ソポクレス『オイディプス王』

 教養主義、ということで話がもりあがってしまった狂気の4人が、「教養主義古典読書会」をやろうではないかという、これまた衒学と高踏趣味の実に俗物的な(それで教養主義を冠するのは形容矛盾だが)、小気味いい集まりをもつことになった。(すいません、参加者でこれ読んでいるかた、これホメているので、気にしないでください)
 それで、最初に読もうということになったのが、すったもんだのあげく、ギリシア悲劇の最高傑作、ソポクレスの『オイディプス王』だった。わはは。岩波、ギリシア。いかにもいかにもな教養主義ではないか。
 しかも浅田彰・柄谷行人らの『必読書150』(太田出版)にも載っている。ばんざーい。これで「サル」からの脱出に一歩近づいた。


 正直、ぼくは『オイディプス王』の物語を知らない。フロイトのメタファーがあるので、父親殺し、母子相姦というのは知っていたが、それ以上のことはなーんもわからんかった。


 そこで、大規模投資をおこない、入門書をバカスカ買った。

 「入門書」から攻め上っていく、という方式は、大学時代、サークルの先輩がたにきびしく批判された。「古典本体から最初に読まないとだめだ」――このとき、「から最初に」、が重要なわけである。

 入門書/解説本から入ると、それが固定観念として染みついて古典の理解を限界づける、というのだ。

 しかし、この立場は、いまおもえば、教養主義左派、あるいは、急進的教養主義、とでもいうべきもので、この立場は、いまのぼくはとりたくない。ぼくの幼馴染みには、「原典=原書でないと全然ダメ」という学者がいて、これなどは、教養主義極左派とでもいうべき「カゲキ派」である。

 ぼくが買った入門書は以下のとおり。


(1)阿刀田高『私のギリシャ神話』(集英社文庫):

 ギリシア神話にまつわる絵画を挿し絵にしながら、各エピソードをかいつまんで紹介する。ギリシア神話に入れ込んでいるだけあって、要約の紹介文にも「愛」があり、なにをそぎ落とし、なにを伝えるべきか、心得ているというかんじがする。オイディプスの物語をめぐって、ごく基本のスジが「瞬間」にわかる。挿し絵(名画)を見ているだけでも楽しい。

(2)豊田和二監修『図解雑学 ギリシア神話』(ナツメ社):

 細かく、複雑な人間(神々?)関係を図表にしたり、前後のエピソードや背景を、まさに「図解雑学」として教えてくれる。オイディプスの物語では、テバイの建国と、その建国の父であるカドモスの物語が、さっくりとわかる。しかしこれから読みはじめると、逆に少し煩雑になるとおもった。

(3)桐生操『愛と残酷のギリシア神話』(大和書房):

 ははははは。話題のグリム童話を手がけた、2人の女性(院生)の合同ペンネーム(真偽は不明)。物語を強烈に印象づけるために読んだ。桐生が、オイディプスでふくらませたエピソードとは、いわずもがな、「母子相姦」。現在の世の中にあまねくいきわたる、サブカル的な欲望にぴったりと合致いていたのが、はからずも『オイディプス王』だったのだ。陽気婢あたりが漫画にしそう。イヨカステの縊死と、オイディプスの自傷を、独自解釈している。
 はい、冒頭の一節。
「イヨカステを抱きながら、オイディプスは呻く。しかしそれにしても、彼女の肉体のなんという芳しさ。なんという柔らかさ……。その感触はただの女のものではなく、母のものであったのか。/そして二人はまた、全裸になってもつれあうのだ。こうしていつものような狂乱が始まる。いつものような宴が始まる」


(4)ジョリッフ『ギリシア悲劇物語』(白水社):

 原典の物語形式にもっとも近い。ジョリッフいわく、
「多くの人々は、翻訳を通じてギリシア劇に接近していく。大部分の翻訳には、重要な部分を、見落とさないように解説が加えられている。残念ながら、これらの読者たちはステンドグラスのはまった窓を透して内部をのぞこうとしているようなものだ。わたくしはこの問題を解決しようとして、読者たちに、現代劇や小説と同様の、じかくにくる刺激を与えようとした」
 文法や構成や当時ならではの叙述を排し、純粋なドラマだけを再現しようとした。したがって、これだけ読んでもじゅうぶんに入門的である。(内村直也訳)


 ちょうど(1)〜(4)の順に読んでいったので、まったく偶然ながら、いい順番に入門書を読んでいったことになる。

 マルクスとエンゲルスが、『オイディプス王』に言及しているところをさがしたのだが、やっぱりあるあるある。

 おもに、「スフィンクス(謎かけ)とそれを解読するオイディプス」というメタファー、あるいは、オイディプスとテイレシアスのやりとり、などがさかんにつかわれる。
 とくに、同時代人であるルイ・ボナパルトを、これらの人物になぞらえて、からかっている文章がいくつかある。

 エンゲルスとのバカ手紙のなかでマルクスがオイディプスのパロディをやっていて、こういうところに、教養主義者でもあり、また、「おたく」でもあるマルクスを見ることができる。現代なら、絶対に、この男は同人誌を出して「オイディプス・アンソロジー」を出していたであろうし、2ちゃんで「オイディプス・テンプレ」を喜々として作っていただろう。

 日常の会話で、知ったかぶりして古典の言葉を使うのが、真の教養主義俗物(またしても)の面目躍如というもので、マルクスはそれを地でいっている。

 肝心の作品そのものであるが、いったん雰囲気にひきこまれると、あっという間に呑み込まれた。読み終えるころには、「別れ」がおしいほど。古典、しかも翻訳でこれだけ興奮させるというのは、おそるべしギリシア古典精神。
 岩波文庫の解説には、19世紀のハーバード大学での、ギリシア時代そのままの言葉・演出での上演の様子が出ているが、「千人の観客が、最初から最後まで、呪縛されたごとくに見せられて動かず、劇が終わるや、一瞬の深い沈黙ののち、劇場は爆発的な歓声と拍手にどよめいたが、しかしすぐにまた、あたかも神聖なものをかを乱すのを恐れるように声は突如やんで、観客は静粛の支配の内に立ち去った」と神憑かりのようなことが書いてあるが、あながちウソでもあるまいと思う。(しかし、読みようによっては、逆にもとれる。劇がおわってもちんぷんかんぷんで、ハッと気づいた一部の人が熱狂的な拍手をして「わかったふり」を演出。だが、つくろいの熱狂は持続しないから、みんなひと通り拍手をし終えると、「さあ、けえるべ、けえるべ」といって、あまりのつまらなさにモノも言わず帰っていった)。

 日本の『源氏』などよりも、はるかに引き込まれ方が早いのは、われわれが、この精神を源流とする文明のなかでくらしているせいであろうか。登場人物のしゃべる理屈がおそろしくわかりやすい。
 
 浅田彰は次のように書いている。
 「自己の意識的な努力がかえって自己の解体に帰着するという逆説」。
 これはアリストテレスのこの劇への批評でもある。
 すなわち、善意の積み重ねが、逆の運命の必然を貫徹させる。

 これは、エンゲルスの史的唯物論の説明を思い出させる。

「歴史のなかではたらいている多数の個々の意志は、たいてい、意欲されたのとはまったくちがった――正反対ということもよくある――結果をもたらすものである。個々の意志の動機には、だから、全体的結果にたいして同じように従属的な意義しかないのである」「人間は、各人が意識的に意欲去れた自分自身の目的を追うことによって、結果はどうなろうともその歴史をつくる。そして、さまざまな方向にはたらいているこうした多数の意志と外界に加えられるこうした意志の多様な作用との合成力が、まさに歴史なのである」「だから、もし問題が、歴史のうちで行為している人間の動機の背後に――意識されてか意識されないで、しかもたいていは意識されないで――あった、歴史の真の究極の推進力となっている原動力を探究することであるとすれば、肝要なのは、どんなに卓越した人間であろうとも個々の人間のもつ動機よりも、むしろ大衆を、諸民族の全体を、そして各民族においてはさらにその諸階級全体を動かしている動機である」


(『フォイエルバッハ論』)

 ばーか、考えすぎ、という非難を横目にみつつ、西洋人の頭のなかには、いつも個人の善意や動機と、それをおしながす歴史の究極の法則、という問題がひかえているのではないか。


藤沢令夫訳、岩波文庫
2004.1.26記
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