清水義範『大人のための文章教室』


「○○が最高に面白いです」
「かっこいい漫画でした。とくに第2巻がオススメです」
「ものすごく感動する漫画。ストーリーがGOOD!」

 前にも書いたけど、こういう漫画の感想のサイトを読むと、どないせえっちゅうんじゃ、と途方にくれる。いや、自分も時々やっちゃいますけど。

 「『感動した』とか『面白かった』などという言葉でまとめることは、この漫画のよさを薄めてしまう。何もいいません。とにかく買って読んで下さい」式の文章は、たしかに言葉にしてしまうことで、漫画が持つ豊かな全体性が失われ部分化されてしまうような危惧を感じるためにそう言うのだろうが、しかし、感想や批評としての任務を根本的に放棄しているといわれてもしかたがないものだと思う。
 こうの史代(『夕凪の街 桜の国』)にたいするネット評に多かった。

「その景色を、友人に説明するんだと考えてみよう。とにかくすごいんだよ、では何もわかってもらえないのだ」「『大したことなかった。』『見事だった。』『驚いた。』『こわかった。』などなど、ちゃんと感想を書いたのだから、心の動きは伝わるではないかというわけだ。/しかしそういう感想は、感想のための感想になりがちなのだ。通り一遍の言葉に感想をまとめて、私はそれを見たのだからよし、と言って次へ行っちゃうみたいだ」

 と、清水は本書で批判する。むろん、ネットでの漫画の感想や評論の書き方、などという項目はなく、かわりに、ネットで公開する紀行文の話が載っている。

「非常に多くの人が、紀行文というより、それを書くための資料のような、旅行メモ、旅日記のようなものを書いているのだ。/だからしばしば、日本の空港へ行くところから書いてある。成田空港へ何時に着く。登場手続までに時間があったから、何をした。荷物が多いからカートが便利だ。/そういうことは省略してもいいんじゃないだろうか。『モロッコの旅』なんていうタイトルで、面白そうだな、と思った人がのぞいてみたとして、空港のざるそばはうまくなかった、というようなことを読まなきゃいけないのである」

 清水は、紀行文をネットで書くということのポイントとして、
(1)見たものを説明しよう
(2)調べたことをプラスして書こう
(3)旅のエピソードこそ書くべきである
(4)心のふわふわを書こう
(5)その国がわかるように書こう
として、それぞれを「文章教室」にふさわしく興味深いたとえでまとめる。
 これは、漫画という異国をのぞいた、という意味で、漫画の感想や批評にも応用できる
 (1)は「外国の珍しい景色や建物や遺跡をわかるように説明する」ことである。漫画でいえば、感動した場面を客観的に紹介することである。
 (2)は、漫画評で言えば、作品の背景や作者の情報などを少しでも加えることになるだろう。
 (3)は、その作品で一番面白かったコマ・場面、または関心をひいたテーマにしぼって書くことである。ギャグ漫画は一般的に感想が書きにくいが、最も笑い転げたものが一つあるはずで、それを書くべきなのである。
 (4)は作品を読んでいるうちにおきた心の変化などである。
 (5)は、けっきょくどういう作品かということをわかったふうに書くのである。「無理なことをと思うだろうか」と清水は言う。「わからないことをわかったように書くことはできない。/しかし、その紀行文を書いているあなたの頭の中には、究極の目標として、その国のことを伝えたい、という思いがありはしないだろうか」。清水は、ここでパスティーシュの名手らしい、魔法の言葉を伝授するのであるが、それがどんな言葉であるかは、読んでのお楽しみである。
 なお、ぼく自身は、こんなふうには書かない。あるいはこの要素をとりそろえて書くことはない。書かないが、何か整理してみれば、こんなふうになるんだろうなあと思うのである。

 インターネットによって、大人が文章を書く機会は、おそらくかなり広がったにちがいない。本書はそんな大人たちのためにあるのだろう、と思って読み始めたのだが、それはごく一部だった。手紙の書き方から、エッセイ、はては報告書、企画書、謝罪文の書き方まで載っている。
 企画書の書き方では、“けっきょく企画の中身がよくないとダメだ”という、これが文章教室かと思うような内容も入っているのだが、その結論はまさに膝をうつものだ。企画がよければ、企画書なんて、ほとんど自動書記状態。熱愛をこめたラヴ・レターのように書けてしまう。他方、どうしようもない企画の企画書というのは、かわいたタオルをしぼるようにしないと言葉が出てこない。子どもの作文だって、伝えたくてたまらないものがあると、どんなに文章が拙劣でも、情熱がおのずと伝わってきてしまう。

 最後に文章の上達法を載せているが、やはり「読んで、真似ろ」というのが大事なようである。
 ある人力検索サイトで「美しい詩を書くにはどうしたらいいでしょうか?」という質問があったのだが、ぼくはやはり美しい詩を読んで、それを真似した詩をいっぱい書くことではないかと思った。漫画でも「完コピ」というのがあるけど、リスペクトしたい作家にたいしては、ほっておいてもそれを自分のものにしたくなる欲求が働く。その欲望に忠実にやることが、上達の早道ではないかとたしかに思う。
 齋藤孝流にいえば「憧れる力」である(齋藤『教え力』)。
 また、長い文章や小説を一度書いてみて完成させると、飛躍的に力が高まる、というむねも書いてあるが、客観的にぼくにその力がそなわったかどうかは別として、少なくとも主観の上では、これを一度やってしまうとラクになり、文章を書くことがどちらかというと楽しくなる。


 面白かったのは、

「『宅急便を届けてくれた青年は、ジーパンの上に薄汚れたカッターを着ていて、手に怪我をしているらしくサビオをはっていた。』/この文章を読んだだけで私は、どこか関西の老人が書いたものだな、と思う」

というくだりで、「用語の訛り」が出てしまうことには気をつけたほうがいい、と注意をうながしていた点である。これはやはり『発言者たち』を書いた清水だけあって、とくに、彼が中高年の文章を観察する力というのは抜群のものがあると思う。

 左翼のみなさんは、要注意であります。すぐ「都民の要求」とかいっちゃったりするんだから、もう。


講談社現代新書
2004.11.22感想記
大人のための文章教室 講談社現代新書
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