中西新太郎+高山智樹『ノンエリート青年の社会空間』



 ぼくは福岡で若い人の労働実態を調べ交流し学習したりする「おしごと集会」という企画に3年ほどかかわってきた。そこで「おしごとアンケート」という名前の、簡単な労働実態調査を集めてきた。初年度は業種や賃金、労働時間などを選択肢式にかなり微細に尋ねるものだったのだが、これなら統計でわかるものが多いのではないかという思いがつのり、みんなで話し合って3年目になって労働法違反の実態をあぶりだす中身に少し変えた。

 ただ、やればやるほど、ぼくの中では若い人が本当のところどういう働き方をして、どんな気持ちでいるのか、ということの実像、リアルな手応えのようなものが、こちらが用意した選択肢式のものだけではとらえきれないという思いが強くなっていった。
 働くことを「告発」の角度からとらえることももちろん重要なのだが、誇りややりがい、労働の周辺にある生活のようなもの、あるいは生い立ちにいたるまでをふくめてつかまないと、「本当のところ」はわからないのではないか、という感覚である。アンケート、というよりもインタビューに近いことをしてみたい、という気持ちに駆られたのである。

 アンケート票のなかにある「自由記述欄」が大きな役割を持つということだ。

 法制度面からは照らし出されない、苦しみというものもあるだろうし、そもそも調査者に対してそんな不満を「言ってもしょうがない」というあきらめもよく聞いた。声に出せない苦しみというわけである。仕事に本当に誇りややりがいを感じている人、または客観的にみて「自己実現系ワークホリック」に陥っているような人にそれを否定するアプローチから入っても真意は引き出せない。
 
 あるいは、労働の苦しさが一足飛びに「労働運動」に結びつかないというのは、ごく普通に見られることだ。そこでは若い人たちは、一体どのように「なんとかやっている」のかというその実態は、相手の話をよく聞き、生活と労働の全体像をおぼろげにでもつかまないと描くことはできないという思いを、ぼくは次第に強めるようになった。

 選択肢のチェックを数量的に把握し、傾向を分析する定量的なやり方ではなく、聞き取りという定性的な調査でこそ、現代の若い人の労働の「本当のところ」は初めてわかるのではないだろうか。

 本書『ノンエリート青年の社会空間』は、同じ研究会に属していた7人の研究者が、それぞれのテーマ、問題意識で書いた論文を集めたもので、〈ノンエリート青年の生の軌跡を、十全に聞き取ることから始まる〉(p.11)として、まさしくこの方法を縦横に駆使している。

 ぼくらが若年者、とりわけノンエリートという区分をもうけた場合に思い浮かべるのは「非正規の、夢も希望もない、苛酷な労働」であろう。そこでは誇りも技術の蓄積もなく、ただ使い捨てられるだけの悲惨な労働としてのみ、把握される。

 もちろん、そうした側面があることは事実だ。
 工場における派遣・請負の労働を描いた、本書第4章「請負労働の実態と請負労働者像」ではこうした事例が紹介されている。

〈旋削加工と聞けば熟練が必要な仕事を想像するかもしれないが、熟練は必要ない。なぜなら箱形の工作機械に歯車をセットしてボタンを押せば自動的に機械の扉が閉まって旋削加工が開始されるからである。一分ほどたって機械の扉が開いたときには、すでに歯車ができあがっている。
 できたての歯車は、機械のなかで研磨剤を浴びながら旋削されていたのでヌルヌルに濡れている。さらに削られた鉄屑の帯がグルグルと歯車にこんがらがってまとわりついている。それをエアーガンで払いのけながら歯車を取り出すのだが、エアーガンによって吹き飛ばされた鉄粉と研磨剤の飛沫を体に浴びながら取り出すことになる。飛沫で体がべとべとになると同時に、鉄粉が付着した皮膚はほうっておくと血がにじんで斑点模様となる。鉄粉を無理に振り払おうとすれば、鉄粉が皮膚を引っ掻き、切り傷になる。そのために途中から私は腕が隠れる長袖の服を着て作業をすることにした。
 だが、工場の室内は暑く、足下に還流する研磨剤入りの汚水が蒸発するせいか湿度も高い。そのなかを三台の工作機械と、歯車にナンバーを打つための一台の刻印機を相手に、わずか一分で作業を一巡しなければならない。つまり一台の工作機械に歯車をセットしてボタンを押したら、加工が完了して扉が開くまでに残り二台の工作機械と一台の刻印機の仕事を処理して元の工作機械の前に戻ってこなければならない。そうするためには、必然的に走らなければ追いつかない速さになっている。
 もし遅れれば後工程に流れる製品が減り、後工程で作業をしているメンバーから無言のプレッシャーが強まる。そしてすぐにリリーフ(ラインの仕事を指導・援助する役職)の期間工が駆けつけてきて私の仕事に加わるとともに、「早くしろ、早くしろ!」「テキパキ動けよ!」と急き立てるのである。それに焦って、ついミスをしてしまう。一つひとつの仕事は単純なものだが、急き立てられながらこなそうとするのでミスをしてしまうのである。
 すると「このボケがっ!」「しばくぞ!」「今、お前を半殺しにしたい気持ちだ」と罵られる。そのうち安全靴で足首を蹴られたり、頭を叩かれたりする。勤務時間中、生産速度に着いていくこととミスをしないということの二つの緊張に絶えず縛られる。それらを両立していくことは並大抵のことではない。両立できない者は結局自ら辞めていくことになる〉(p.230〜232)

 小見出しには〈熟練不要、ひたすらスピードとの闘い〉〈非人間的で暴力が横行する職場〉〈下降する日給、働きがいもなく離職へと追い込む仕事〉といったものが並び、この章の執筆者であり、自らこの請負労働をおこなってきた戸室健作はこの状況について〈“使い捨て”と表現せざるをえない働かせ方の横行〉(p.238)と表現している。

 だが、本書にはそうした角度からだけノンエリート青年の労働が描かれるわけではないのだ。

 第2章「自転車メッセンジャーの労働と文化」では、自転車メッセンジャー(バイク便のような緊急即日の個別配達を自転車でやっているようなもの)の4人がどのような経緯でその労働に入ったのか、どんな生い立ちなのか、将来にどんな展望を持っているのかを聞き取っている。

 そこでは、自転車メッセンジャーの間での自転車文化の交流などが描かれたり、その労働文化のなかに自分自身が小さな誇りを感じている様が記述されている。西川さんという自転車メッセンジャーが語る労働の喜びは次のようなものだ。

〈「仕事を変えてメッセンジャーをやろうってときに、一回でいいから一人ぼっちになってみようって思って。請負だし、そういう面では自己責任でしょ。だから、なんて言っていいのかな、自己責任で、一人でどこまでできるんだろう、俺は、って思ったんだよね」〉(p.142)
〈毎日、一日走った分の伝票を整理しながら、「今日はこれだけ走った」という、がんばりに対する報酬が目に見える歩合の仕組みは自分に合っていると考えている。「時給は嫌だ。時給じゃ充実感、充足感がないっていうか。明細見て、おお、今月俺、こんだけやったよ、がんばったな俺、っていう、そういうのはないと。まぁそれがやりがいの一つでもあるしね。……こう、死なない程度にって言うか、身体を壊さない程度に自分を追い詰めていく、追い込んでいくっていうのが好きみたいで(笑)」〉(p.143)
〈西川さんはメッセンジャーになるよりも前から、所属する会社の壁を超えて交流するメッセンジャーたちの姿を見て、「これは文化だ」とはっきりと考えていた。そして今、自分自身がメッセンジャーとしてそうした集まりを企画し、そこに仲間たちが集まってくれることに喜びを覚えていた。「メッセンジャーという文化」の真ん中に立っているという充実感がそこにはあった〉(p.144)

 第3章「若者が埋め込まれる労働のかたち」では、引っ越し労働の労働プロセスが微細に描かれている。そして、引っ越し労働者のなかで新人とベテランがどのような役割・配置になっているかを調べ、新人が成長してベテランになっていくために昔ながらの「見て盗む」という技術継承が行われていることを書いている。

〈研修制度などないX社においては、自発的に作業にかかわることができるか、そして肉体的な苦痛を伴う引越作業の洗礼である階段作業に耐えることができるかどうかが、勤務を継続していけるかどうかを決める。入りたての現場労働者は従僕のように指示に従い、肉体的にきつくとも耐え忍ぶことによって選別過程を生き残ることができる〉(p.194)

〈ここ〔昼食休憩——引用者註〕で交わされる情報は、マニュアルがない状況で「引越労働者になる」ための重要な資源となる。会話の輪に入るように促されることはまったくないのだが、入りたての現場労働者が「引越労働者になる」ためには、このような一見他愛のない会話に積極的に参加していくこと、そして参加を認められることが必要なのである〉(p.205)

 非正規雇用ではスキルは蓄積されない、とされている。しかし、引越労働を解析してみれば、それが他でも通用するかどうか別として、たしかにスキルの蓄積があり、その蓄積によって現場のなかでの地位を高めていくことになる。ところがそれはあまり賃金の上昇や正社員化などとは結びつかない。
 だが、繁忙期を一体になって乗り越え、スキルを蓄積させて成長していくなかで、現場の他の労働者たちから社会的承認をうけるのである。

〈社会的承認の獲得、そして「承認の回路」(雨宮・萱野二〇〇八)をもつことは、こんにちの若者が生きるうえで不可欠なものとしてあり、たとえ閉鎖的であろうとも、社会的承認の獲得は労働者としてのアイデンティティの獲得を促し、彼らの生活を基礎づけるものとして機能しているのである〉(p.213)

 このように、たとえば非正規の働き方一つをとってみても、工場派遣のような働き方と、引越労働のような働き方では、労働対象に対する自分の主体性のあり方やそこでの労働の喜び、つらさも大きく違ってくる。
 そして、それは単に「働くことはつらいこともあれば楽しいこともある」というような平凡な命題ではなくて、全体としてはキツい、将来のみえないような労働のなかでどうして「なんとかやっていける」のかを本書は考察している。

 たとえば先ほどあげた第4章(工場での請負・派遣労働)では、そこでできた請負労働者たちのネットワークによって、他の工場の仕事情報を得たり、休日に集まってライブや飲み会、山登りに興じている姿が描かれる。
 ただの日記じゃねーかwwww
 と思えるような記述が続くのだが、〈このネットワークが居場所の機能を果たしているとともに、ネットワークを通して請負労働者が相互に労働条件や仕事についての情報交換を行い、それが請負労働者の仕事の選択に影響を与えている〉(p.257)。
 それは自転車メッセンジャーや引越労働者についても同じことがいえるのだが、最も劇的なのは5章に出てくる「最低位高校」を卒業した女性5人の調査だろう。本書をまとめる立場にある中西新太郎は、ある場所で本書のこのケースについて次のように語っている。

〈この本では、高校を出て働く女性たちへの聞き取りが掲載されていますが、彼女たちはアルバイトやフリーターをずっと続けています。そんな働き方をたがいに支えている友だちがいる。一緒にアルバイトをしたりしながら、つながっている存在で、私は「親密な他者」と言っています。ある人は、その友だちの家に入り浸っていて、友だちのお母さんにも支えてもらっている関係にある。彼女の家庭の環境には困難があって、友だちの家のお母さんに話をするのが一番気が楽になれる。つまり資源の乏しいなかで生きるとき、自分がぶつかっている問題について一緒に考えてくれる、ぶつかっている時々の場面、状況で一緒にいてくれるような存在が大きい〉(「前衛」2010年1月号p.136〜137)

 実態調査やアンケートは、まさに客観的な実態を明らかにするために、ぼくら左翼が愛用しているものであるが、すでにわかりきったことをなぞるようなことは、まったく意味がないとはいわないけども、やっていてやはり意欲がでない。実際社会的意義も乏しいのだろう。
 若者自身は自分以外の労働を知っているかというと実はそんなに知っているわけではない。いや、ひょっとすると自分の労働自身もなかなか客観的に振り返る機会には恵まれないかもしれないのだ。じじつ、こういう調査をしていると、あなたの会社はどんな制度があるか、有休はとれるのか、労働時間はどうなのかと聞いても戸惑ってしまう人が少なくない。
 だとすれば、ただ単にとなりの人の労働実態がどうなっているのか、そこでどんなことを感じているのかを綴っていくだけでも、運動にとっては大きな意味があるのかもしれない。

 マスコミや図式のなかで語られている「若者の労働」しかぼくらは知らず、実は、ナマの労働の実態、あるいはそこで感じていることを、本当はよく知らないのではないか。
 自分が誘導したいキャンペーンのためだけに都合のよい質問項目と実態を切り取るということはないようにしたい。
 相手から生活と労働についてじっくりと聞き取りをするなかで、ぼくらの知らない若者の労働実態の真の姿が浮かび上がってくるはずである。

 中西は次のようにも述べている。

〈若い人の文化を見ているとわかるのですが、社会に対して、問題をうけとめてくれるのではないかという期待を捨ててかからないと、かえって自分が苦しくなってしまう。あらかじめ期待をもたないで生きていくのが普通の姿になっている。そういう期待を捨てさせる社会のメカニズムに大きな問題があると言わざるをえない。
 若者の〈生きづらさ〉という現実には、第一番目には社会環境や経済環境の問題、そのなかで生きることの大変さがあると同時に、二番目には自分がぶつかっている困難を自分の内側に閉じ込めてしまわないとやっていけないという問題——孤立というものもその一つです——がある。この二つの面を両方とも見なければいけないと思います〉(前掲p.135〜136)

〈今、「声を聞く」力が求められているように感じます〉(前掲p.144)

 中西たちがこうした調査を通じて浮かび上がらせたのは「なんとかやっていく」世界であった。

〈たとえば、若者たちは、不安定な環境で頻繁に職を変えます。一カ月で仕事をやめたり数週間で変わったりする。大人から見れば、何をやっているんだとなるわけですが、一人ひとりの状況や気持ちをていねいに見ていくと、自分にとって少しでもましな、働きやすい場所を得ようとする姿が潜んでいる。
 手持ちの資源の乏しさを解消し、資源をふやすことができれば言うことはありません。しかし、それが難しいところから出発しているのです、そういうなかで、どうやったら少しでもましな状態で暮らせるのか追求する気持ちや行動をていねいに見る必要がある。逆に言えば、よりましな状況にたどりつけないなかで、手持ち資源がつきて、友だちとの関係も断ち切られて孤立することになると、生きていくこと自身が困難になってしまう、そういうギリギリのところで働き、生活しているのが多くの若者の現状なのです。だから、そのギリギリの状態のなかで、それでも「なんとかやっていく」道をひらくことが彼らにとっては大切なのだと思います。たとえば、友だちの存在は数少ない貴重な資源の一つです。一人で働くよりは、友だちと働いた方が絶対にいい。ところが、派遣労働者で、広域派遣のような形で、遠くに一人で飛ばされてしまうと、その資源すら奪われてしまう〉(前掲p.136)

 中西たちは、そこにある種の能動性や主体性を見出している。

 左翼がすすめる労働運動にとっては、本書のような「聞き取り」にもとづく、ていねいでリアルな青年像の描出こそが求められているのではないか——そういうことを強く思わされる一冊である。

 




中西新太郎+高山智樹編
『ノンエリート青年の社会空間 
働くこと、生きること、「大人になる」ということ』
大月書店
2010.3.25感想記
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