『西尾市史』&司馬遼太郎『太閤記』




 母方の祖母が亡くなったので、実家に帰った。
 これでぼくの父方・母方ともに、祖父母世代はすっかりいなくなったことになる。

 葬式で「庄屋の娘だった」と紹介されていた。
 母に聞いた話だと、庄屋の娘、しかも末娘だったので、「世間知らずのお嬢さん」だったようである。
 嫁いできた先(すなわち母の実家)は、貧しい農家。
 みそ汁の具にする油揚を近所に買いに行って祖父に激しく叱られたという。農家のみそ汁の具など、自分の畑でとれたものを使うのが常識であり、「買う」などということはもってのほかだったのだ。

 これが昭和初期。

 三河の農民にとって、「節制」こそがアルファでありオメガであった。
 葬儀の帰り、空港に送ってもらう道すがら、父親と車の中で話をしたのだが、うちの実家(これは父方の実家。母方の実家は別。以下父方の実家の話と母方の実家の話がやや交錯するので注意)はもともと米作農家だった。父によればこうである。

「だいたい80俵ぐらい穫れる。しかし、自分のところで20俵食う。後は親戚に分ける。そうすると、換金できるコメなんてほとんどない。40俵ぐらいだ。1俵1万円くらいなら40万円にしかならん」

 父はこういう農業にうんざりしたという。
 ゆえに父の父、すなわちぼくの父方の祖父は、徹底した節制の人で、実直を絵で描いたような人だった。まさにザ・農民である。

 実は実家に戻ったとき、地元の歴史書である『西尾市史 四 近代』を読んでいた。ずいぶん前に古本屋で買ったものの、読まずに積んであったのだ。
 母の実家は梨農家であった。
 西尾市の矢作古川下流一帯は、梨の産地として栄えてきた。いまでもぼくの家には母を経由して梨が送られてくる。
 『西尾市史 四』には「新興産業の興廃」という節があり、そこに「福地の梨」という項目がある。この地域での梨栽培は明治になってから始まったもので、それが広がるまでにはなかなかの苦労があったらしい。商品作物・換金作物として西尾市では養蚕がさかんだったのだが、大正期にかげりがみえ、その転換をはかることが模索されていた。
 矢作古川下流では、その作物が「梨」だったのである。

「新たに梨を栽培することは、商品経済に関する知識がなく、ひたすら米作本位の伝統的な農業を営んでいた当時の保守的な農民達からは、必ずしも歓迎されたものではなかった。A氏(横手町。大正十五年より梨栽培を始めた。)は当時を回想して『ややもすれば、梨栽培を白眼視しようとする人達に『蚕をやるも金儲け、梨をやるのも金儲け』といって説得につとめたが、一向に効果がなかった』と述懐している」(愛知大学『綜合郷土研究所紀要』8)

 つまり、米作からこのような換金作物に転換すること自体がすでに大きな飛躍にほかならなかった。母方の祖母はまさに米作農家の「節制」道徳のど真ん中にやってきて、「現金」を使おうとして激しく叱られたのである。
 その母の実家も梨農家になっていくのであるが、農民にとって現金を得る作物を手にすること自体がもうものすごいことだったに違いない。

「梨はかつて部落では経験したことのないほどに、直接現金収入と結びつくものであった」(同前)

 そして、1943年にようやく横手町(矢作古川ぞいの一集落)において25%を超えたという(『西尾市史 四』p.1133)。母はこのころ生まれているから、おそらく母の実家は梨農家にはなっていなかった、あるいはなりたてだったことが予想される。

 母方の実家とは別に、父の実家、すなわちぼくの実家では、祖父の代はずっと米作農家だった。米作の現金収入のむかなさは先ほど述べた通りである。父がうんざりしたのは、まさにこのような「農民」という生活そのものだった。

 そこで父は農業高校を出て、母と結婚しキュウリ栽培を始める。商品作物へ転換したのである。
 しかしやがてそれもやめて、今度は植木——苗木の栽培に転換する。西尾市の植木は「新興産業」とはくくられず、『西尾市史』でも「伝統産業の消長」という節の中に入っている。
 わが集落では始めたのが最も遅かった、という。

 しかし、父はこの農家としての「植木生産」に次第に飽き足らなくなっていく。

「つくる本数が決まっていて、売る値段も決まっている。だから、いくらくらいのもうけになるかということがだいたい見えてしまう」

 父はこういった。
 いくら商品作物であっても、「本数×値段」で決まってしまうものが農業であり、そんなものに全然魅力を感じない、と考えたのである。
 しかも「生産者」は卸(流通業者)に買いたたかれ、馬鹿にされたという。農民であるうちは、この地位から脱却もできず、もうけも先が見込めない、とふんだのだ。
 父は、「農民」から離脱することを決意する。
 といっても、家では祖父が権力を持っているので、おおっぴらにはできない。しかも金遣いが荒く、地元では札付きの不良だった父には祖父の信用がなかった。
 父はひっそりと埼玉や稲沢(愛知県)からきている植木業者に連絡をとり、流通のまねごとを始めた。生産ではなく、売れそうな商品を集めて必要なところへ流す仕事を始めたのである。
 祖父も祖母も母も反対した。明らかに農民的生活からの逸脱であり、いかにもあやうい商業的な投機生活のように思われたのである。

「おじいさん(祖父)たちは、根っからの農民で、額に汗する労働が実体的富を生むという発想しかなかった」

と父は言った(ちょい意訳)。
 父は稲沢や埼玉まで出かけて独自のルートを次々に開発した。

「当時はそんなことをする人はいなかった。西尾の中だけで生産と注文が完結していた」

 ぼくも小さいとき、父親のトラックに乗せられて埼玉や東京まで旅をしたことがあったが、それは実はこうしたネットワークを形成しながら商品を輸送している最中だったのである。
 独自で良質のネットワークであったために、かなり評判となり、商品がとぶように売れる。苦労して作ったネットワークなので他の追随を許さない。
 そうすると、これまで農家ゆえに日銭がほとんど入ってこなかったのに、その晩十倍ものお金が現金となって実際に入ってくるようになり、祖父や母もしぶしぶその力を認めないわけにはいかなくなった。

 たとえばピラカンを1本つくってもその額は知れている。しかし、質の良いピラカンをどこからか仕入れてきて、縁日などの需要がありそうなところに卸せばそれだけで巨利が得られる。農家ではこの自由さはない。
 さらに苗木ではなく「盆栽」というジャンルにもブームが起きようとしていた。盆栽こそ目利き戦、情報戦である。1鉢ン千万円もする木がよく家にあり、カタログの写真(「近代盆栽」「盆栽世界」などという業界誌があった)などをさして「これはうちで育てた」と豪語していた。木の育て方ひとつでものすごい付加価値がつくのだ。
 当時盆栽・苗木市場というのは近代化されつくしておらず、未整備な状態だった。大企業はここには入っていない。ゆえに、露店での販売、ヤクザのみかじめ料(のかわりに盆栽を高値で買う)ともつながっており、混沌そのもの。うちの父の風貌はしばしばヤクザと間違われたのだが、金融業者が昔はパンチパーマでソリコミをしていたのに似ていてヤクザとも渡り合うためにこうした「人にナメられない風貌」が必要になった。気性も荒い。地鳴りがするような怒鳴り声をあげる。ぼくも小さい頃、家にくる客で「あの人はヤクザだ」と何人かの人をさして教えられた。
 大企業などが入っていないということは、逆に言えば、個人の裁量でどこまでものびる余地があり、事実、父は勢力をのばしていった。
 当時は大変牧歌的で、家の庭でたくさんの盆栽を置いている家がどこにでもあった。そうすると、たとえばまったく知らない家なのに、父は車をとめて「ちょっとみさせてもらっていいですか」などといきなり人の家の庭の植木・盆栽を物色し始めるのであった。盆栽をしている人は、自慢屋であるので、「どうぞどうぞ」となることが多い。そこで名木を見つけようというのではない。そんなものは売らないからだ。むしろシロウトにはわからないが、将来名木になるようなものを買おうとするのである。何も知らないシロウトの盆栽家は安値でそれを父に譲ってしまう。

 これはもはや農家の価値観と生活ではない。完全に商人のそれである。


 しかし、なおも祖父は父を信用しなかった。
 父が金遣いが荒いことを承知していたので、一家の現金出納はすべて祖父が管理した。父は朝、母を媒介にして(つまり父だけの発議では信用できず、母が証人となるシステムである)祖父に「本日はいくらいくら要る」と申し立て、祖父が決済するということが家の中で行われていた。そして晩には現金をどかんと持って帰ってきた。たしかに小さい頃、札束を勘定した記憶がある。

「お父ちゃん(自分)は、50にもなってまだおじいさんに財布をにぎられ、自分の金などなかった」

といまいましそうに言った。「まあ、結果的にはそれがよかったんだが…」と付け加えたが。ただし、祖父は申し立てられた金額は、すべて出したという。
 現在は株式会社に移行しているので、このような形態は過去のものとなっている。
 だが、ぼくはいつも実家の家業を記すさいに「農業」と書くことを不思議に思っていた。そのような実態があまりないからである。たしかに畑仕事はしているが、もう米作も請負に出していて、自分たちではいっさいしていなかった。その違和感は正しかった。すでに農民ではなく、商人になっていたのである。

 以前、司馬遼太郎の『覇王の家』の感想を書いたが、三河的農民気質と尾張的商人気質の違いについて書き、織田や豊臣のような尾張的商人・投機資質ではなく、徳川のような三河的農民・保守気質が天下を最終的にとってしまったために、日本民族は鎖国などという閉鎖的で暗いことをやって民族性まで矮小化しちゃったんだよ、と司馬がなげているとぼくは書いた。

 司馬はこの見解を『太閤記』のなかでも繰り返している。

「現今はこの国〔尾張——引用者注〕は、隣国の三河と合併して愛知県ということになっている。いまなお三河部と尾張部は気質の相違で対立することが多いが、この中世の末期にあっては截然とこの気質の相違があった。
 三河には、徳川家康とその家臣団の気風で代表されるような、
『三河気質』
 というものがある。極端な農民型で、農民の美質と欠点をもっている。律儀で篤実で義理にあつく、侍奉をすれば戦場では労をおしまず命をおしまず働く。着実ではあるが逆にいえば、投機がきらいで開放的でなく冒険心にとぼしい。印象としては陽気さがない。……
 が、隣国の尾張はまるでちがう。……農民に金がある。
 そのうえ地勢的に商売がしやすいために人間が利にさとくなり、投機的になる。
 かつ、国の地勢が低地で河川の氾濫が多くせっかくの美田も秋になれば川に流されることがしばしばであった。当然、土地にしがみつく保守的な生き方よりも、外に出て利をかせぐ進取的、ときに投機的な生きかたをとらざるをえない。
 尾張は、農民まで商人的な気質をはやくから帯びているのである」(司馬『太閤記』新潮文庫版上p.10〜11)

 そしてこのコントラストがわが実家のなかに息づいていることを、葬儀の帰りの車のなかで思い知ったのである。


 なお、前述の生産者であった父をいじめぬいた卸は、老齢となって「生産者」オンリーの立場となり、父に逆にいじめられる立場になったという。





西尾市史編纂委員会『西尾市史 近代 四』
司馬遼太郎『新史 太閤記』(上中下)新潮文庫
2007.10.25感想記
この感想への意見はこちら
メニューへ戻る