藤本篤志『御社の営業がダメな理由』



 この本の主張は次の「方程式」に要約されている。

営業結果=営業量×営業能力
 営業量=営業時間−(意識的怠慢時間+結果的怠慢時間)
 営業能力=営業知識量+営業センス力+グランドデザイン力

御社の営業がダメな理由  そして、営業能力のほうは、そんなにのびない。できるやつはできるのだが、凡人はそんなにのばせないというのである。だから、「営業量」をふやす努力をしようと。いわば「多数の凡人の底上げ努力」である。有名なパレートの法則で、「2割のデキる奴、8割のその他」つうやつ。

 営業量をふやす、つまりアタックする母数をふやすわけだ。
 そのためには、遊んでいる時間を削る。

 遊んでいる時間で、もっとも削減すべきは、「営業日報」を書くために、会社の机の上でパソコンをカチャポチャと打っている時間だという。営業日報なんか、結局見てないし、見ても、極端にいうとウソが書いてあるから。
 かわりに上司(マネージャー)はヒアリングをしろ、という。面と向かって聞けばウソはいえなくなるし、把握もできるから。上司(マネージャー)自身が営業ノルマをもっているのは愚の骨頂だから、やめて、その時間をヒアリングと「営業同行」に費やして、とりこぼしを減らせ、というのである。


 これがこの本のアルファでありオメガである。
 1時間もあれば読める。

 要は、(1)あたる母数をふやす(ヘタな鉄砲も数撃ちゃ当たる)、(2)チェックと把握を強める、ということにつきるわけだ。
 もちろん、それ以外にもいろんなことが書いてあるのだが、これがエッセンスである。

 いやー、営業マネージャーがノルマをもっているとか、長い営業日報書かせるとか、そういうところまだけっこうあるのね、とびっくりしたが。


 このテの本は、まずタイトルで引き付ける。つうか、まるでタイトルが需要をぐいぐいとひきつけるように出来ている。首に縄をつけて引っ張るくらいに強引だ。

「御社の営業がダメな理由」

 このタイトルを見た人は、「そうそう、それを知りたいと思っていたのだ!」と強くうなずく。それがぼくだったからである。

 このネガティブにタイトルをつけるのは、ポジティブにつけるよりも、現時点では本当に人に訴求する。「御社の営業を画期的によくする方法」よりも、確実に人をひきつける。なぜか。愚痴を言いたいのだ。作者はそれを代弁してくれているのである。
 じっさい、この本の大半は、営業の現状批判である。
 その現状批判は一種の「エッセイ」といえなくもない。

「実は、一番厄介なのは、当分、商品を買う予定もないのに、自分の暇つぶしや茶飲み話をするために営業マンを応接室に通す相手先なのです。……〔中略〕……よく言えば、人間に対する好奇心が旺盛なため、営業マンとは必ず話をしようと心掛けているタイプ、悪く言えば、暇つぶしの相手を探しているオジさんです」(p.82〜83)

「この日報の作成は決してばかにできない大仕事となって、営業マンの肩にのし掛かってきます。
 現在はパソコンでの入力が主流となってきましたが、この場合、ブラインドタッチができる社員とできない社員では、同じ文字数でも大げさではなくて、五倍から十倍、入力時間に差が生まれることも、困った点です。
 なにしろ、営業マン本人は、二時間も費やして大作の日報を書き上げて、『今日は一生懸命、仕事をしたぞ』と満足しているのですから……」(p.97〜98)

 酒場での少しデキる社員のとぐろ巻き、それを多少ソフィスティケイトしたのが本書のこの部分である。
 ここからいえることは、このテの本の商法としては、(1)まずネガティブなタイトルで、購買層の日ごろの「不満」に訴求し、(2)大半を現状批判に割いて、長々と共感を得る、というのが王道だということだろう。



政党の“営業活動”のこと


 政党のなかで、独自の「営業活動」をおこなっているのは、公明党と共産党である。
 すなわち機関紙を売る活動(機関紙拡大活動)だ。
 公明党という組織は、組織が「若い」分だけ(組織歴も構成員も)、わりと無茶なことをやっている。この新書の筆者が否定しているような「スーパー営業マン」を養成し、いかにすごい量の拡大をやったかが連日機関紙をかざっている。

 これは、昔の共産党がやっていたのに似ている。「拡大英雄」というのがあって、機関紙をそれはもう途方もない量ふやした人間が「表彰」されていたりした。構成員も「前衛」という意識だったから、それこそ「スーパー営業マン」であることが求められていて、「拡大月間」ともなれば「スーパー営業マン」が鬼のように増やしていた。

 共産党は「前衛政党」であること、すなわち「スーパーマン」の集合体であるのをやめたことや、高齢化して無茶がきかなくなっていることにも現されているように、こういうスタイルを現在、否定している。
 共産党の「しんぶん赤旗」には党活動版というコーナーがあって、そこを読んでいるとわかるが、「スーパー営業マン」誕生という幻想をもはやもっていないし、指導部が拡大現場に同行することを推奨したり、それと実はこの本の筆者が強調しているように「構成員全体の底上げ」と「月末に集中しない活動」を提起している。

 とくに、共産党の地方組織が、月末集中型をくり返し反省している記事はかなりよく見かける。

「月末追い込み型営業マンが、
『今月は月初めから先月月末のようなモチベーションを維持しようと思います』
という趣旨の発言をします。しかし、本来、重要なのはモチベーションではありません。追い込まれた末に沸き上がったモチベーションは、追い込まれないと発揮できないのは当然のことでしょう」(p.159)

という藤本の記述は、なんか「赤旗」記事を読んでいるようだったぞ。
 共産党が「底上げ」として手立てをとっているのは、もう少し根本的なもので、基礎単位にあたる「支部」、会社でいうと「支店」とか「営業所」みたいなもんだが、そこにまず自分たちなりの目標や計画を話し合ってもってもらおうということだった。
 それも上からの目標や計画の押しつけではなく、支部で話し合ったものでよいという。

「北海道の民間の職場支部からはこういう報告がよせられました。『支部では「実践する三項目」を支部の「政策と計画」として確認した。(1)職場に入ったら元気よくあいさつすること、(2)会議を欠席するときは必ず連絡すること、(3)月一回の宣伝紙を活用すること。これを実践してみたら、『合理化』で党員もくたくたになっていたが、半年たったら党と労働者の関係がよくなった。この積み重ねが支部の団結につながっている。こつこつ増やしてきたら、結果的には日刊紙で130%を達成し、日曜版もあと少しで130%目標に達するところまできた』。ここで『元気よくあいさつする』ことが冒頭にすえられていることが、たいへん印象的でした。支部会議についても、『会議に100%出席』といわないで、『欠席するときは必ず連絡する』というところが、柔軟でリアルな知恵が働いていると感じました。」(志位和夫の話

 よく「上からの鉄の規律」などというのが、この党のイメージとして語られるのだが、志位和夫やら幹部が苦労している発言をみると、「鉄の規律」で号令一下動く組織なら、こんな苦労は必要あるまいに、と「赤旗」を読んでいて苦笑するのである。

 藤本の営業戦略と、共産党の営業戦略は似ているような印象を受ける。面白い縁だ。

 しかし、政治の本質を考えていったとき、やがて藤本タイプの戦略とはまるで別のものであることが明らかになっていくだろう。

 すなわち、藤本流は「数字」という、(質を捨象した)量の問題に還元されてゆくのにたいし、政治はまさに人と人との結びつきへと進んでいくということなのだ。

 冒頭に藤本の「方程式」を紹介した。「さてここまで読み進めてもらえれば、営業という仕事が数学的な要素で満ち溢れていることがおわかりいただけたと思います」(p.173)といっているように、藤本は、営業における精神論を否定するというスタンスから「究極の目的としているのは、営業成績という数字です」(p.173)という問題に傾斜していく。
 それゆえに、藤本がとっていく方向は、「ムダの削除」である。「営業マンの一日をつぶさに検討して、無駄な作業と無駄な時間を排除してみましょう」(p.13)ということになる。

 政治も、確かにだれそれを当選させるとか、議席数をこういうふうに増やすとか、やはり営業と同じように「数字」の結果がものをいう。

 しかし、政治という営為は、人と人が結びつくこと、他人といろんなことを話したり語ったり、協同しあったりすることに、一番の醍醐味がある。これが政治活動をするさいの楽しみであり、「モチベーション」であったりもする。議席の獲得や、生活改善の実利だけを目的とするなら、多くのサヨがこんなにも長く「結果の出ない」活動はしていないだろう。
 だとすれば、多くの人の底上げをはかるモチベーションは、無駄の排除ではなく、まさに無駄とも思える、他人とのおしゃべりや結びつきそのものの中にある。志位和夫が、先ほどの報告の引用部分のすぐあとに、別な支部からの、「労働者の全生活にわたってつきあう姿勢をつらぬいている。労働者との懇談会を二〜三カ月に一回の割合で開いている。バーベキュー大会や花見、釣りなどもおこなっている。そこに、これまで結集していなかった党員も誘っている」という報告を紹介しているのは、そのことに関連しているといえるだろう。

 これは本来経済においてもそういえるはずのことであった。
 財貨とサービスの生産は、だれかのなにかの必要のために行うものである。
 人と人との結びつきの中で、どこにどんな需要があって、そのためにそれに必要な財やサービスを提供する、というのが、経済活動本来のあり方である。

 自分の売るべき商品やサービスが相手の会社や消費者に、ひいては社会に役立っているのではないか、という実感は、そのようなムダのなかから生起する。

 それは営業量をただただ上げて、無駄な時間を食わない「門前払い」を逆に歓迎するという姿とはおそらく反対のものである。

 実は、藤本も、この本のなかで何気ない営業の会話のなかで相手のニーズを鋭く読みとるという「自慢話」をしているのだが、それを最短の時間でやれるのは「営業能力」があるからであって、多くの凡人にとってはムダとも思えるまったとりとしたおしゃべりの中でしか気づけないのである。

 限られた時間のなかで競争せざるをえないから、こうした経済本来の姿である「営業」というものは、疎外されざるを得ないのだ。






新潮新書
2006.7.3感想記
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