南Q太『オリベ』



オリベ 「織部(おりべ)」っていう主人公の女性の名前は、「鈴木」でもないし「伊集院」でもないし「石動(いするぎ)」でもない、微妙な語感だなあと思っていたら、連載誌「オリーブ」をもじったものだった(オビを見ろよ!>自分)。ちなみに「オリーブ」は休刊になり、別雑誌に移った。

 いやしかし、そうではあっても、登場人物として、「おりべ」という名字のニュアンスには、実に価値中立的な、しかしほんの少しだけオシャレさへ傾いた、気持ちのよい距離感をいだかせる。
 それは名前だけではなく、この「織部」の設定とキャラクター自体に、そういう涼しさがあるのだ。色気のない、不美人、いわゆる「ブス」、いつもテンション低めという具合に設定されていて、しかもフリーターとしてできるだけ質素な(どちらかといえば「ケチ」な)生活を送っている、それが「織部」である。

 「ブス」であれば、コンプレックスはうまれる。
 あるいはその反対の「開き直り」を転倒させた傲慢さがあったりする。
 かといって、それらを意識的に消去して、「素直さ」や「謙虚さ」が前面に出てくると、たしかに「イイ人」だとは思うが、それがまた受け取った側に一つの重さを与える。「うわーイイ人だなあ」という。つまり過剰に意識させるのである。

 しかし織部には屈折も、傲慢さもない。かといって素直だとか謙虚だとかというわけでもない。マイナスの感情も、プラスの感情も引き起こさない、それが最終的にもしいっしょにそこにいればじんわりとした「居心地のよさ」をおそらく感じるであろうふうに、人物設定されている。
 これほどの距離感の人物は、なかなか描けるものではない。

 28話で店の領収書を書いている最中に自分が誕生日だったことを思い出し、ことのついでにやはり無愛想に「今日 誕生日だった」とつぶやけば、店の人が祝福してくれる。ケーキでも用意しようかという店の人たちの好意を「いいよいいよ」「そういうの照れくさいから」と断わり、カラオケに行こうという提案にも「ありがとう でも今日は映画を見に行く予定だったから」と小さなウソをついて遠慮する。
 少しだけ気を使いながら、人との交わりを避けたがる感覚、そしてウソのついでに本当に映画を独りで見に行って感動して「いい誕生日だ」と満足する織部の姿は、自分(ぼく)のもっている心地のよい距離感というものを絶妙に表している。

 ちなみに「色気なし」だと設定されている顔も、ずっと見ているとなれてきて、いやむしろ、かわいくなってくる。
 どのタイトル画もそうだが、とりわけ21話のトビラ絵に描かれた、花をくわえた織部は、近代の草創期を彩る欧米の少女童話にでも出てきそうな「かわいさ」だ。

 そして、エッセイ漫画としても、「あるある!」率が、ぼくの場合、わりと高かった。

 20話で文庫本を読んでいる最中、興奮してくると、本を閉じて家事をはじめてしまうのだ。いや、ぼくは家事をするわけではないが、ああいい本だなと思うと閉じてしまうことがある。それは織部が言うように、「なんか一気に読んじゃうのがもったいないのかな――」ということなんだろーな、きっと。

 あと、コインランドリーで、前の人が洗濯してまだ出していないのを確認せずにコインを投入しちゃうってやつ! やりました。そのときは、この漫画のように、前の人のを洗濯機からは出さずに、もう一度洗うがままにまかせましたが……。

 そういえば、29話で織部にむかって「温泉行きたい」といっている女性(キヨちゃん)は、顔の書き方が南Q太の自意識をこめた自画像に似てるなーとおもって読んでいたら、「たまったメールの返事ださなきゃとか」というセリフを読んで、「ん? フツーの人はこういう雑事の悩み方をするのかな?」と不思議なひっかかりがあった。そうしたら「キヨちゃんは漫画家で実はこの時〆切り前でした」という説明が出てきたので、あーやっぱりと思った次第。

 美人を主人公にした同じようなエッセイ風日常漫画『トラや』よりも、はるかに共感がもてる漫画だった。南の自意識があまりカラまないせいではないか。物語のときは、それが面白く作用するけども、こうしたエッセイ風の漫画ではイヤミになったりするのだ。

 ちなみに、このコタツですぐ寝るとか、それを強い快楽に感じている点とか、友人との交際が「疲れる」といっているあたりとか、動物園にいくまではめんどうだが行くと楽しいとか、そういうあたりが、つれあいにそっくりで、これまた好感をもってしまうのだった。




マガジンハウス
2006.4.20感想記
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