置塩信雄『経済学はいま何を考えているか』(1993年)

 置塩信雄は、数理をおりこんだモデルを開発したマルクス経済学者で、近代経済学からもさまざまな刺激をうけ、本書でもケインズ、ヒックス、ハロッドらの名前をあげている。
 ソ連崩壊から1年ほどしてこの本を出しているが(おさめられている論文はもっと前に書かれている)、前半でマルクス経済学の現代的な「有効性」の問題にとりくみ、後半(第3章)で「新しい社会への展望」として、社会主義経済の問題にとりくんでいる。この第3章が非常に刺激的である。
 “未来社会の青写真を描いている”という批判のむきもあろうが、旧来の社会主義のイメージを粉砕しつくすうえでは、このようなブレかたもやむをえない。それによって、私たちは、社会主義にまつわる迷信から一気に解放される。

 なによりも、中心問題にずばり切り込んでいる。

■■■□■ 「所有」とは「決定」である ■□■■■
 それは、所有と決定の問題を中心にすえていることである。最近話題の共産党の綱領改定案では、「生産手段の社会化」の問題を社会主義問題の中心にすえているが、置塩はすでにこの時点で、「所有と決定の問題は、社会主義の問題を考えるさいに最大の重要性をもつ。社会主義の基礎は生産手段の社会的共有であるとされている」としている。(社会化と社会的所有のあいだにはちがいがある、という議論はおいておこう)
 つづけて、置塩は「あるものXが、社会的共有であるということはどんな事態をさすのであろうか」と問いをたてている。置塩の答はこうである。
 「私の考えでは、あるものXが、社会的共有であるということは、そのXに関する決定が社会の全構成員によって掌握されているということでなければならない」
 置塩は、資本主義における不均衡の累積の研究から「所有の所在=決定の所在」というこの答をみちびきだした(置塩『再生産の理論』)。
 これがなぜ画期的ななのかといえば、このような「所有」イメージは、これまでのような「〈社会〉を代表するものが、私的な機械や土地をとりあげる」という社会主義イメージを根底からくつがえし、あるいはその狭さから解放し、社会がさまざまな回路によってこの決定に関与するという多様で自由なイメージを、一気に広げるからである。
 すでに、資本主義社会のなかで、法律やら誘導税制やら行政指導やら社会的規制力(世論とか購買行動とか)やらによって、私的資本を規制する回路はさまざまに出来ている。すでに存在しているのである。その、すでに出来つつある回路に、最終的に社会的理性が働くようにしていけばいいのであって、そうなると、現状のように大企業をふくめた私的企業を広範にのこし、その市場経済の活力を十分にいかしながら、社会的理性を働かせるという道が開けてくるのである。
 社会主義と、現在の国家独占資本主義とのあいだに、絶望的な溝はなくなる。
 せいぜいハンガリーやらユーゴスラビア、あるいはソ連のペレストロイカあたりの「市場社会主義」モデルというものが、いかに狭い範囲の話かということもここでわかる。
 ひるがえって、ここからソ連分析も可能となる。
 「ソビエト連邦をはじめとする『社会主義』社会において、生産手段の社会的共有は実質的には存在しなかった。生産手段を用いての生産に関する決定は、社会の多数の構成員を排除して、一部の国家機関構成員によって独占的・集中的に掌握された」

■■■□■ 生産手段の社会化とはどういうことか ■□■■■
 置塩はさらに「広範な社会的分業に基礎をおく大規模な社会において、生産手段の社会的共有に基礎をおく社会主義は可能なのか。社会の全構成員が生産に関する決定に関与することは可能なのか。」と問いをたて、問題をいっそう深く論じていく。
 置塩は、「社会の全成員が生産に関する決定に関与する経路」として3つをあげ、「(1)代表選出あるいは直接投票による全社会的一元的決定への関与、(2)企業、地域レベルにまかされた分権的決定への関与、(3)市場における個人的選択の表明」である。
 これらは、(1)が国会、法律や誘導税制、(2)が自治体の条例や従業員の会社参画、(3)が市場そのもの、または消費行動や環境に配慮する世論、などをイメージしてもらえればよい。
 この一元的理性と分権的理性の結合ともいうべきイメージは、ハイエクが提出した「中央政府による単一計画の無理」という問題をクリアする手がかりとなる。全社会は大局的な経済の方向だけをしめし、それがさまざまな下位レベルの無数の小理性によって、弾力をもった、活力を剥ぎ取られないようなコントロールをしめしていくことができるのだ。
 レーニンの「管制高地」というイメージもこれに近いと思う。
 置塩ははっきりとこう言っている。
「何をどれだけ生産するか。どのような方法で、どこで、いつ生産するか。次期以後の生産のために、何をどれだけ蓄積するか等の決定項目の数は著しく大きい。生産物の種類を鉄鋼、電力、……、ネクタイと数えるだけでなく、たとえばネクタイにしても、その材質、デザインの相違をも考慮すると、その数は無数といえるほどである。1種類の生産物に関して、また決定すべき事項が多数あるのだから、生産に関する決定事項の数はさらに増加する。社会の全構成員がこの巨大な数にのぼる決定事項について直接関与することは可能であろうか、もし、これを実行するとすれば、各構成員はこのことに生活時間のほとんどを費やすか、まったく無責任な意思表明(非表明も含めて)を行うかのいずれかになるのではないだろうか」「これらをすべて、社会の全成員が事前に、直接に決定することはできない」「では、社会の全構成員が生産に関与する状態をつくりだすのは、どのようにして可能になるだろうか。このためには、……各種のチャンネルが必須である」。
 ハイエクが指摘した単一の中央計画の無理を、きちんと承認している。

■■■□■ いまの資本主義下ですでに生まれているチャンネル ■□■■■
 さらに置塩は、この各種のチャンネルを詳細に論じる。
 (1)の全構成員による決定は、(イ)最低限保障される生活水準、(ロ)社会全体の剰余率、(ハ)剰余のごく大まかな使途、となる。(ロ)の計算式に、労働時間や賃金が入ってくる。このマクロバランスの決定は、労働市場や経済動向を見た上での見通し的なものになるだろうと思う(置塩はそこまではふみこんでいないが)。これは、すでに国家独占資本主義下の政府が「見通し的な計画」としておこなっているものであり、市場の活力をいかして誘導する政策技術はしだいに発達してきている。ただ、それが独占資本の蓄積に奉仕するためにおこなわれている、というにすぎないのである。おそらくこの決定の中心は、国会となる。
 (2)企業構成員としての決定関与については、(イ)〜(ト)の7点の「基準」をしめし、この社会的基準をクリアしたかたちで、各企業が私的イニシアチブをもってあとは自由にすすめる、というイメージをしめしている。そこであげられている原則は、たとえば一定率の税金とか、一定率の賃金とか、すでに国家独占資本主義下でおこなわれていることがほとんである。
 ただ、ここで置塩のイメージにはやや不自由なものを感じる。それは、彼の前提は、「協同組合的・公的企業体」のイメージがつよいのである。しかし、私は、この分野は全体として私的企業にしたとしても、置塩がここであげている問題はすべてクリアできると考えるから、置塩のこのイメージには不満をもっている。
 個人の創意がいかされる私的企業体を基本として、それを規制する社会ルールや従業員関与が一定強化されるだけ、というふうにすれば、市場経済の活力と社会的理性をどちらも兼ね備えることができる。そしてそれは現代の資本主義のもとでもあるていど骨格ができている(労働者の企業参加など)のである。
 (3)は、消費者としての決定関与の問題。購買という「貨幣による投票」という行動によって関与させようというのだ。環境にいいものをつくる企業の製品を買う、などである。置塩はその投票用紙をもつ量ができるだけ平等である必要がある、とのべているが、これは、「再分配」=社会保障や税制などによって一定幅の範囲で解決するしかない。完全平等ということは絶対にありえない。

 このように、考えてくると、ここで論じられたチャンネルは、ほとんど現在の国家独占資本主義下のもとでその基本的枠組みがすでに生まれているものばかりで、その法律やルールのレベルの目盛りをあげていくだけで、基本的には「全社会的所有」は達成できる。当たり前であるが、それは資本主義政党の政権下でも一定程度はできるものであるが、やはり系統的な達成は社会主義政権のもとでの一つひとつの段階をふんでの提案がなければ絶対にできない。これなら、昔の「構造改革論」の悪い点――権力獲得をあいまいにするという問題をきちんとクリアしたうえで、それが提起した重要な問題――一つひとつの改革や改良をつみかさねて、質的な飛躍につなげる――をきちんと生かすことができる。

 さて、置塩は、社会主義下での商品の問題や失業の問題についても考察をすすめており、それはそれで興味深いのだが、ここでは割愛して、さいごに、「共産党綱領改定案」などにもかかわる社会主義にとって大事な問題をあげておく。
 それは「搾取の廃絶」とはどういうことか、という問題である。

■■■□■ 「搾取をなくす」とはどういうことか ■□■■■
 搾取がなくなる、とは一体どういう事態なのか。
 置塩は、搾取の廃止とは剰余労働の消滅を意味するのだろうか、と問いをたて、そうではない、と結論づける。
 「問題なのは、剰余労働を行うのかどうか、どれくらい剰余労働を行うのか、剰余労働で生産された剰余生産物をどのような使途にあてるのかなどについて、労働者がその決定を行うのでなく、誰か他の人びとが決定し、労働者はそれに従わねばならないという点にある。そして、そのようなとき、労働者は搾取されているのである」「剰余生産物の処分の決定を誰が行うか」
 つまり、ここにたいして社会が決定にくわわれれば、搾取は存在しないのである。
 これは(1)のチャンネルであり、それはまさに、生産手段の社会的所有=社会的決定を媒介にしている。

 搾取の廃絶とはどのような事態か、ということについて、多くの左翼は十分な回答をしてこなかったように思う。これが最初かどうかは不明だが、置塩はその問題に明解な解答を与えたのではないだろうか。

 いずれにせよ、読後、社会主義についてのあらゆる狭いイメージからわれわれは解放される。「青写真論ではないか」という非難がうまれるかもしれないが、それは社会主義についてつきまとっている強烈な先入観を破壊するためにはやむをえないものだと思う。というか、このようなある意味で一面的に徹底した叙述こそ、われわれの意識を解放するのである。

■■■□■ 世界は社会主義にむかっている ■□■■■
 「資本主義的生産の規定的目的と推進動機は剰余価値の追求である」――もうけ第一という原理が社会をおおいつくし、人間をふりまわすという資本主義の原理がさまざまな限界にぶちあたっていることは、社会主義者でなくともすでに広範な共通認識になっている。それは「経済最優先でいいのか」みたいなコトバで私たちの日常ですでに語られているではないか。
 さいきん、環境系のNGOの人々と知り合う機会がふえたが、彼らがエネルギーや地球環境の将来を心配してたてる「未来社会図」とは、われわれ左翼をはるかにこえた大胆でラジカルな「社会的理性による経済規制モデル」である。たとえば、エネルギー消費を現行から3割削減するために、自動車依存社会を変えてコンビニ社会をやめ、発電を再生可能エネルギーにきりかえ、地域ごとのエネルギー自給圏にする、というものであったりする。国際投機の手をしばる「トービン税」もまた然りである。

 経済に社会理性を発揮させようという流れは、押しとどめられぬ流れであり、すでに現実社会のなかで大きく成長し、資本主義の国家・経済制度のなかに育ってきている。それはもはや歴史の必然である。ソ連の体験を経てしまったために、それを人々は「社会主義」と呼ばないだけなのである。


(大月書店、1993年) ISBN4-272-11079-9 C0033
2003年8月2日記
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