杉浦由美子『オタク女子研究』



オタク女子研究 腐女子思想大系  副題に「腐女子思想大系」とあるように、腐女子の「思想」「生態」「日常」について書いたものである。
 このサイトを読んでいるような廃人すばらしい人たちの中には「腐女子」とは何か知らない人はいないと思うが、念のために言っておくと、「やおい」や「ボーイズラブ」を愛好する女性オタクの自嘲的自称のことだ。
 「やおい」は、すでにある漫画やアニメなどの著作物などを男性同士の恋愛に変換した「パロディ」(翻案もの)のことで、「ボーイズラブ」は、男性同士の恋愛を描いた創作のことである(もちろんこれとちがう定義もありうるが)。

 「腐女子の生態」の章では、男オタクにとっての聖地であるアキバにたいし、腐女子の聖地であり「やおい」や「ボーイズラブ」が大量販売されている東池袋の状況とそこに集まる人々の「生態」をルポする。
 つづく「腐女子の思想」の章では、腐女子が愛好している「やおい」「ボーイズラブ」の世界と、そこへの腐女子ののめりこみぶりを書く。
 最後の「腐女子の日常」の章は、モテることをめざす女性・「恋愛史上主義」の女性(モテ系)たちや、30〜40代独身の「負け犬」女性たちとの比較をつうじて、その結婚・恋愛観を中心に紹介する。

 本書の最大のポイントと思われる点の一つは、本人が「腐女子」であるということだ。
 だからオタクではないのに萌えやオタクを観察したと自称している、堀田純司『萌え萌えジャパン』や大泉実成『萌えの研究』(いずれも講談社)などの客観主義的なスタンスとは異なっている。むしろ自らオタクとしてリアル恋愛の価値を批判した本田透『電波男』(三才ブックス)と同じグループに入るだろう。
 ただし、本書は「AERA」誌に書いた記事をもとにそれをふくらませたというだけあって、導入の東池袋のルポなどは客観的な記述をにじませている。もしまったくオタクなどといった分野に足をふみいれたことのない「一般人」が「腐女子とは何か」と知ろうと思うなら、適切な導入にはなるだろう。
 しかし、全体はどうにも腐女子自身の「主張」「自己紹介」であって、この本に冷静なルポルタージュ性を期待してはいけない。

 そう。
 腐女子自身が書いたことによって、本書はたいへん戦闘的な「腐女子の主張」となっている。
 筆者の杉浦自身は、男オタクについては「『三次元は敵だ!』というのがアキバ系硬派の思想なのです」(p.118)としつつ、自分たち腐女子については「腐女子は仮想敵を作りません。なぜかというとめんどくさいから。理論武装するよりは創作活動を好み、ひたすら自らの『萌え』だけに忠実に行動します」(p.118〜119)とのべている。
 しかし、杉浦は腐女子というものを、男オタクやモテ系女性、文化系女子、「負け犬」女性などとの比較を通してうかびあがらせようとするので、それらの「他者」にたいする規定がたいへん断定的になる。それが重なっていくと、ぼくらがこの本を読み終えたころには非常にアグレッシブなものを読まされた気になっているのだ。「おれたちはそんなんじゃねーよ!」と怒る男ヲタや、「あたしたちをバカにするのもいい加減にして!」と怒髪天をつく負け犬女性のみなさんも多かろう。
 とくに「腐女子の日常」の章で、モテ系や「負け犬」との比較のあたりは、軽やかな皮肉&脱力的自己紹介のつもりなのだろうが、50ページもそうした記述がつづくとそれは「軽やか」ではなくなってくる

 たとえば、こうである。

「『無駄な努力』といえば、負け犬のみなさんです。負け犬は無駄な努力がスキです。三〇歳すぎて英会話力をスキルアップしたりする。……〔中略〕……確かに私も英語が読めなくて四苦八苦することはありますが、しゃべれない苦労は感じることが少ない。インターネットで海外のサイトを見たり、洋書を手にとったりする機会は多々あっても、英語を話す機会はほとんどありません。駅でアメリカ人の旅行者にトイレの場所を聞かれる時ぐらい。日本を拠点に生活する限り、英語は読んで書けることが重要です。それなのに、負け犬は『英語が話せるようになりたい』と盛んに言う。まあ彼女たちの多くはいまだに『商社マンと結婚して海外駐在員の妻になる』のがステイタスだと思っている古風な女性なので、『英会話は大切!』と思っているのかもしれません」(p.162〜163)

 また、モテ系女性にたいしても断定する。
 杉浦は、容貌の維持向上をして「素敵な男性をゲットする」と会話しあうモテ系女性たちの会話を電車の中で耳にしたという(余談だが、この会話があまりに「典型」すぎて、ぼくが「AERA」の記事を読んだときにしばしばいだく違和感――「作り話じゃねーの」――に似ためまいを覚えた)。
 そして、その女性たちをこう断ずるのだ。

「このような話をしているお嬢さんたちをそっと見ると、案の定、十人並みの容姿。他人事ながら涙が出そうになりました。彼女たちの容姿と頭脳では『素敵な男性』はゲットできないでしょう」(p.164)

 そして、彼女たちとの比較を通じて、腐女子を次のように規定する。

「負け犬にしても玉の輿願望が強いお嬢さんにしても、無駄な努力にいそしんでしまうのは、現実認識がちょっと間違っているから。自分の立ち位置がちゃんと分かっている人間は、無駄な方向にパワーを使いません。やるべきことをきちんとしたら、あとは自分がリラックスして楽しめることをしたいと考える。私が腐女子たちと付き合っていて感じるのは冷静さです。自分の可能性を把握しているがゆえに、娯楽には異次元であるやおいやボーイズラブといったジャンルを嗜好するでしょう」(p.164〜165)

 負け犬もモテ系もおそらくこうした自分への断定を聞けば、狭く自分を規定されたような気がして、ムッとするはずである。

 そして、それは男オタクも同様だろう。

 杉浦は経済アナリスト・森永卓郎の発言を引用しながら、

「男性のオタクにとってのアニメや漫画の美少女キャラクターへの萌えや妄想は、『現実で満たされない性欲の代償行為として』存在するとされているのです」(p.99)

と指摘する。あるいは自分のまわりの男オタク友人たちや本田透の発言を「根拠」にして、

「どうも、オタク男性の世界では『オタク』と『恋愛』のどちらかを選ばないといけないようです。この『二者択一』は、腐女子には理解できない。だって、腐女子の場合、現実の恋愛やセックスと、オタクとしての『萌え』は全くの『別腹』」(p.44)

 すなわち、杉浦は、男性ヲタにとって「萌え」とは現実の「代償」であると規定するのだ。
 「フィギア萌え族(仮)」事件(奈良の少女殺害事件で、ジャーナリストの大谷昭宏が犯人像を「フィギア萌え族(仮)」だとテレビでコメントし、オタクの一部が怒った事件)のさい、大谷が「萌え」を現実への代償だと述べたので、オタクのなかでこれを批判する人々が現れ、オタクで精神科医でもある斎藤環もこの「現実の代償としての萌え」(現実に恋愛できない、満たされないから代わりのものに走る)を厳しく批判したことがあった。
 斎藤は『戦闘美少女の精神分析』のなかで、この「代償」論をくわしく否定し、オタクとは「多重見当識」を生きるものだと規定した。
 「二重見当識」という概念がある。たとえば「わたしは都知事で資産数十兆円だ」といいながら、同時に施設の職員の指示にしたがって作業をしているような患者の意識のことで、その患者にとってはリアル現実も「都知事としての自分」もまったく矛盾のない「等価」な世界なのだとされている。オタクはこれを虚構世界ごとにもっていて、いわば「二重」どころか「多重」な等価の世界に生きているというわけである。
 これは斎藤のようなオタクの初期世代だけの「症状」かというと、そうでもなく、ぼくが「空想と現実との戦争でまけた将軍がたてこもって防戦する城が恋愛だ」という北村透谷の言葉をひいたことに反応し、「オタクにとって虚構世界は現実逃避や代償の場所ではない」と言われたことがある(くわしくはこちら↓)。
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/koikaze.html
http://www1.odn.ne.jp/kamiya-ta/tosiue-no-hito.html


 なるほど杉浦は「森永」や「本田」といった一応の根拠を示しているので、文筆家としての「いい加減」さとしてこの問題を指摘することはできない。しかし、「現実にできない恋愛やセックスのかわりに虚構に萌えるんだろう」式の代償論に怒り出す男ヲタも少なくないことも確かである。
 

 杉浦は「アキバくん」=男ヲタについては、このように彼らの萌えは現実の代償じゃないのかと言いながら、反面、自分たち腐女子の「萌え」については現実も虚構もまったく等価にあつかう人種なのだとする。これは男ヲタの一部が主張していることと同じである。
 つまり虚構世界と現実世界はまったく別の等価なのだ、という主張は男ヲタこそ歴史的に言ってきたことなんだよ! と男ヲタは叫びたい気持ちでいっぱいなのだろうと思う。なに、腐女子の固有性にして独占してんだよ、と。

 杉浦は、自分たちは現実についての冷静な認識があるので、モテ系や負け犬のような「高望み」もしないし、アキバくんのような「純粋な愛」などという無理な要求もしない、つまり現実主義的な「分」をわきまえているのだ、とのべる。
 ええ。恋愛が「できない」んじゃなくて、もちろんできますよ、ひどいブスしかいないんじゃなくて女優そっくりさんもふくめてフツーにキレイな人たちもたくさんいます、でもバカな高望みはしないワケ、要求水準が低いから現実の恋愛はテキトーにすませて虚構にいそしむんですよー、そっちのほうを楽しんでいるからモテ系たちみたいに容姿磨きにお金や手間をかけないの!――というのが杉浦による腐女子解説なのだ。
 だから腐女子がピンクハウスを着ているとか、ブスで現実の恋愛ができないから現実逃避しているとか、性差ゆえの抑圧からの精神的解放として自分の性を逃れた対等性を求めるとか、そういう認識は的外れなんですよねえ、と杉浦は述べる。

 なんとまあ、カッコよく自分たちを規定してるではないか
 杉浦本人は「脱力」「ほげほげ」を装っているつもりかもしれないが、自分たちをすばらしい人種だと考えており、抑圧をまったく感じない明るいトーンで自画像を描いてみせている(反対に、男ヲタやモテ系などの他者は例外なく何らかの抑圧や強迫にとらわれていると考えている)。

 これは男オタクたちが世間による自分たちの規定を逃れたり拒絶する身振りに、酷似している。
 自己を規定する他者には厳格さを要求しつつ、自分たちが他者を規定するさいには、ひどく乱暴に断ずるのだ。

 これはオタクである自分への反省をこめて思うのだが、虚構に耽溺することは、「現実の代償」であることや、「現実の抑圧からの精神における解放」、「他者がもつわずらわしさ(豊かさ)からの逃避」などという側面が絶対にないとはいえないのではなかろうか。
 それだけを一面的に規定されたり、それを主要な側面だと見られると、まあたしかに面白くはない。最近、ぼくも年輩の女性と話をしていて、「なんですか、『萌えチャン』っていうんですか? あれって現実の恋愛ができないから、お話の世界に逃げ込んでウヘウヘっていってるんでしょ?」と言われたので、さすがにそんなことを言われるとムキになって反論したのだが、まったく否定することも不自然ではないだろうかとぼくは思うのである。

 杉浦は「攻撃」のつもりはないというのだろうが、ぼくからすると、立派な攻撃性に満ちた文章である。他人が他人を攻撃するのを見るのは不謹慎ながら楽しい。高見の見物をきめこむようで。この本にはそういう面白さがある。だから、本田透の『電波男』の身振りのように、ある種のネタとしてこれを読むといいかもしれない。

 しかし、オタクは女にしろ男にしろ、そろそろリアルで自省的な自画像を描いてもいいのかもしれない。なにかの代償であったり、現実の抑圧にたいする反応であることをモメントの一つとして(あくまで「一つ」)自画像のなかに組み込むことで、もっと豊かなオタク像が描けるのではないか。
 






杉浦由美子『オタク女子研究 腐女子思想大系』
原書房
2006.3.26感想記
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