岡崎京子「リバーズ・エッジ」



リバーズ・エッジ

 岡崎マンガの最高峰とされる作品。サブカル界やマンガ批評では非常に評価が高いものです。そして、多くの人がこの作品にさまざまな解釈をほどこそうとします。

 さきにあらすじをいっておくと、工業港にちかい住宅街が舞台で、いつもいじめをうけているゲイの山田は、学生モデルをしている吉川とともに、河原で死体を見つけ、その腐爛していく様子をずっと観察しつづけている。いじめから山田を助けた主人公ハルナにもその死体をみせ、3人の奇妙な共同感がうまれる。
 ハルナの彼氏である観音崎は、その3人の関係が理解できず、山田にもハルナにも暴力的になる。
 山田に好意をよせる田島という女の子は、山田へのやや偏執狂的で一方的な愛情をしめし(いや、少女期にはごく普通のことだが)、山田はどんどん冷淡になっていく――

 『リバーズ・エッジ』のなかで、ぼくが気になったのは、つぎのような場面でした(一部ネタバレあり)。
 冒頭。ハルナが、地球が環境汚染によってたいへんなことになるというニュースに“実感がわかない”、とのべるモノローグ。
 河原で発見した死体に興奮する3人。
 モデルの吉川は、じつは、拒食症で、かたはしから食べたものを吐いている。
 ハルナに嫉妬した田島が、ハルナの家に火をつけようとして、誤って自分を火だるまにしてしまう。

 山田「でもぼくは生きている時の田島さんより死んでしまった田島さんの方が好きだ。ずっとずっと好きだよ」
ハルナ「山田君は黒こげになっていないと人を好きになれないの」
山田「そんなことないよ。ぼくは生きている若草さん(ハルナ)が好きだよ」

 みもフタもないことばでいっちゃうことになるかもしれませんが、岡崎の作品には、リアリティの獲得ができない、それをもがいている少年少女が、ずっと描かれているように思います。

 環境破壊にたいする情報を、岡崎は、さまざまな作品で使います。
 『好き好き大嫌い』で主人公が語るチェルノブイリや食品添加物の話題は、家庭の崩壊ほど深刻ではありません。『ピンク』では、主人公(ホテトル嬢)の客が、テレビでは貴重生物種の保護を訴えながら、自分はワニ革の財布を使っていました。ある短編では、フランスの核実験への反対をおしゃべりまぎれに口にします。
 いずれも、その情報に自分たちがリアリティをもてないいらだち、あるいは世界というもののうそくささとして描かれています。

 セックスやお金――岡崎用語では「愛」と「資本主義」――にたいする空虚さも岡崎作品にはくり返し登場します。
 『ピンク』では、主人公が作家志望の恋人とするセックスは、そのリアリティや生々しさを貪ろうと必死なほどです。「赤い血と白い血がまじりあう液体状のまっぴるま」「その昼間、その部屋はなまぬるい血のにおいがいっぱいでそれがすごくよくて、世界中にこんなにおいがすればいいなとか思いながら、いっぱいHをした」。
 ぼくが岡崎作品に惹かれた最初の作品、『ジオラマボーイ・パノラマガール』では、そのセックスの空虚さはどうしようもないほどです。「ああ つまんない 下らない」(主人公)。

 『リバーズ・エッジ』では、空虚で、なにもない退屈な教室生活のあとに、めくるめくような、河原での腐爛する死体の発見が描かれます。死体にこそ、生きている実感、世界のほんとうのことがあるかのようです。
 美しいモデルの実生活は、じつは、食べ物を吐いていたという、とてつもない醜悪でリアルなものがその表層をおおう現実の下にあるという不安。これは岡崎の中断作になっている『ヘルター・スケルター』でも表明されている不安です(超美人モデルは実は人間機械ともいうべき整形の集大成だった)。
 山田をおって、夢のようなことをうるさくささやいていた田島は、団地のすみでひっそりと火だるまになる――そこにこそ山田は生々しい、興奮するような現実を感じるのです。

 ぼくは、友だちが高校時代「なあ、なんか面白いことない?」とぼくによく聞いてきたのを思い出します。

 どこにもリアリティを感じられない自分、そして、表面的にぼくらがふれている現実の裏側にはなにかものすごい生々しい本当の現実があるんじゃないかという不安が、その友だちのことばにはあふれているような気がします。

 評論家の大塚英志は、彼のコトバで、つぎのように言っています。
「戦後まんが史が記号としての身体と生身の身体との狭間に主題を発生させてきた歴史だと考えることは繰り返し述べてきました。ですから、生身の身体つまりは人間の実存というものが限りなく記号に近づいてしまった八〇年代以降の高度消費社会が抱え込む問題に対して、戦後まんが史はまさに戦後という時代を通じてずっと長い間、それと格闘してきたとも理解しています。岡崎京子は……(その問いに)高度消費社会の渦中で最も誠実に向かい合ってしまった作家でした」※1

 それは、ぼくのことばでいえば、リアリティの獲得への渇望なのです。
 でも、岡崎のようなやり方でリアリティを渇望しても、それは永遠にみたされることのない欲望になるでしょう。

 吉岡忍というジャーナリストは、宮崎勤事件のルポのなかでこういっています。
「サブカルチャーはメインの、あるいはトータルな文化が硬直し、形式化して人々の生活実感や感受性からずれてくると、あちらこちらで噴きだし、広がっていく。メインのつまらなさ、退屈さ、権威性に気づき、そこからの疎外感を感じとった人間は、みずからの生理や感覚をたよりに動きはじめる」※2

 つまり、世の中のメインの文化、たとえば公式の「歴史」だとか、学校教育とか、政治とか、そんなものですが、それが「うそうそ」しているとおもうと、そこからはなれて、「ほんとう」のリアリティをもとめてみんな動き回る。それがサブカルチャーだ、と吉岡はいっているのです。しかもそれは、たとえば歴史感覚といったものに裏打ちされず、ただ自分が興奮するもの、わくわくできるもの、といった、生理的な感覚だけを頼りに動き始めるとのべています。

 吉岡はそのことを、次のコトバで批判しています。
「いま、ここで生きているという生理的リアリティーは大切だが、それを背後から励ますものがない。歴史の強靭な精神につなぐものがない。ここから先へ一歩を踏みだすための楽観の根拠がない。/いまここだけの関心。スライスされた現在にしか広がっていかない意識。それは過去から解き放たれて自由だろうが、どこに向かっても、どんな速度でもはじけ飛んでいけるという意味で、やっかいなものでもある。ときとして危険でもあるだろう」※2

 そしてそうはいっていませんが、それがサブカルチャーの破産である宮崎勤事件をうむ、土壌の一つになったといいたいわけです。

 「そういうダメなやつらが増えたから、日教組の教育はまちがっとるんだ。だからいまガツンと誇りをもてるような歴史を教えてやるんだ」――これこそ「新しい歴史教科書」の論理です。
 大塚英志は、岡崎京子を紹介したあと、この歴史教科書の動きが、その岡崎のもがきにたいする一つの回答だろうといいつつ、しかしその回答を拒否します。ぼくもまた拒否したいと思います。それは答えではない。
 

 岡崎の格闘は、おそらく、なにも実をむすばないでしょう。不毛だと思います。
 どれだけリアリティを渇望しその空虚さをなげいても、そこからは何も生まれないのです。まあ、岡崎は何も生む気はないのでしょうけど。

 けれども、岡崎はまちがいなく、わたしたちの時代の、ある空気をもっとも先鋭的に表現しています。それを楽しみたい人は、ぜひ読んでみることをおすすめします。

 なお、岡崎京子は96年に交通事故にあい、作家活動を停止しています。さいきん、リハビリをはじめたというニュースがぼくの参加しているメーリングリストで流れましたが、ぼくは彼女の回復を心から願っています。

(宝島社)



※1 大塚英志、サカキバラ・ゴウ『教養としての〈まんが・アニメ〉』(講談社現代新書)
※2 吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』(文芸春秋)


採点55点/100
年配者でも楽しめる度★★☆☆☆

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