荷宮和子『声に出して読めないネット掲示板』

 「在日うざい」
 「低学歴、必死だな(藁」
 「女のくせに××××」……

 ネット上の巨大掲示板「2ちゃんねる」にあふれる侮蔑のことばのなかで、ひとつだけ出てこない言葉がある、と荷宮和子は気づいた。

 「貧乏人

という言葉である。
 荷宮はこう続ける。
 「真っ当な神経の人間ならば、『見るに耐えない』と感じるような差別的な書き込みをする人間とは、おそらくは『在日ではなく、女ではなく、低学歴ではないものの、しかし、低所得な人間』なのではないか」。
 荷宮が見た「2ちゃんねらー」像とは、小泉的な「構造改革」路線のなかで大量に発生する「負け組」グループである。もちろん「勝ち組」の人間など、世の中にほんのひとにぎりしかいない。急激に進行する格差と不平等化のなかで、一定の学歴を得ても「負け組」にならざるをえなかった圧倒的多数の20〜40代の、とりわけ男性日本人、これが2ちゃんねらーだというのだ。

 マルクスとエンゲルスは、『ドイツ・イデオロギー』を書いて、自らの発生根拠を知らぬ観念形態=イデオロギーを暴露した。当時のドイツの思想状況を読み解いたのである。
 そのひそみにならえば、本書は『2ちゃんねるイデオロギー』とでもいうべき著作である。

 本書の構造は、こうである。中心には「折り鶴オフ」という2ちゃんねるをめぐる事件をとりあげる。関西大の学生が広島の爆心地にある折り鶴を燃やしたことに端を発し、2ちゃんねらーたちが、「折り鶴を折ろう!」と呼びかけてまたたくまにネットの力によって大量の鶴を折って献鶴したという、「いい話」である。

 荷宮は、このエピソードが、(1)さまざまな条件のなかで、現実に近い年齢分布の参加者になったこと、(2)2ちゃんねるのなかでもっとも希望がもてるエピソードであること、に目をつける。
 そして、「折り鶴オフ」のエピソードを読み解きながら、まず、2ちゃんねるにおいて発露され、そして現実の日本においても勢いをましつつあるイデオロギー状況を暴露する。たとえば、それは、「素朴な反戦思想の消滅」であったり、負け組たる自分の情けなさを国家アイデンティティで補強してもらおうとする「いじましいナショナリズム」であったり、「明治的な男権思想の復権」であったりする。

 主として、自覚したくない「負け組」のルサンチマンと、戦後体験の風化による反戦思想の衰微が重なりあってできた思想状況だといえる。

 荷宮は、フェミニズムと手塚治虫的教養に裏打ちされた「素朴な反戦思想」の立場、いってみれば戦後民主主義的な立場から、このクソな状況にハッキリと警鐘をならしている。このような危機を、まず浮き彫りにする。
 そのうえで荷宮は、「ではどこに希望があるか」ということを、やはり「折り鶴オフ」のケースを使って読み解いていく。
 荷宮は、2ちゃんねるに現代日本の思想状況のリアルさがある、と仮定したうえで、まずその像をリアルにする作業からはじめ、同時にそうやってしあげた像の中から希望の芽をみいだすのである。


 いまのべたが、荷宮の立場は、フェミニズムと反戦にアクセントがおかれた、戦後民主主義思想の、かなり良質な部分である。荷宮はそのような規定をいやがるであろうが。
 しかも、読めばわかるが、激しく戦闘的である。
 前に、荷宮が黒田硫黄や吉野朔美の描く女性が理解できないといっていたのは、このような戦闘性からくる一種の偏狭だったのだ。そう思えば、許せるというものではないか。

 2ちゃんねるを軸としたネット文化を、時代の空気のなかで読み解いてほしいというのは、ネットに住む左翼の、だらしない欲望である。荷宮のこの一冊は、この欲望にこたえまくりだ。
 “こういうものを読みたかった”と思わせてくれる一冊。
 言っていることが当たっているかとか、的確かとか、そういうことはとりあえずどうでもいい。
 耳に心地よい言葉。だれかに語ってほしかった。
 だから、荷宮にシンパシーを感じているぼくのような者ほど、心してよまねばならないだろう。


 荷宮が「希望」として持ち出したもののひとつが、「しない善よりする偽善」という、2ちゃんねるの「折り鶴オフ」で生まれたフレーズであるというのは面白い。
 前にものべたが、ぼくの兄は、たとえば「赤旗」を読んで「なんか、面白くない。キレイごとが書いてある」という。あるいは、ぼく自身も、教師たちが教室で教える「民主主義」がいかに現実とかけはなれたものかということを、中学校のときは強烈に感じていた。「そんなこといったって、世の中は憲法なんかどこにも生きていない。自民党は汚職ばかりしている。世の中カネだという思想のほうが、よっぽどリアルじゃないか?」。

 そこに共通するのは、「偽善」の臭いだ。

 ぼくたちは、おもに学校をとおして「戦後民主主義」を知る。幼いころに育った家庭のなかでは、父が母をどやしつけ母だけが家事をし、カネや欲をめぐる世界が厳然と存在している。学校に入って、ぼくたちは民主主義というものを教えられ、その現実をくつがえす武器を手に入れるのだ。

 いや、その「はず」だった。

 戦後長い間、学校はそのような場所として、ある意味で健全に機能してきた。ぼくたちは、なんのかんのいっても学校で、現実を批判する武器を手に入れ、現実とたたかったではないか? 現在の女性漫画にも、そのような片鱗をみることができる。近藤ようこ『遠くにありて』では、高校時代、女性の自立について考え話し合ったシーンが挿入される。よしながふみ『愛すべき娘たち』、里中満智子『BOYS』、柴門ふみ『女ともだち』、と思いつくままに出てくる漫画群のなかでそのようなシーンが登場する。
 そして、多くは、現実社会に出てみてその理想が実現されずに苦労していることをぼやくのであるが、それはそのときの輝きからどれほど自分が流されてしまったか、という反省とセットになっている。

 しかし、いつの頃からか、学校で教える「民主主義」は、まったく現実と乖離した「空虚」なタテマエのように感じられはじめた。あるいはそう表現されはじめた。「偽善」という臭いになってしまうのだ。

 大塚英志がいっていたが、戦後民主主義は「善」の装丁をもっていた
 よいことであり、正しいことであるからやろう、という呼びかけである。
 その価値が攻撃をうけるなかで、戦後民主主義を批判する言葉や感覚は「偽善」として表現されるようになった。うちの兄が「赤旗」にいだいた感覚である。あるいは、ぼくが教師にいだいた感覚である。
 したがって、それと対をなす形で、リアリティをもちはじめたのは「悪」、もっといえば「露悪」である。
 兄が欲望した、80年代以降の「サブカル」的なものの特徴は「露悪」であろう。斜に構える、といってもいい。「正しさ」とか「善さ」というものを徹底して排斥する。そういうふるまいこそがまるで「リアル」というものでもあるかのように。
 ぼくが初めにマルクス主義にいだいた感情も、やはり「露悪」であった。国家は共同体なんていってるけど嘘っぱちで実は支配階級のためのものだ、民主主義民主主義というが実はブルジョアのための民主主義にすぎない、などなど。
 だから、兄とぼくは、右と左にわかれて、この「偽善」を批判したことになる。

 荷宮が「しない善よりする偽善」というフレーズに希望を見い出そうとするのは、ある意味で、戦後民主主義をもういちど、リアリティのある形で復権させようとする試みにほかならない。「ネオ戦後民主主義」とでも言おうか。
 荷宮は、「100%のキレイさを求めるのは傲慢だ」といい、100%キレイなものなど現実に存在せず、どこか汚れていることを口実に何もしない態度よりは、何%かの汚さをふくんでいて偽善といわれようが、やったほうがよっぽどよい、というのである。

 考えてみれば、平和運動などは100%利己的な行為である。我が身かわいさにやる運動が平和運動なのだ。同時にそれは100%利他的な行為でもあるのだが。

 先ほどものべたように、現実に存在するものというのは、主要な側面というものをもちつつも、たがいに矛盾しあうたくさんの側面をもった豊かな存在である、ととらえることは、マルキストの十八番であった。それこそが、戦後民主主義をほんらいリードできる思想であったのだ。
 たとえば、第二次世界大戦は「ファッショ対反ファッショ」という主要側面をもちつつも、同時に帝国主義同士の戦争であるとか、民族解放闘争であるとか、多様な側面をもっている。こうリアルにとらえれば、「自由主義史観」などといっている連中が「連合国=善、日本=悪というのはおかしい。米英も帝国主義の意図があったのだ」とか、「アジアの諸民族は解放されたではないか」とかいうたわごとが出ても、なんら動じることはない。

 ぼくたちは、「善」としての「戦後民主主義」をのりこえ、リアルな戦後民主主義というものを再構築する必要がある。




※戦後民主主義……前にものべたとおり、この言い方自体が、これを非難するために右派、そして「全共闘」的な側からもちだされたものであり、使い方には注意が必要。戦後思想をめぐる言説の変遷は、小熊英二『民主と愛国』が参考になる。

中公新書ラクレ
2004.1.18記
メニューへもどる