西炯子『娚の一生』




※ネタバレが多少ありますが、まあたとえ読んでも面白さはかわらないと思います



 アラフォー男子であるぼくが最近ハマっているのは「枯れ専」漫画である。知らない人のための言っておくと、枯れたおじさんに萌えるという、女性側の欲望が存在するのだ。
 男性の脂ぎった性欲、そのような男性から発されるであろうマッチョな性的抑圧に見切りをつけて、そうしたマーケットに向かう女性がいるのである。と訳知り顔に言ってみる。
 そんな類の漫画をなぜ中年男であるぼくが読んでいるかといえば、自分が「枯れたおじさん」であるという同一化のもとに、女性にモテる自分を欲望しているからに決まってるじゃありませんか!

娚の一生 1 (フラワーコミックスアルファ) 私が最もハマっているのは、西炯子『娚の一生』(小学館)である。
 三十路を半ばすぎた大手電機メーカー課長である独身女性・堂薗つぐみが、亡くなった田舎の祖母の家を買い取り、そこで年配の大学教授・海江田醇と出会う、という物語だ。

 いくつかの「枯れ専」漫画のなかでなぜぼくがこの漫画が一番いいかと思っているかといえば、理由は2つ。ひとつは、この2人はちゃんとセックスをする、ということだ。そんなことどうでもいいじゃん! とお怒りのむきもあるかと存じますが、ぼく(男)側の欲望として作品を読んでいる上では決定的に重要なことなのだ。

 「枯れ専」であるから、セックスをしたとたん、「枯れ」であることが自壊する。このことは、「奥さんを忠実に愛している男性」が好きでたまらない女性がその男性とセックスをしてしまったらこの前提が崩壊してしまうのに似ている。
 ただ、「枯れた男性」のセックスは「妻を愛する男性」の(妻以外の女性との)セックスほど論理矛盾性はない。「枯れ」であるけどもそれさえもこえてセックスをしてしまうというところに、むしろ欲望の高みがあるとさえいってよい。「そんなストイックな俺がセックスをしてしまうほどの女性!」みたいな。
娚の一生 2 (フラワーコミックスアルファ)  もちろんセックスの描写はそんなに濃厚なものではない。ていうかほとんどない。いわゆる「朝チュン」(生々しい描写がなく、後朝の描写として朝スズメが「チュンチュン」鳴いているコマですます、という意味)である。しかし、わずかなコマの中で西炯子はそのシーンを決してあっさりしたものにして通過させるのではなく、きわめて欲望的に描こうとしている。

センセイの鞄 1 (アクションコミックス) 「枯れ専」漫画の一つである、川上弘美の有名な小説を谷口ジローが漫画化した『センセイの鞄』(双葉社)と比べてみると、(ぼくはこの原作小説を読んでいないのでわからないのだが、少なくとも漫画版では第1巻までは)『センセイの鞄』が絶対にセックスのような卑俗な色恋を描くまいと固く決意しているのに対して、西の『娚の一生』にはその種の禁忌がない(もちろん『センセイの鞄』には別のよさがあるのだが、それはまた別の機会に書く)。今述べたようにむしろ積極的に欲望を描こうとしているのだ。

 だけど、セックスに積極的であったり欲望的であれば、それでぼくのなかの何かが自然に駆動するかと言うとそうでもない(ということもないが、まあここでは「そうでもない」ということにしておいてほしい。心から)。

 やはり「30代の疲れた女性」というものがリアルに描かれていることが、この場合はぜひとも必要だったことを付け加えておかねばなるまい。

 書評サイト「漫画偏愛主義」で松尾慈子が本書について書いている。

http://www.asahi.com/showbiz/column/manga_henai/TKY200910080302.html

図1:本作2巻p.40
図2:本作2巻p.41
図3:本作1巻p.137

 ここで松尾は、〈人の孤独や傷を描くのは西の得意とするところだが、本書でもつぐみの心情が丁寧に描かれている。管理職まで上り詰めて大きなプロジェクトをやりとげるほど責任感がある一方で、どこか無防備で不倫の恋にはまってしまう。大きな虚無感を抱えているつぐみに、特に働く女性は共感できるだろう〉とか〈田舎までつぐみを訪ねてくる同期の女友達・秋本とつぐみとの関係も、さわやかに描かれる。お互いに名字で呼び合い、仕事の中身も過去の恋愛歴も知っている。仲がいいけれど、お互いをライバルと思う気持ちも見え隠れする。傷ついたつぐみを秋本がそっと抱きかかえるシーンにはほろっとさせられる〉と書いているのだが、30代リアル女性がこうした共感をよせるほどのリアルさに造形されていることが、ぼくにとってはポイントである。

 30代で少し仕事ができそうな女性というのは、ぼくからみるとまさに堂薗のように淡々として仕事をこなす。
 そして、仕事そのものや仕事での人間関係(不倫)から解放されるために田舎に来た筈だったが、家々をまわって電気製品の修理をしているうちに「人の役に立つ、それをだれかからきちんと感謝される」という仕事の醍醐味にめざめてしまう「迂闊さ」が、たまらなく30代のデキる女性っぽい「隙」だなあと思う。

 つぐみが地元の青年たちに地熱発電の話をしていく感じは、「デキる」感が適度に抑制されている感じ(図1)で、しかも、次の会合は「難しい話」ではなく飲み会にしてしまう「さばけ方」が、ぼくのツボである(図2)。
 こういう感じの人と仕事したいなあと思う。
 同時に、クールな人がただ疲れているというだけでなく、西炯子らしいギャグっぽいお茶目さが疲れた感じに染み出ているのもいい。図3はイライラしているつぐみであるが、またしてもここで「隙」のある感じが出ている。

 2巻で、ある期間だけ子どもを2人で育てるエピソードが出てくる。海江田のぶっきらぼうながらの「父性的」側面、喪失を支えてくれるパートナーの存在感などを描くために「必要」なものなのかもしれないが、ぼくには少々余計であった。なぜなら、海江田という「枯れた」男は、多少知性的であり、多少積極的である、という理由だけでほとんどわけもなく好かれる男性でなくてはならないからだ。そうでなければぼく自身が都合よく共感できないからである。

 『Stay』シリーズのときもそうだったのだが、ぼくの中にある「女性ってこういうリアルさがあるんじゃないか」という勝手な女性像が西の漫画の中でうまく出て来たときと、それがぼくの欲望に重なったときは、西の漫画はぼくのなかで実に卓抜した「欲望漫画」へと昇華する。

 全然枯れてねーよw

 松尾が上記の文章の末尾で、〈三浦しをんが「現実に若い女とつきあう男は精神的に未熟な男」とコメントしていた。それには私、大いにうなずくところがあるが、三浦は「二次元では萌え」とも言っており、それにもうなずく〉と言い放っている。
 現実には、恋愛をする主体として「枯れた男」というのは形容矛盾であり、そんなものは存在しないと心してかかるべきだろう。




小学館 フラワーコミックスα
1〜2巻(以後続刊)
※画像引用は著作権法の原則をふまえています
2009.11.1感想記
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