ササキバラ・ゴウ「おたくのロマンティシズムと転向」



 ぼくの有事法制漫画があるサイトで批判されて、それにたいして「対話」の呼びかけと、メールをおくり、はや1週間ちかくになるが、ついに返事はなかった

 当該サイトは、あいかわらず、「サヨク」や「アサヒ」、「北朝鮮」「金豚」などといったものへのルサンチマンをぶつけるようにブログが進行していっている。(参照:小熊英二・上野陽子『〈癒し〉のナショナリズム』

 以下は一般論。

 自らとはまったく異質の「他者」との対話そのものを拒否し、自閉していく空気は、そのまま憲法9条を撤廃しようとする精神土壌を提供している、とササキバラ・ゴウは指摘する。

「憲法第九条の面白いところは、それが外へ向けられていることだ。日本の外にいる他者を前提として、それは語られている。前述したように、『他者』は暴力という局面において私の前に出現する。日本国憲法はその暴力性を自覚することにおいて、他者を呼び出しているのだ。
 そういう意味で、憲法第九条を撤廃しようとすることは、他者を消失しようとすることであり、自閉していく私を肯定することに容易につながっていく」

 大塚英志は、『戦後民主主義のリハビリテーション』のなかで“それにしても、おたくなものとナショナルなものってどうしてこうも親和的なんだろう”、と苦笑していた。
 石原慎太郎の家に美少女フィギアが山のようにあり、自衛隊の戦闘機のノーズアートに萌え絵が配され、『せんせいのお時間』で主人公の愛読書が『亡国のイージス』だったり、べつに例証には事欠かない。

 ササキバラは、70年代のSFを一つの源流とする「おたく」文化は、それが偽史をつくり、作者が自由自在に世界を構築できたように、「私」の超越的な立場を確保してしまい、それが、ラブコメからギャルゲーへといたる流れを構成している、とみる。
 斎藤環が指摘したように、ひとつの作品に登場するすべてのキャラは自分の人格の分裂であり、多様にみえて、実は「他者性」をもたない。どんなキャラも自由自在に設定できる。
 「だからその時、世界は容易に私の中に閉じていく。そのような認識に簡単にたどり着いてしまう。常に最も超越的なところに立つ私にとって、世界は結局私の中にだけあるからだ」(ササキバラ)。

 ギャルゲー、あるいはエロゲーにおいては、おたくである「私」の視線の暴力性は忘れ去られ、「彼女という他者と出会いながら、それを内面化し、自分にとって『攻略可能』なキャラクター化してしまう」(ササキバラ)。

 この空気は、9条を廃棄し、「自衛」という名で実はアメリカの戦争の補助をしていこうという、今日的な空気に実によく合う。
「戦争という手段を放棄する限り、我々は他者を『傷つかないキャラクター』として済ませずに、向き合い続け、理解しようとし続けなければならなくなる。その時、私の超越性は揺らぐ。私の閉じた世界にほころびができて、その裂け目からは正体不明の他者がやってくる。
 現在の世界に漂う改憲気分は、そのような無気味な他者の影におびえ、私の『超越性』の裂け目をふさいで自閉しようとする動きのように感じられてならない」(ササキバラ)。

 おたくの破産としての宮崎勤事件で、宮崎は、幼女が自分の「甘い世界」につきあってくれているうちは、「相手性」がなく、まったりとしていられた、という。ところが、幼女が「帰りたい」などとぐずりはじめたとたん、幼女は自分を襲う「ネズミ人間」と化し、暴力的な、理解不能の「相手性」をそなえたのだ、と精神鑑定で告白している。
 それをまともに信じるかどうか別にしても、ある空気を言い当ててはいる。

 他者との「対話」を拒み続け、「金豚」「アサヒ」「サヨク」を、自分にとって「攻略可能」なキャラに変えてしまうことにあやうさをみないわけにはいかない。


 そういえば。

 先のサイトの話にもどるが、そのサイトの新しいブログのなかで、少しばかり興味深かったのは、ホストクラブへ出かけ支払いができなかったために売春を強要された少女たちの事件をとりあげ、「被害者なのか加害者なのかわからない」といっていることである。
 だが、少女たちは、まかりまちがっても「加害者」であることはありえない。
 子どもであるかぎり、そして子どもであればあるほど、極端で先鋭的なまちがいを犯しうる。だからこそ、社会や家庭や共同体がその緩衝材として、右に左に大きく振幅をとりながら成長していく子どもを受けとめてやらなければならない。自分が15のときを考えてみればどれほど未熟で極端だったかを思い出せるだろう。
 仮に、百歩譲って、少女たちを「オトナ」だと扱うとしても、ホストクラブに行くことは自体は、犯罪ではないし、料金が払えなくなってもそれは売春を強要される理由には一切ならない。
 どのような設定をしても、少女たちは「加害者」には1グラムもならない。かのサイト氏が言いたかったことを、言い直してもせいぜい「落ち度がなくはなかった」という言葉でくくれるかもしれない、という程度の話だ(それはぼくがそう言いたいのではない)。

 にもかかわらず、当該サイトが「被害者なのか加害者なのかわからない」という、被害者と加害者の境界のあいまいさに踏み込んでいるのは、偶然ではない。
 それは9条を破棄したい、加害者であった日本を忘れたい、という空気と実によく合っている。

「加害者であった自分を忘れて、被害者であった自分を忘れて、被害者という立場に自閉することで、他者を加害者として一方的に責め立てる時、その他者が傷つく存在であることは忘れられる。そのようにして、自身の優越性の中に自閉して生きていく様は、まさしく現在の日本の空気そのものだ」(ササキバラ)




返事がないこと自体は、非常識でもなんでもない。ある意味で常識的な対応の範囲だと思う。拒否すること、呼びかけに応じないことは、正当な権利である。メールを送ってくる相手に、いちいち公開で反応したり反論したりしなければならない「義務」などない。ぼくも、不誠実そうな人、対話(論争ではなく)ができにくそうな人、かたくなな人など(あくまでぼくの印象)は、基本的に相手にしない。


「おたくのロマンティシズムと転向 『視線化する私』の暴力の行方」
「新現実」vol.3 角川ムック199
2004.5.29感想記
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