山本ルンルン『オリオン街(ストリート)』


オリオン街(ストリート) (1)シトラス学園 完全版

 山本の『シトラス学園』(完全版)を読んだとき、メルヘンな絵柄に似合わず、なかなかどうしてのある漫画家だと思った。とくに本編ではなく、後半の短編集。

 もともと童話とは毒のあるものであった、という説のとおり、時間も空間も普遍的なかんじのするいわゆる「童話」色にみちているのに、すぐにかわいい動物を殺したり、人をおとしいれたりする。

 ぼくは、市販されている山本の作品のおそらく一部であろうものしか読んでいないが、山本の話には、「色恋」とか「性欲」という要素が欠落している(もちろん、全くないとは言わないが)。
 そのかわり、もうひとつの欲望である「食欲」については、山本はいろんな場所でわりとしつこく描く。山本の作品に共通して登場する「ウサギイヌ」が笑いながら、いつも食べてばかりいるのは、その最も象徴的なものだ。

 『シトラス学園』でデイジーという女の子の家に飼われているマッドという名前のウサギイヌが食べているシーンは、むちゃくちゃかわいく、むちゃくちゃ憎たらしい
 デイジーのおやつを勝手に食べながらテレビをみて大笑いしているマッドに、ぼくはデイジーと同じ、突発的で激しい憎しみをいだいた。なにが「ハハハハハ ムシャ ムシャ」だ、このやろう。そのあまりの身勝手さの描写は、天下一品だ。

 たぶん、子どもをもったら、この「かわいさと憎たらしさ」を同時に味わわされるんだろうなあ。

 また、食欲のほかにも、性以外の人間関係――とくに、大波小波に翻弄される小舟のように、集団のなかでの人間のプライドが浮き沈みするさまを描くのがうまいと思う。

 その『シトラス学園』をひとつのプロトタイプにして、生み出されたのが、『オリオン街』であろう。スモモという、どちらかといえば流行や、多数になびきやすく、派手であきやすい小学生の女の子と、その親友で地味だけど独自の世界とねばり強さや不思議な才能をもっている、みどりという女の子を軸にして、1話完結の形で話が進行していく。

 1巻の冒頭のエピソードはなかなかに強烈である。「こんな漫画を小学生に読ませていーのかよ」と思うくらいに、毒が強い。
 スモモが自分はクラスの女子の主流派グループにいるつもりで、そのグループにいっしょにいるとき、「みんな」で遊園地にいこうという約束をするが、その大ざっぱな「みんな」のなかにスモモは実はカウントされていなかったという悲しい話。
 「ダサい」みどりをきりすてて、ようやっと仲間に入ったつもりだったのに、いざ集合場所に行ってみると友人たちから「どこ行くのォ?」などと悪気なくまじめに問い返されてしまう。
 見栄をはってその場から離れ、ひとりで動物園に出かけるのだが、楽しいはずがない。
 そのさびしさを、山本は容赦なく、長々と描く。
 しかもその日はスモモの誕生日だったのだ。
 とりつくろったプライドが粉々に打ち砕かれ、夜の街を涙をためて走るスモモの痛さに、僕はのたうちまわる。痛い。なんでこんなに初回から痛いのだ!

 ただ連載が「朝日小学生新聞」だったこともあってか、次第次第に健全色が強まっていく。まさに、童話らしく寓意に満ち、個性、労働、家族などといった当該社会がさししめす価値を小学生に教える。もちろん、どれもシンプルで、キレ味がよく、絵の童話性とあわせて、嫌味なく伝わってくる。水準が高い。
 しかし、やはり、ぼくとしては、初回で見せたような「毒」のある展開をたくさん読みたかったのだが、小学生新聞の連載漫画にそれを毎回求めるのは酷というものであろう。

 2巻収録の「となりのケンジくん」は、みごとなジェンダー批判である。
 汚く、乱暴で、家事的なことを「男らしくない」と軽侮するケンジは、実は父親が在宅で家事をし、母親が外で働くという家で育っており、そのことをケンジは「異常」だと思い、後ろ暗く感じていた。
 だが、その家をスモモとみどりが訪問し、あこがれることによって、ケンジは呪縛を解かれるのであるが、このスモモとみどりの一つひとつの感心のしっぷりがまたうまい。童話ならではの直截さである。
 リボンやフリルをつけることも、ズボンでおしゃれすることも、あらゆる生き方が多様に割拠していることのすばらしさを、別にこのエピソードに限らず、小学生は山本の作品から知るであろう。「ジェンダーフリーとは無性化運動である」などと妄言を弄している石原慎太郎の茶坊主議員たちは、まずは山本ルンルンを読むといい。

 大人が読んでも十分に楽しめる作品である。


 

『オリオン街(ストリート)』全6巻(JIVE)
『シトラス学園 完全版』(太田出版)
2005.3.19感想記
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