二ノ宮知子『のだめカンタービレ』


のだめカンタービレ(1)

 クラシック音楽の題名は、時代と場所が遠く隔たっているために、思いもつかないようなマヌケぶりをみせたり、逆に、ちょっと今の人間では発想のおよばないカッコよさになっていたりする。

 ラヴェルは、日本人のおフランス趣味(って、おれか)とあいまって、なかなかヨイ。

 「亡き王女のためのパヴァーヌ」
 「マ・メール・ロワ」
 「高雅にして感傷的なワルツ」
 「夜のガスパール」

 これは他人には伝わらんだろうけど、ラヴェルの、クープランへのオマージュである「クープランの墓」というタイトルも、お気に入り。ちょっと突き放したようなタイトルのつけかたが、なんとなくクール。歩いている時、ぼくは、わけもなく「クープランの墓……」などと口にしたりする(あぶないって)。


 『のだめカンタービレ』で、主人公の野田恵=「のだめ」が、リストのメフィスト・ワルツのなかの、「村の居酒屋での踊り」という曲のタイトルに爆笑するシーンは、ぼくも爆笑した。のだめのむこうで、『平成よっぱらい研究所』を著した二ノ宮知子が、大爆笑している光景がアタマに浮かんでしまったのだ。

 居酒屋で踊り。

 酔い狂った「もりへー」か「おおひなたごう」あたりが、半裸でおどっていることだろう。
 いきなり、ゲーテから、「村さ来」or「庄屋」の世界である。
 曲中、「はいっ、よろこんで!」という合いの手が入るにちがいない。

 ほかにもクラシックのなかでは、ストラヴィンスキーの「火の鳥」のなかの、

 「魔王カスチェイの兇悪な踊り

などは、直訳調がマヌケである。
 しかし、見、見てえ〜。いやバレエ曲だから見ることはできるはずなんだろうけど、そうじゃなくてタイトルどおり、正真正銘の「兇悪な踊り」をさ(実際には、ミュートをつけて金管を吹奏しているので、このうえなくマヌケな踊りに聞こえます)。

 ディーリアスは、「大都会」「北国のスケッチ」「去りゆくつばめ」。
 って、演歌かよ。

 「アイーダ」行進曲でいまやすっかり有名なヴェルディでは、オペラ「仮面舞踏会」というのも捨てがたい。

 トリは、音楽の教科書で「モルダウ」の作者として知られているスメタナ。
売られた花嫁」。
 なんか、その、アレなタイトル。


 与太話はこれくらいで。
 『のだめカンタービレ』は、音譜を読むのが苦手だけど、一度聞いた曲は自分流に、デタラメに、しかし天才的に表現してしまう音大生・野田恵の物語である。
 いま現在(2004年5月)8巻まで出ているが、ぼくらは、主人公である「のだめ」について、7巻まで、彼女の才能の原石をただただ見せつけられるばかりで、いっこうにその「ビルドゥングス」を見せてはもらえない。これはなかなかすごいことで、7巻にいたるまで主人公の才能がほとんど開発されていかない、という「スポ根」を寡聞にして聞いたことがない。
 7巻まで、のだめの才能は、ごく片鱗しかしめされず、物語の大半は、のだめの恋人(飼い主)である千秋と、のだめの変人的友人たちによるオーケストラの物語ばかりを追う。のだめはそこでは「マスコットガール」としか扱われていない(実際に、作中でも「マスコットガール」という指定をうける)。
 ほとんどここまでぼくは、二ノ宮一流のギャグ読みたさに、どうにかこうにか引っぱってこられたにすぎない(二ノ宮は『グリーン』といい『天才ファミリーカンパニー』といい、このテの才能ある主人公格の男性の描写が好きなのだろうが、ぼくはあまり好きになれない。ぼくにとっては、ここでは、あくまでのだめの引き立て役) 。

 いや、ようやく「ハリセン」と称されるスパルタ教師の担当がのだめにつく7巻でさえ、のだめの成長ははじまらない。ハリセンこと江藤教授がハリセンをすて、のだめが「プリごろ太」のフィギアにつられてハリセンと練習の契約をかわすのは、ようやく巻の半ばである。
 しかも、のだめが正規の練習に移る前に、ハリセンは、のだめといっしょに、「もじゃもじゃ組曲」の完成を待たねばならぬのだ。

 これはぜいたくすぎるほどの時間とコマ数をあてた、成長の描写である。
 『ヒカルの碁』でさえ、ヒカルは見た目に成長していった。(ちなみに二ノ宮は同漫画の愛読者であるらしいが
 だが『のだめカンタービレ』では、のだめは、いっこうに成長をしていかない。

 いまの「もじゃもじゃ組曲」のエピソードでさえ、ハリセンとのだめが信頼しあえるパートナーになるための、二ノ宮風の儀式である。
 あのスパルタで冗談さえ解さないハリセンが、
「ちょい待ちー! そこはもじゃミと王子が愛を誓い合うシーンやろ!? 大事なトコやで! この和音を入れてみたらどうや?」
というではないか。

 読者はおそらくここでただ笑っているだけではないだろう。
 「あのハリセンが……」と静かな感動につつまれつつ、爆笑しているにちがいない。

 そしてようやくハリセン邸での「マラドーナ・ピアノ・コンクール」へむけての猛特訓。
 だが。

 ここでも、二ノ宮は、スポ根的な猛練習を描きながら、のだめの成長を単線的には決して描かず、「即自態」としての原石ぶりをひきつづき描き続けるのだ。
 すなわち、のだめは、自分の才能を自覚的、客観的にとりあつかうことができない。どうすればそれが成長していくのかも、あるいは、それを制御しうるのかも、何も自覚していない。
 それゆえに、あるときは超難解な技巧をやってのけて実に豊かなシューベルトを弾いたかと思うと、次の瞬間には、いい加減すぎるバッハ(「途中から聞いたことのあれへんフーガになって」いく)を弾く。

 のだめを高く評価する審査員の一人は言う。

「恋に我を忘れたドビュッシー? いや 彼女はそれを表現しているわけじゃない まだ……ベーベ(赤ちゃん)なのかネー」

 このセリフには、対象やそれを扱う才能とまったく距離感がとれていない、原石ぶりが見事に集約されている。

 しかし、それでも、のだめは、千秋のメールによって音譜にむきあうことをおぼえ、「通電」したりしながら、徐々に自らの才能を「対象化」していく。

 この瞬間がイイ!(゜∀゜)

 無自覚なものから自覚的なものが出てくる瞬間、原石から宝石が出てくる瞬間、未開発なものが開発されていく瞬間(ってなんかイヤらしい)――ぼくが才能や成長のドラマにオルガスムといえるような快感や絶頂感を味わうのは、まさにこの瞬間である。
 その快感の瞬間は、長ければ長いほど、幸福である。

 そのような意味において、『のだめカンタービレ』は、ぼくにとって、長く長くつづく絶頂であり、快楽である。



 本作品は、第28回講談社漫画賞を受賞した。



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2004.5.22記
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