地に足をつけないで、コンクリートに足をつけて、車に乗って豊かに生きている人のほうが、やっぱり善良なのだろうということです。歪んでいない、より素直なのです〉などというよりも、むしろ先ほどのべたような、過敏とも思えるような社会の一つひとつのとりくみが積み重ねられ、人権意識を高め、少年の凶悪犯罪を大きく減らしているのだろうと思えるのだ。


 佐世保小事件では、問題を異常者の個人責任としてとりあつかわず、むしろ自分たちに共通する問題として、まざなしを「社会」へと向けた――これは健全な世論の働きであった(くり返すが、そこであげられた対策の数々のなかには、首をかしげるものも少なくなかった)。だからぼくもとりあげたのである。

 ところが、内藤は、この事件をわざわざ「ニート」問題と共通する世論構造としてとりあげようとする。
 不適切だ、といわざるをえない。

 むしろ、ぼくは、内藤の発想にこそ、85歳老人が「ニート」を扱うような歪んだものを感じるのである。

 内藤は、〈殺人や強姦というのは、……〔中略〕……やはりよほど歪んだ人間が起こしていることが多いのです〉(p.135)とのべる。じっさい、佐世保小学校の事件についても、1.3億人のうちのたった1件のケースだとしたうえで、〈極めて珍しいタイプの事件〉〈一般的な青少年の像を描くような代表性はありません〉(p.147)〈極めて珍しいタイプの殺人者〉(p.149)とくり返している。
 そして少年への〈厳罰主義に反対すること〉(p.153)を、法秩序=人権秩序を守るという口実から批判するのである。〈価値の序列において、(被害者の)人権がたかが教育ごときの格下に成り下がってしまい、社会の根本かちとしての位置づけが失われてしまうのです〉(p.152〜153)。

 ここには、ニートを他者とみなし、問題を個人に還元する発想と、相似形のものが潜んでいるような気がしてならない。あるいは本人にその気がなかったとしても、佐世保小をめぐる少年犯罪をめぐる言説をひいて「ニート」問題を考えたことはまったく不適切なやり方だったと言わざるを得ないのだ。

 〈愚かな大衆の「レミング行進」の方が不気味です〉(p.115)――この言い方ひとつをとってみても、内藤自身にとって、ひとはつねに理解不能な「他者」としてとらえられているかのようだ
 〈愚かな大衆の「レミング行進」の方が不気味です〉という謂いは、焦燥に駆られた一部の左翼の物言いにそっくりだ。「社会は右傾化している」「大衆はファシズムを支持している」云々。「自分とひびきあう、おなじ普遍性をもちつつ、特殊性に彩られている存在」として見ずに、まさにそこでは、顔のないノッペラボーの「大衆」が「他者」として、自分の前に立っているのである。
 だから、内藤の提案する〈自由な社会〉(p.196)というのは、不透明なまま相手を許容する社会として構想されている。それは結論において正しいのだが、現実のコミュニケーションにおいては、そうした許容は、相手と交流し、うちとけ、「なんだ、あいつらもいいところあるじゃないか」という一定の「透明さ」=普遍性を確認しあうという作業ぬきにはありえないことである。しかしそうやってもなお、不透明なところが残るものであり、そのときに理解不能な部分を許容するという原則が生きるのではないか。

 最近、沖縄にいったとき、ぼくは同室に泊まった人たちとコミュニケーションをとるのに超苦手意識を感じ、みんないい人たちだったがその瞬間は苦痛すら覚えた。〈「存在を許す」自由の秩序は、「なかよく」しなくても安心して暮らせるしくみなのです〉(p.206)という内藤の提案は、ぼくのような都市住民層のある種の部分にはグッとくるものがあるのだが、現実の社会構想としては、一面的にすぎる。


 内藤の得意満面の「あとがき」があるのだが、この本は第2部がむしろ本全体の価値を台なしにしている。




※それにしても、社会学者って、「教育」ぎらいなのかね。本書で批判されている山田昌弘も『希望格差社会』のなかで自分の主張をのべたあと〈この視点から教育を考えることは、主流の教育学者、教育関係者(教師や旧文部省など)、教育評論家、一部マスコミには、たいへん嫌われる〉(山田同書p.159)とのべているしなあw



光文社新書
2006.9.1感想記
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