対決 ヲタク対モテ系(エビちゃん)
対決 ヲタク対モテ系(エビちゃん)



 エビちゃんというのは、知らない人のために言っておくと、小学館の雑誌「CanCam」の専属モデル蛯原友里のことである。NHK前会長のことではない。
 「CanCam」は10代末から20代にかけての学生・OL・「家事手伝い」の女性をターゲットにしたファッション雑誌。そこで「カッコいい系」(代表者山田優)と双璧をなす「カワイイ系」の代表格がこの蛯原こと「エビちゃん」である。

 で、最近、いったい何を狙った企画なのか、ファッション誌圏外にいるヲタクとしてはまったく理解不能なのであるが、「エビちゃんシアター」なるものがはじまった。エビちゃんをはじめとするモデルのみなさまが役者に扮して、写真を漫画のコマ割りのように配して物語を展開する。えーっと、昔「小学3年生」誌とかでそんなの見たような記憶が。

 まだ始まったばかりなのだが、編集の意図が奈辺にあるのかわからず、当惑している。


他者性なし(CanCam2005.4より)

 まず、蛯原と恋人のケンが、「アリヴェデパール」なる雑貨・家具店に現れ、買い物。

エビ「わ、見てコレ。すごくかわいくない?」
  (ストラップをケンにしめし、ケータイにおそろいでつけようと迫る)
ケン「……前から思ってたんだけど、ユリの趣味ってビミョーだよね」

 仏頂面になる蛯原。
 シーンがかわって、蛯原をふくめた女3人の会話。

ナオコ「彼に趣味否定されると落ちるよね」
マキ「あたしだったらグーでパンチしちゃいます」

 するとアレですか。彼女が「かわいい」といったものは、全部承服しないといけないんですか。
 お前以外の人間は全員お前じゃねえんだよ!(by沙村広明)
 岩田靖夫はレヴィナスの思想を解説して、こうのべる。「他者は、つねに私の知を超える者、私の把握をすりぬける者、私の期待を裏切りうる者、私を否定しうる者である」。エビちゃんに他者はいない。すなわち、エビちゃんはスターリニストである。

 「これ、かわいくない?」と「フィギア萌え族(仮)」がエビちゃんに言ったら、「グー」で殴られるだけでなく撲殺されるだろう。


天上天下 TENJO-TENGE NO.2 棗 亜夜 NATSUME AYA

 つづいて、「クローゼット」なる洋服屋に女3人が出かけ、各種ワンピースを試着するシーン。「どれも下着のようだ」などというオヤジ純正のセリフが頭にうかぶ。

 で、女3人で「オービエント」なるクラブに出かける。
 そこで清水という男に会うのである。
 上目遣いに「……はじめまして」などとあいさつするエビちゃん。
 ちなみにこの「上目遣い」はエビちゃんの必殺技らしく、激烈に多用される。技術であるといったん見え出すと、もうだめぽ。古典芸能みたいにしか思えん

 会っていきなり口説く清水。

(CanCam2005.4より)


清水「つきあっちゃわない? 俺と」
エビ「だって、さっき会ったばっかりなのに……」
清水「好きだから。好きになったから。俺、エビちゃんの好きなところ、今すぐ100個言えるよ。いっこめ、困ったときに瞬きが遅くなるところ。ふたつめ、のんびりとした話し方。みっつめ、グラスを持つとき、中指を絡めるところ、4つめ、小さい爪、5つめ、芯がしっかりしてるところ」

 ウザい。以上。
 会ってすぐ口説く男が口にする「あなたの好きなところ100個」などというものに、1グラムの誠意でもあるとでもいうのか
 さすがにエビちゃんも「え、あの、もういいです」と言っているので、これはもちろんハア?(゜Д゜) 状態なのかと思いきや、後で恋人に「10個でもいい。あたしの好きなとこ、言える? 言えないでしょ? 清水さんは言ってくれたよ?」と口走っているのを聞くと、どうやらマジ。「やめて……これ以上、言われると好きになってしまいそう……」という気持ちの吐露だったのだ! 

 ところで、これシークエンスがかわるたびに、「Ebi/ニット¥11,550(レベッカ テイラー)、カーディガン¥12,600(アプワイザー・リッシュ)、スカート……」などと身につけているものの値段や解説がはじき出される。
 もし部屋に入るとき、空港の金属探知機よろしく身につけているものの値段の総計を一瞬ではじき出す機械があったら、「エビちゃん18万2520円」「紙屋研究所3200円」という具合になるだろう(ジャケットを袖がすりきれて中身が出るまで着ている)。

 やがて恋人のケンとエビちゃんのデート中、清水と街頭ではちあわせ。
 ケンは広告代理店につとめ、清水は「新人タレントのプロデュース」がどうのこうのと言っている。
 お前らの世界には、マスコミ関係者しかいないんですか
 「この国(わたせせいぞうの描く世界)には基幹産業に従事するものがいない。売るべき品物がないのに、広告屋もしくは広告屋風の職業に従事するものばかりである。おまけにまるで働かない。いったいどうやって社会生活を維持していたものか、まったく不可解である」(関川夏央)
 農民とか、栃木の工場で請負とか、実体的富を生産する人間は恋をしないのだろうか。

 出てくるのはすべて港区(しかも青山と六本木)と渋谷区(しかも神宮前)のみ。エビちゃん的世界は港区と渋谷区で閉じているのだ。きっと渋谷区のむこうはごうごうと滝が流れていてそこが「世界の終わり」であり、当の港区と渋谷区はゾウとカメの上に乗っているのであろう。


 3人で行ったメシ屋でケンとエビちゃんはケンカ別れ。
 清水が速攻で口説く。

清水「だからさ、僕とつきあっちゃおうよ」
エビ「でも……清水さん、モテそうだから」
清水「心配? まあ、女の子の友だちも少なくないけどね……」
エビ「そういうことでドキドキするのは、嫌なんです」

 もうすっかり身も心も清水。
 なんなんだ、お前は。

 突如、清水が「すいません、チェイサーください」。
 ぼくは、生涯でただの一度も水のことを「チェイサー」と表現したことはないし、今後も恥ずかしくてできないであろう(厳密にいうと、チェイサーは水に限定されないが)。飲み屋で「すいませーん、水ください」と今日も俺は叫んでいた。「水」と表現する人間はエビちゃん的世界には住めない。「東京都 下チェイサー道局」とかいうのかね。


 で、ケータイを沈めるのである。

CanCam2005.4より


清水「エビちゃんと出会ったから、もうケータイのメモリーは用なしだ」

 なんだか『ハチミツとクローバー』だな。
 ケータイの放棄が、もっとも誠実な愛の確認行為として描かれる。ケータイを持たないぼくにはまったく理解不能な行動だ。それが清水の何を表したというのか?
 栃木の工場で請負労働者が体を摩滅させながら製作したケータイは、渋谷区神宮前の「ソーホーズ表参道」で、誠意を示す儀式として溺死させられていた。

 きっと50年後の日本の結婚式では、おたがいが神の前でケータイを放棄しあい、永遠の愛を誓うのであろう。ケータイで電話しあいながら。「もしもし、永遠に愛してる?」「もしもし、永遠に愛してるよ」。ザブン。(おたがいのケータイを「チェイサー」に漬ける神聖な音)



 もう書き続ける気力が失せてきたが、このあと、ケンがエビちゃんに「エビの好きなところ」を思い出まじりに語ってこの巻はおわり。

 ヲタであるぼくとまったく絶縁された世界を、ぼんやりとながめてきた。そこには了解不能な他者性が広がっている。しかし、ぼくにとって、それはそのままでいいのか。

 蛯原はいわば「俳優」としてこの物語に登場しているだけなので、問題は蛯原そのほかの個人なのではなく、こういう思想を売り物にしている「CanCam」である。
 人間は多面的で矛盾した存在であって、ある一面がどのように見えようとも、この同じ資本主義日本で暮らす以上、どこかしらに連帯すべき側面を持っているはずだと、生半可なサヨクのワタシは考える。しかし、こうやって切り取られた「物語」にはどこにも連帯や共感を示しようがない。すなわち蛯原個人と話してみれば、何か見えるところがあるのかもしれないのに、「CanCam」でこのようにしてパッケージされた物語からはほぼ絶望のような隔絶しか感じ得ない。そして、そういうところに往々にして罠がある。
 中高年の左翼の人たちが、「いまの若いやつはダメだ」と絶望的に語っているのを見聞きすることがあるけど、理由を聞いてみると「まいているビラを受け取らない」とか「頭を茶パツに染めているから」などというめちゃくちゃな理由だったりする。
 エクセル青山店でネイルサロンの施術を受けているエビちゃん系の人々であろうと、2chで排外主義をあおっている「プチなしょ」なみなさんであろうと、ぼくらはその人たちの何を知っているというわけでもない。物語としてぼくらがそれを切り取った瞬間に、単純化と誤解がはじまっているのだ。

CanCam 増刊 エビちゃんシアタースペシャル版 2006年 06月号 [雑誌] ※『エビちゃんシアター』が完結し、本に…………orz








小学館「CanCam」2005年4月号
※引用の原則をふまえているつもりではありますが。
2005.3.23感想記
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