小沢さとる『青の6号』『サブマリン707』


※映画についてネタバレがあります。ご了承のうえ、お読み下さい。


 「戦争映画」(いや映画にかぎらず、漫画や小説などの創作物全般)には、とどのつまり、「反戦映画」か「戦争ゲーム映画」か、どちらかしかないのではないかと思う。

 後者のなかに、反戦メッセージをこめることは、邪道ではないかと思う。
 後者をぼくらが観ているとき、ぼくらはあきらかに戦争というゲームを楽しんで観ている。
 敵がどう出るか、味方はどんな戦術をとるか――そんなふうに興奮し、ハッキリと欲望的なまなざしを送っておいて、後になって「戦争ってヒサンですね」などと、どの口がいうのだろうか。
 「性暴力はイカンよ」などという表面的なメッセージをこめながら、丹念な性暴力描写を「堪能」するとき、その人は、一体どっちの側にいるのか。

 すぐれた「潜水艦映画」が2つある。

 ひとつは、ボルフガング・ペーターゼン監督の「Uボート」。
 もう一つは、デック・ポウエル監督の「眼下の敵」。

 前者は反戦(厭戦)映画であり、後者は戦争ゲーム映画だという気がする。
 「Uボート」には、敵味方のロング・ショットがほとんど出てこない。これは反戦映画と戦争ゲーム映画を分かつ重要なメルクマールである。他人事のように俯瞰する立場をもっていないのだ。映像は、ほとんど潜水艦内の息詰まる緊迫感、極限状況に焦点があてられる。
 「こんな狭いところに50人も、しかも補給なしでなんで数十日もいられるんだ」「水とかあるのか」「え、トイレって一つしかないの!?」「体はどうやって洗うの」「あんな狭いといったん混乱したら何も伝わらんのでは」「濡れたらどうやってかわかすの」……などと絶え間なくリアルな疑問が湧いてくる。
 ジブラルタル海峡で沈められかけ、圧潰寸前の深度に横たわる。「このあと絶対脱出のカタルシスがくるんだろうなあ」と演出上わかっていても、ホント、絶望的な気分になる。観ていてつらい。「どうやっても助からんだろう」などとつい思ってしまう。
 ところが、Uボートは死の海底から脱出する。
 極限における、ドライだが、すばらしい人間共同の描写。
 敵機に撃たれ死にかけたやつや、絶望の淵までいったやつらが、生への帰還をはたす。
 海上に出てから、「ひょっとして安堵させて撃沈か」と観ている側は思うのだが、目的地のイタリアの港に無事凱旋。もうこれで話が終わるなーとこっちは気をぬいて観てる。
 ところが、である。
 ドック入りするまさにその瞬間、敵の編隊が飛来し、一瞬にして港は阿鼻叫喚の巷に。
 Uボートの乗組員はほぼ全滅する。
 あれほどまでに生きるために力をあわせてきた努力は、ラストにきて、水泡に帰すのだ。
 観ている側は、「戦争の悲惨」とか、そういう言葉ではなくて、激しい絶望感と無力感に襲われる。戦争という巨大な現象の前に、個々の人間の生への努力がいかにむなしいか、うちのめされるような衝撃を受ける。すべての映像はこのラストにむかっての伏線であり、このラストによって、まさにこの映画は、厳しい反戦映画たりえている。

 たいして後者はまさに「戦争ゲーム」映画である。
 二次大戦におけるドイツのUボートとアメリカの駆逐艦の死闘。
 すぐれた二人の艦長が、相手の心理をよみ、相手の上をいく策をどうくり出すか――観る側はそのことを十分に楽しんでいる。
 「眼下の敵」には、この場合はまったく余計な(中途半端な)「反戦メッセージ」は入ってこない。それでいい。娯楽映画としてまったく正しい
 近代戦以外にも、『三国志』や、あるいはフィクションである『銀河英雄伝説』はこの類である。ぼくは、極端な暴力賛美や、反動イデオロギーの美化でないかぎり、こうした映画や創作物は大いに楽しめばいいのではないかとおもう。


 さて、前置きが長くなったが、小沢さとる『青の6号』と『サブマリン707』である。
 「潜水艦漫画」というジャンルと作品があるかどうか知らないが、たぶんほとんどないだろう。その少ない漫画のなかでも、「戦争ゲーム漫画」として、実に秀逸な作品だとぼくは思う。
 けっして実写映画ではこうはできない。
 漫画のもつ強みをフルにいかしている。

 どちらの作品でも、小沢は、ある意味ストーリーそっちのけで、潜水艦同士の「ドッグファイト」を執拗に、そして楽しんで描き続ける。もう、よく飽きないなと思うくらい、そればっかりなのである。いや、実際飽きないのだ。

 さきほど敵味方のロングショットが戦争ゲームものと反戦ものを分かつ、とのべたが、遠くから俯瞰したような画面構図は、ちょうどゲームをやっているときのゲーム盤を見ているようなものだからである。
 そこでは、戦争は、まったくの“他人事”だ。
 小沢はこれを多用する。逆に言うとアップは少ない。(意味のないアップがあったりする)

 小沢の漫画は、発射された魚雷や爆雷のスピード、距離感がはっきりと伝わってくる。
 また、潜水艦は、目の退化したモグラに似たところがあり、すぐ近くに敵がいてもわからないこともあるとか、浮上する力を残さないと沈むとか、小沢は、こうした潜水艦独特の制約や、船体運動の感覚を知悉しており、専門用語にのせて絶え間なくそれを読者に発信しつづける。
 言葉がわからなくても、いや、わからないからこそ、その感覚に酔いしれる。
 もう、読んでいるほうはめろめろである。

「ト、トリム30!! 急上昇中!! 魚雷がきます。」
「きたな。ホーミング魚雷発射用意!!」
シャー シャー
「そらしたな! バウさげろ!! さあ、いよいろ近くなったぞ!!」
ゴー ゴー
「機関とめろ。トミーロック用意!! 機関停止!!」
「敵がむかってきます!!」  シュッシュッシュッ
「距離は!?」
「やく800です」
「あっ、艦長!! 敵のスクリュー音がきえました」
「む!! 推進器をとめたな」
「ソナーは!?」 ピイイイイイ
「目の前にいます!!」

 小沢の絵は、リアルな絵、たとえば、かわぐちかいじのような絵ではない。
 小沢の絵は、初期の横山光輝にそっくりで(この二人の関係はぼくは知らないのだが)、メカニックデザインもあのタッチである。
 これは、友人がいっていたのだが、ひじをまげて人さし指を出して指示をとばすしぐさは、現実には目にしないポーズである。「くり返しやられると、なんかかっこいいと思ってしまう」(友人談)。
 横山光輝の漫画でよく見るポーズである。
 ほかにも、腕をまっすぐにあげてナイフ類をなげ、次のコマでそのナイフが相手に刺さっている、という描写は、横山の忍者ものそのものである。
 また、味方の巨大要塞自体が意志をもち、防衛装置がはたらいて敵から身を守る死闘を演じる、という設定は、横山の『バビル2世』(バベルの塔)を思い起こさせる。

 この横山イズムが、じつは、小沢の潜水艦漫画にとって、重要なのである。

 というのは、この横山のような絵柄、リアルではない絵柄が、かえって、「戦争ゲーム」をえがくには好都合だからだ。
 大ざっぱな絵を書いているというのではなく、簡潔でしかも明瞭なラインが、複雑で忙しい戦闘シーンを実にわかりやすく伝えてくれる。
 それでいて、潜水艦の質感と独特の船体運動を伝える絵柄なのだ。

 余談であるが、『銀河英雄伝説』の漫画版である道原かつみの宇宙艦隊のデザインは、究極的なものである。なんだかわからないフヨフヨした線で、意味不明の直方体が描かれているだけである。あの「メカニック・デザイン」はメカニックをデザインしていない。
 「要は戦略と戦術のゲームなのだ。メカのデザインなんざどうでもいいんだよ」という思想を徹底すると、あそこまでイッてしまうのだ。

 さて、小沢にもどろう。

 敵が数発の魚雷を発射するシーンがある。このとき、撃たれた側がかならずあわてて転舵したり上昇下降したりする――撃った側はこうふんだ。少しでも針路を変えれば、魚雷があたるようになっている。そこを撃たれた側は読み取って、ついに針路もスピードもまったく変えずに、進み、見事にこの魚雷の弾幕をすりぬける。このあたりの緊迫感などは、そういう「潜水艦戦闘」の醍醐味を十全に伝えている。

 こうした艦体運動や戦闘の俯瞰は、人物や装置をアップでリアルに描く、かわぐちには逆に難しい課題になってしまう。
 艦と艦との戦闘の俯瞰、どちらが魚雷を出したか、それとの距離はどうか――こうしたことを表すには、かわぐちよりも、小沢の絵の方がはるかにすぐれているのである。

 小沢のおたくぶりは、「サブマリン教室」というまめ知識を随所にいれることにも現れている。そして、これがあるおかげで、「潜水艦初心者」にもわかりやすく、いたれりつくせりだ。


 『青の6号』で悪役になっている「マックス」という組織。世界の通貨の80分の1をもち、領土と領民をもたない動く海洋国家、という想定は、かわぐちかいじ『沈黙の艦隊』を思わせる。つーか、かわぐちははっきりとこれを意識しているわけだが。
 少年向けとは思えぬ緻密な設定や潜水艦描写にもかかわらず、小沢がつくる話自体は実にあっさり破たんする。「尻切れトンボ」ともいってよい。

 『サブマリン707』のなかに、海上自衛隊の士官がクーデタ的に潜水艦を「盗み」、逃亡するという話があるのだが、けっきょく彼らは707号の手によって沈められてしまう。ラストの解説はこうである。

「しかしうしお号をうばった亜間野三佐の目的はいったいなんであったのか!?
 亜間野三佐が海底のもくずと消えたいましるよしもない………………。」

 また、別の話のラスト。

「N国がラマボ博士の発見したジェット海流を軍事的にどう利用しようとしたか?
 また、その海流がどういう状態で存在するのか
 ラマボ博士の死やモビー・ディックの最期とともに
 急にはあきらかにはされないだろう。
 しかしいつの日か707号によって
 きっと解明されるでしょう」

 おい!!

 もー、んとに。小沢にとってはホント筋なんてどうでもいいんだよ。
 潜水艦の戦闘シーン、ただそれだけが描きたいのである。


 ところで、『サブマリン707』で、搭乗している子どもたちが必ず歌う歌。

「うみ〜の そこか〜ら うまそな においがす〜るわい
 せんすいかんの だいどころ〜で
 あ〜げた おいもが ぎょらいがた〜♪」

 この「においがす〜るわい」の「わい」というあたりに激しく時代を感じてしまうのと、「〜」というふうに伸ばす音の部分は、歌われるたびに毎回必ず同じなので、ちゃんと節回しが想定されているんだろうけど、この「す〜るわい」とか「あ〜げた」とかいう不自然なアクセントの付け方が実に気になるんですけど。




小沢さとる(小澤さとる)『青の6号』『サブマリン707』
いずれも秋田漫画文庫(それぞれ、全3巻、全7巻)
(『青の6号』のみ復刻)
2004.5.10記
メニューへ