仲正昌樹『ネット時代の反論術』




ネット時代の反論術  タイトルに垂涎する人がいるだろうと思われるほど、ある種の人にとっては蠱惑的な本である。ブログ、掲示板、メーリングリストでボロクソにやられてしまって歯がゆい思いをしている人が反射的に手にとってしまいそうだ。

 そして、ぼくがそうだったわけだがな!

 〈本書は、そういうやたらムカつく相手に対してどうやって“反論”したらいいのか、ちょっとしたヒントを提供するための本である〉(p.10)と前書きにある。しかしすぐ続けて、〈無論、ちゃんとした教養があって、紳士的に会話することのできる立派な人格者であれば、他人に言われなくても、きちんと論理的に、相手の言うことを整理し、きちんとした言葉で、反論できる術を身につけているはずなので、こんな新書を読む必要はないだろう。そもそも、こういう新書を手に取ろうとする気にさえならないだろう〉とのべている。

 さらに著者の仲正は、こう続けるのだ。

〈私自身のように、あまり社会的マナーが身に付いておらず、ふだんは自分勝手に振る舞っているくせに、他人の理不尽さに対しては、やたらに腹を立てるチョー自己チューな現代日本人向けの本である〉

 〈私自身のように〉というエクスキューズを入れているが、これは単なる免罪符。仲正のホンネは、〈あまり社会的マナーが身に付いておらず……〉以降だ。
 
 そう。この本を手にした段階で、あなたはまともな人間ではないのだ。ぼくをふくめて、ね(免罪符)。〈“いい人”の場合は恐らくこういう本に関心を持たないだろうと思います。この本に関心を持った人は、ちょっと歪んでいる部類に入るのかもしれませんね〉(p.201)。


 仲正は反論を3分類している。

〈「反論」と私たちが日常的に呼んでいるものには、だいたい三つぐらいのパターンがあると考えてください。自分がどのタイプの「反論」をしたいのか自覚していないと、話が始まりません〉(p.52)

 いわく、

(1)見せかけの論争
(2)「相手」をちゃんと見て論争する
(3)「反論」という形を通じてとにかく相手を潰したい

 この分類はうなずける。実は、サヨからみても「反論」つうか「論争」というのは、大ざっぱにわけるとこんなふうになるのだ。



ギャラリーを意識した論争


 (1)の「見せかけの論争」というのは、〈議論する相手の方を見ているのではなくて、周りにいる人、つまりギャラリーの方を見ているということです〉(p.53)。
 この本の該当部分では、政治家の話がふんだんに登場する。小泉、民主党、共産党など。仲正は、「敵/味方」にわけることが政治の本質だというカール・シュミットの有名な言葉をひいている。まさに、政治においては、相手党派を論破するかどうかは本質的なことではなく、それによって自分が多数派を獲得したかどうかが問題になる。
 こういうときに、相手をみて論破することだけに執念をもやしている人間は政治家失格である。

 前、ぼくが入っているメーリングリストで、AさんとBさんが「論争」になったのを見たことがある。どちらもうっすらと党派的色彩を帯びた人であったが、AさんがBさんを粘着質的に攻撃。Bさんはひたすら謝り譲歩を重ねる。しかしなおもAさんはしつこく攻撃。
 しかし、気がつけばAさんは一方的にBさんをいじめているような構図になり、ギャラリーはAさんに批判的になっていた。しかしなおもBさんを攻撃し続けるAさんは、孤立していった。
 Bさんは、慇懃無礼に謝るのではなく、Aさんをできるだけ理解しようと、あるいは話をまとめようとする努力をしていた――少なくともぼくにはそのように映じた。これがBさんの好感度を高めた。

 まさにBさんは、論争すらせずに、「見せかけの論争」に勝って、ギャラリーの同情を得てしまったといえる。
 Aさんは、目先の論破や優越感に気をとられて、政治にとって大事な「味方をどれだけつくるか」という本質を忘れていたのだ。政治家失格である。

 このメーリングリストの論争は、「誠実なギャラリーが多数いる」ということが前提になっている。そこへむけてのAさん、Bさんの振るまい方だった。「誠実な多数のギャラリー」へむけての戦略なのであり、そこがターゲットであることを明確化した方が勝つ。

 ブログなどでは、また事情も変わってくるだろう。誰もこないようなブログでは、ギャラリーはいない。そのときは「見せかけの論争」は、するだけムダというものである。

〈何が自分にとって「味方」なのかを見定めたら、そこからもう外れないこと。「敵」がぎゃーっと騒いでも、受け流す。これが大切なポイントであることはすでに述べました。この方法を忠実に実践しているのが共産党だということも、もうお分かりですね〉(p.88〜89)

 共産党は、アピールする相手をターゲットにするので、論争そのもので勝つかどうかを気にしない、と仲正はいうわけである。〈バカに徹する〉(p.89)と形容している(ちなみに、仲正は右も左もひっぱたいているようにみえるが、本人の政治的スタンスは右に近いので、本書ではとかく左翼や共産党のやり方が槍玉にあげられる。ナイーブな共産党ファンやサヨの方は読めば、心臓に悪いので、読むさいには事前に医師にご相談くださいw)。
 実際には、論争そのもので多少なりとも勝たないとギャラリーにはアピールできんだろうが、目線が「ギャラリー」だということを仲正は言っているのである。

 仲正は言っていないが、公明党と共産党の論争をみるとよくわかる。90年代後半に共産党が上げ潮だったとき、脅威に感じた公明党がよくかみついていた。
 このとき、公明党の論争は、かなりえげつなく共産党をたたくやり方で、これは公明党にとってのギャラリーが「公明党支持者」であることを意味した。公明党は地方選においては、自分の支持層をきっちりと固めれば通る。
 これにたいして、共産党は、まさに仲正が書いているように、目線が保守層をふくめた多数の人間だった。公明党と同じ組織型政党ではあるが、固い支持者だけでは当選できないのが共産党だ。無党派層をどうとりこむかが課題になる。それゆえに、公明党と論争していても、公明党のようなえげつなさはない。

 この二つの政党は、自分がどこを見なければならないか、ということを実によく知っている政党であるといえる。



相手をちゃんと見ておこなう論争


 次に、(2)「相手」をちゃんと見て論争する、という問題である。
 これがおそらく、狭義の「論争」である。
 学問の世界ではともかく、政治の世界では、実はあまりない。

 しかし、政治の世界でもこのタイプの論争が絶対的に必要な瞬間がある。
 それは議会論戦だ。

 議会においては、ギャラリーにいくらウケようとも、行政当局を答弁不能もしくは意に沿う答弁に追い込まねば意味がない。追及としてそれでは落第なのだ。
 議会論戦においては、行政側は緻密に法制上の論理構築をしており、これをつきくずしていくことになるので、相手をちゃんと見ない限り論争にならないのである。

 仲正がこの(2)において指南していることはたくさんあるが、たとえば、〈論点はなるべく自分に有利になるように設定する〉(p.120)というのは、議会においては非常に大事なことである。
 質問の土俵を、本質的ないくつかの論点のなかでも、自分が絶対に負けないものを選ぶのだ。逆に言えば、いくら絶対に負けない論点であっても「本質的」でなければ、何の実も結ばないわけであるが。
 これはネットの論争においても、重要なことだ。
 相手はたいがい無防備に、思いつくままに言いたいことを言ってくるケースが多い。
 そして迎撃する側も同じで、思いつくまま、言いたいまま、カチンときたままに反論するので、ものすごく不毛で拡散した論争になってしまうのである。

 南京事件を描いた漫画が中断、謝罪に追い込まれた、本宮ひろ志「国が燃える」事件についてぼくは前に書いたが、あそこで右派の地方議員がやった手法がこれである。
 彼らは南京において大虐殺があったかどうかでは争わなかった。
 それは彼らにとって不利な土俵だからである。
 だから彼らが選んだのは、本宮の漫画が「写真を捏造している」という論点であった。じっさい、漫画にするにさいして写真に手を入れてしまっていたのだ。

 仲正はまた〈私を賢く見せる(客観性を演出する)〉(p.134)ということも言っている。「引用による権威付け」あるいは「あなたたちの陣営の有力人物であるはずの○○さんさえ、この問題については××と言っているではないか」式のものを、仲正はあげている。
 しかし、議会論戦ではしばしば使われるが、決め手にはならない。
 「権威」「相手陣営」、というのがだいたいにおいて質問側の主観的な思い込みであるからだ。というか、行政側はあくまでもそれを「権威」扱いや「自分の陣営」扱いせずにスルーしてしまうからだ。
 ブログでの論争も同じで、こういう反論をしてもまったく効き目がない。

 議会論戦では、行政自身が過去に言った答弁、現在だしている白書、したがうべき法律や条例などを持ち出すことが効果的である。仲正の「反論術」でいえば、〈相手の言質をきちんと取る〉(p.141)という点にあたるだろう。
 ブログでは、過去に相手が言ったことや、別の場所で発言していることをとりだすことである。



相手を潰したい論争


 最後に(3)の「反論」という形を通じてとにかく相手を潰したいという「論争」。仲正は対応する章に〈人格攻撃するケース〉というタイトルをつけている。

 ここで、ぼくの方で、ちょっと話を脇道にそらさせてもらう。

 冬目景の漫画の批判を描いていると、冬目ファンから嫌がられるわけであるが、冬目ファンというのは総じてオトナなのか、謙虚な人が多い。ぼくにメールをくれて、「あなたの批判、なかなか当たってるところがありますよね」などとこっちの主張を認めるみたいにしてフトコロに飛び込んでくるので、批判を書いていたこっちがオトナゲなかったかのような構図になって、恐縮してしまう。

 これにたいして、やはり読者層がコドモのせいであろうか、椎名軽穂ファンの反応はまことにお子ちゃまである。ぼくが、椎名の『CRAZY FOR YOU』のキャラクター造形を批判しているページがあるが、これに次のようなメールが寄せられる。

〈勝手なこというなこの馬鹿〉
〈あなたのお子ちゃま度は167%です〉
〈一体何様のつもりだ〉
〈だったら読むな〉

 こういうのはもはや人格攻撃ですらなく、ただの悪罵である。レーニンは「悪罵はその人物の政治的無能を表現する」と言ったが、まさにそのとおりで、こうしたメールが来ても笑い転げてしまうだけ。本当に何の打撃にもならない。仲正が1章でのべているように〈相手が「あまりにもひどい」時は、意外と腹が立ちません〉(p.34)。

 いまからとりあげる人格攻撃とは、こういう幼稚なレベルのことではない。

 閑話休題。

 仲正はこの章で、民主党のニセメール問題などをあげているが、この「論争」のタイプでいえば、政治の世界で一番多いのは、〈イメージ付けやレッテル貼り、バカが飛びつくようなネタを選ぶ〉(p.161)だろう。2ch文化でも、すぐ「在日だろ」「ブサヨのいうことだ」というレッテル貼りをする。

 政治の世界で多いのは、「あの人はアカ(共産党)だから」「あの人は右翼反動だから」という言い回しで、それによってもはや何の証明も不要な、ダメ言説扱いしてしまうというパターンである。
 石原知事は最近豪華海外視察や四男問題で集中砲火をあび、それをとりあげたマスコミを「共産党に踊らされた」と非難した。あれは共産党の言説なんだ、とすることで思考回路をシャットダウンしてしまうやり方である。

 多くは広い人々には機能しない。
 せいぜい支持者、つまり同じ文化をもつ者の中だけで通用する。先頃、ある選挙で対立候補を「あの人は右翼反動だから」といって批判している人を見かけたが、なるほど支持者はそれで説得できるだろう。しかし、有権者はそれでは説得できない。
 2chでも、「在日のくせに」と非難する言説がある。まず、その人が在日コリアンであるかどうかは、たいがいまったく無根拠である。そして仮に在日だとしてしも、それが一体、その人の言説の是非について一体何を証明したというのか、その非難からではさっぱりわからない。それはせいぜい2chのなかで同じ文化を共有するものだけで通用する言語でしかない。

 仲正は究極の人格攻撃として、自分が偉くなって相手をねじふせる、ということをあげる。〈それだと、“論争に勝った”ことにならないと思うかもしれませんが、思い出して下さい。この章での主題は、相手の人格を傷つけてぎゃふんと言わせることです。相手の人格を傷つけて、すっとしたいなんて本気で考えるあなた自身、もうすでに人間のクズですから、いまさら、いい子ぶるべきではありません〉(p.193)。

 結局仲正は、この本を本気で「反論術」にはしようとしていないと告白している。

〈全体的に「反論する技術」の解説本にはなっていない。どちからというと、何が何でも相手に勝とうとする反論合戦がいかにバカらしいか、そのためにいろいろな手練手管を使うことが、いかに消耗させられることであるか、アイロニカルに距離を置いて見るような内容になっている。もっと端的に言えば、「バカに対して反論するなんて、基本的に同じレベルのバカのやることだから、やめといた方がいいですよ」というメッセージがこもった内容になっている〉(p.314)

 まじめな忠告というより、ネットを中心にした「反論」というものを、面白可笑しく客観視して笑ってみよう、というシニシズムが本書の基調である。

 仲正のようにそういう態度でいくばくかのカネをもらえる人には、それでいいのかもしれない。しかし、まじめに政治や学問にとりくんでいる人には、論争というものはせざるをえないし(もちろん不毛な論争は避けた方がいい)、仲正はさんざん批判しているが、論争というものが明らかにプラスに作用し、新しいものを生み出すこともある。

 だから、ぼくは、この本で不毛な論争は回避することを覚えつつ、自分のしようとしている論争がどこに位置するかを冷静に眺め廻す、そのテコにつかえばいいのではないかと思っている。


 最近、竹内一郎『手塚治虫=ストーリーマンガの起源』への批判がネット上であいついだわけだが、この本の基準にてらしてみると、スキの多い論戦をされた方もけっこういたのではないかと思う。その筆頭がぼくだったりしてな。







仲正昌樹『ネット時代の反論術』
文藝新書
2006.12.15感想記
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