ひぐちアサ『おおきく振りかぶって』1巻


※3巻の短評はこちら


 小中学生のころ、通信簿は5段階評価でほとんど「5」だった。というのは、しがない自分史の、みじめな自慢ではなく、そのなかで「体育」(このいいかたは、戦前の名残りではあるが、とりあえず使っておく)だけは「劣等生」でありつづけ、そのことが当時のぼくの、しょうもないプライドを傷つけつづけた。

 うまれつき「運動神経」のにぶい者は、どうやっても上達しはしない、それは持って生まれた素質であり、体格であり、体力なのだ――こういう諦観がずっとぼくを支配していた。
 「体育」とはいったい、どのようにしたら上達するものなのか、まったくわからなかった。小学生時代はサッカー部、中学生時代はテニス部だったが、まるでうまくならない。やみくもにパスやシュートを数多く打ってみる。乱打をしてみる。だが、流した汗の量に比例してうまくなるわけではない。それどころか、下から2〜3番目ていどにへたくそなままである。

 長じて。

 ぼくは、マルキストとなった。われわれマルキストの確信は、というと怒る人がいるので、マルキストであるぼくの確信は、われわれをとりまく世界とは物質であり、その物質は、自然も社会も身体も意識も、無数の諸法則によってつらぬかれている、というものである。
 ぼくらは、その法則という必然性によってがんじがらめにしばられている
 ヘーゲルの有名な「自由とは必然性の洞察である」をあげるまでもなく、ぼくらはぼくらをとりまき、ぼくらをしばりあげている鉄の必然性を知り、それにもとづいて世界を変革することによって、はじめてその必然性から解放され、自由になれる。

 ぼくは、大人になるにしたがって、身体運動というものは、もっとも基礎の部分では――ほかの諸科学同様――こうした自然と身体にかかわる諸法則によって構成され、その認識によって上達が可能であることを知った。

 ぼくの場合、たとえば長距離走であり、たとえば水泳であり、たとえばスキーである。

 むろん、そのあと、それを体得することが必要となるわけだが、少なくとも何にむかって努力すればいいのかは明瞭になる。あの小学生時代、暗夜行路のようにいったいどこへむかえばいいのかわからない、というぼくの「体育」観は、ようやく終わりをつげることができた。

 で、本書『おおきく振りかぶって』である。

 この本、少なくとも第1巻は、まさに、野球というスポーツもやはり例外なく、自然と身体についての諸科学を基礎としている、という世界観につらぬかれている。むろん、そうした世界観は、さいきんの野球ドラマであれば多少なりとももっているだろう。
 だが、『おおきく振りかぶって』がすごいのは、その「科学感」(科学観、ではない)を18世紀唯物論よろしく、極端なほどに全開していることである。
 人間は、こうした諸法則という必然性にとりまかれた存在であり、その諸法則の認識さえあれば、ドラマチックなほどにその諸法則を応用し、必然性を克服することができる、という調子でつらぬかれている。作者の意図は別として、ぼくはそういう印象を強く受けた。

 1巻にある「第2回 キャッチャーの役割」は、その「科学感」が見事に集約されている。

 新しく結成されたメンバーばかりで、合宿をおこなうのだが、コーチである卒業生・百枝(女性)が、バッテリーをきたえるシーンは圧巻である。
 ピッチャーの三橋は、「ヘタなのに理事長の孫というだけで投手にしがみつづけた」という前の学校でのコンプレックスをかかえる弱虫で、コントロールは抜群にいいのだが、球は速くない。
 百枝は、三橋を角材の上でワインドアップさせるのだが、体幹(腹筋・背筋を中心にした胴体部分)がしっかりしていない三橋はすぐ倒れてしまう。百枝は、
「コントロールは手でするんじゃないのよ 体でするの!」
といって、ピタッと角材の上で脚を挙げて静止する。
「あなた(三橋)が体幹が弱いにも係わらずコントロールいいのは 全力投球してないからよ!」
と百枝は宣告する。
 三橋は百枝に重い鉛塊をわたされ、「それをもったままいつも通り投げてごらん」と言われる。
 三橋が投げようとすると、鉛をもった左が重くて体が回らず、投球最中に無意識に左を引く。すると、まるで体がふりまわされるようにして、そう、まさに自然法則の鉄の必然性が貫徹されるように、その必然性に体を動かされるようにして、三橋は体全体で「投げさせられて」しまう。
 たいへんな大暴投ではあったが100キロしか出ていなかった三橋の球は111キロまでスピードがあがる。
 体をふりまわされるようにして投げ、その場に回転して倒れた三橋の手がビリビリとしびれる。
 毛細血管が切れているのだ。
 「毛細血管の切れるカンジわかった?」と百枝。
 「きっ、切れてる切れてる!」と感極まって叫ぶ三橋。


 人間が自然と身体の諸法則という必然性にとりかこまれ、百枝がその法則を冷徹に応用することで、まるでラ・メトリの「人間機械」のごとく三橋はその法則どおりに動かされる。

 先述のような「暗い体育」体験をもつ身としては、このようなスポーツ観こそ、諸手をあげて歓迎したくなる。

 百枝は、人間の意識さえ、こうした諸法則の組み合わせであり、その認識によって操縦しうる、という一種の狂気に憑かれているようにも見える。
 手をにぎり、信頼をつたえることで、バッテリーは一体になれ、そのもとではコンプレックスさえも制御しうる(「克服」はその段階ではなされない)と考えている。
 『ヤサシイワタシ』で、日常の中で激しく浮き沈みするコンプレックスや愛憎の弁証法を、見事に描いたひぐちアサがこの「科学感」あふれる野球漫画を描くために起用されている理由はここにある。(とくに三橋のコンプレックス、かつ身勝手ぶりの描出は見事。ひぐちの本領発揮だ。)
 意識さえも、対象化し、科学や技術の素材として扱いうる。


 奇妙な類似なのだが、小説に出てくる軍事の記述にも、こうした「科学感」がただようと、ぼくはゾクゾクしてしまう。
 『三国志』の諸葛亮や、『銀河英雄伝説』のヤン・ウェンリーのような形象に、ぼくがからきし弱いのはこのためだ。

 百枝、というキャラは、ぼくには、司馬遼太郎あたりにでてくるような、「英雄」を思い起こさせる。
 それは、あの「眼」である。
 百枝の眼は、大きく見開かれ、瞳の部分は白く描かれる。
 一種の「狂気」を感じさせる描き方だ。
 司馬がしばしば(すいません)このんで描く、「奇相」を思い起こさせる。たとえば司馬の描く信長である。家臣団をひたすら機能をそなえた人格としか見ず、自らの問題意識にそったその「道具」の用途しか考えていないような、あの一途さ。
 一途に問題意識をとぎすまし、集中していくような狂気ぶりを、ひぐちアサが描く百枝、その百枝の「眼」は実によく表している。
 百枝は、司馬の描く信長のように、自分の生計のための労働をしている最中さえ一途に野球のことを考えて体を鍛え、試合の最中も自分の思惑通り選手が動きはじめると鳥肌がたつほどの恍惚をおぼえる。
 まさに、一種の狂人である。

 百枝のように、長い髪、大きな胸、という、いわゆる「女性的表徴」と、大きな体躯、狂気じみた眼という、いわゆる「男性的表徴」(あくまで「いわゆる」である)を混在させた形象を、ぼくはぜひ軍記もののなかで見てみたい。

 だれか、ライトノベルズの軍事ファンタジーで、こういうキャラをつくってみませんかー。




おおきく振りかぶって (1)アフタヌーン KC
講談社アフタヌーンコミックス
以後続刊
2004.4.18記
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