上田美和『ピーチガール』


ピーチガール (1) ある書店のデータだが、上田美和『ピーチガール』が矢沢あい『NANA』と売上を競っているのを見たことがある(1位『NANA』、2位『ピーチガール』)。
 『ピーチガール』は、18巻まで発行され完結。現在『裏ピーチガール』として登場人物の一人を主人公にした「外伝」系のものも出され、さらにアニメ化までされているからこの漫画を支持している女性層が一定厚いであろうことは容易に推測できる。

 この漫画は、徹底して「反矢沢」的世界観でつくられている。

 ぼくは『NANA』の感想のところでのべたように、矢沢あいは『NANA』をひとつの頂点としつつ「絆の共同体」を連綿として描いてきたと思っている。恋仲になった二人だけでなく、三角関係に陥り危機に瀕した(あるいは破壊された)友だちや、それをとりまく友人や家族までがにぎやかに登場し、それらのすべての関係があたたかな絆の共同体へ回収されていく。
 友情や絆を破壊するものとして初めは現れる「恋愛感情」は、恋愛感情として成就されつつ、同時に破壊された友情や絆も再建されていく。

 ところが、上田美和『ピーチガール』においては、恋愛とは闘争である
 ライバルやこの世の悪意と競争し、戦い、最終的に打倒する。

 『ピーチガール』は、女子高校生の安達ももが、東寺ケ森(とーじ)と岡安カイリという二人の同級美少年から恋心を寄せられ、その間に柏木さえという小悪魔や岡安の兄などといった「撹乱者」「妨害物」を配し、その障害を克服しつつ真の恋愛をつかみとるという物語だ。

 前半においては、柏木さえとの闘争が熾烈をきわめる。
 元水泳部のために黒い肌の色、塩素でいたんだ赤く長い髪が、外見的には「遊んでいるイマドキの女子高生」と受け取られる「もも」。
 これにたいして、色白、小柄、黒くて短かめの髪、モデルになれるほどのかわいさを備えた「さえ」は、いつもオトコ受けがいい。そして表面の「ぶりっこ」(死語ですまん)ぶりと裏でのどす黒い策略家ぶりの落差が描かれる。さえは、ももがほしがっているものをほしがるという無目的な所有欲をもっているとされる。
 この両者の対比は、この作品が、「さえ」的なものにたいする「もも」的なもののイデオローグであることを物語っている。世界は自分の恋愛を邪魔するライバルと、自分を誤解する悪意に満ちている!

 「もも」的世界では、「もも」的なものは、つねに計算高い「さえ」的なものに出し抜かれ、裏をかかれ、敗れ続ける。
 作者である上田は、さえのももにたいする「いじめ」のシーンを長々と描きつづける。上田とソニンとのあとがき的対談を読むとこのあたりのくだりは“勢い”でひどく極端に描いていたようであるが、とにかく読む者にズキズキと痛みを強いる。仲間はずれ、着ているものを水浸しにする、水着のヒモを切る……。
 「いじめ」は若い世代にとっては、ある場合には、直接的暴力以上に強い心理的ダメージを与える。人間コミュニケーションにおける疎外や抑圧は、ぼくら以下の世代にとってきわめて大きな痛点なのだ(たとえば、こうの史代「桜の国」が被爆二世の差別問題をモチーフとしたことは原爆の直接暴力そのものを扱うより、ぼくらのような戦後世代にとどく一因となった)。

 やがて、カタルシスを呼ぶ構図の逆転。収奪者が収奪される! いじめっ子がいじめられるのだ。
 さえの悪意が露見し、こんどはさえが同級生たちから徹底して疎外される。
 ついに、さえは紙のようにペラペラになり、存在感も、人間としての気力もない形象として描かれるまでに至る。
 それを、“善意で”救い出す主人公もも。さえは、そのとき一瞬ももの“召し使い”――支配のメタファーで語られる――であるとまで自認するのである。

 やがて、さえが再び小悪魔ぶりを発揮していくと、こんどは作者はさらに大きな「悪」をつくりだし、さえは、そのさらにより「大きな悪」に心を奪われ(つまり惚れて)「援助交際」の一歩手前までやらされ、マルチ商法にハマって金品を貢ぐ立場に転落させられるのである。ひどすぎ

 もちろん、少女漫画としてこれではあまりにも後味が悪いので、いちおう「さえ・もも」間の友情の「救済」は描かれるのだが、あくまで添え物。この漫画にとって、さえは撹乱者であり障害物でしかない。別の悪役系脇役である森香などは、AV出演までさせられてしまう。文字通り「捨てキャラ」だ。恋愛の障害物や撹乱者は打倒され、関係から排除、追放されるのである(「さえも最後は謝ってくれるイイ娘なんだよ」的な、いくぶんかの「施し」をつけて!)。

 まさに上田にとって、恋愛とは食うか食われるかの苛酷な闘争なのである。敗れたものは、いじめの淵にたたきおとされるか、手下となるか、金品を貢ぐか、あまつさえ苦界に身を沈めることさえ強いられる、というわけだ!


 それだけではない。

 美少年二人の間でまるで気持ちを弄ぶように揺れる主人公・ももは、革命的なまでに「善意の人」として描かれている。ももが一方を離れて他方に気持ちが移るとき、もうご都合主義の極致ともいうべきタイミングの悪いすれ違いが襲う。すれ違いは、恋愛漫画の黄金パターン、必殺技といえるが、上田はこの必殺技を後半、濫用する。しかし必殺技というのは、決めるべき瞬間に出してこそ「必殺技」となる。カラータイマーも鳴らないうちから、スペシウム光線を連続するウルトラマンはいないのだ。
 「ももはまったく悪くない」というこの体裁こそ、支持する読者層が欲しがっているものだ。

 ずっと自分を陰でささえてきてくれて、恋心が移り、しばらくつきあっていた岡安カイリには実は憧れていた女性がいたことを知ったとき、それでもあきらめ切れないももは、そういう女性がいてもいい、セフレ(セックス・フレンド)でもいいから付き合おうと宣言する。
 こう書くとえげつないけども、それを描写したシーンでは、「そこまでの覚悟をしめして一途に岡安を思うもも」という味つけをたっぷりとしているのである。

 ところが、岡安が決定的な場面でタイミングが悪く現れなかったために、ももには不信感が襲ってきてこんなセリフを吐いてしまう。

「満たされないの
 不安なのよ 岡安といても」(18巻)

 そして、しばらく距離をおいているときに、岡安にこんなこともいう。

「あたし 岡安とつきあってたときは 
 セフレでいいからとか自分を安売りしてたけど
 心の中じゃ全然納得してなかった
 あたしはあたしを大切にしてくれる人がいい」(同上)

 どうよこれ。
 これも、“愛の確信を打ち立てられず、ゆれているオトメゴゴロ”というわけなのであろうか。

 上田は最終的に東寺ケ森も岡安も等価に近いところにおく。どっちを選ぶのか読者に予断をもたせぬためのドラマツルギーであろうが、逆にどっちを選んでも、ももが卑劣な女にみえてしまうといううらみは計算しなかったようである。
 そして、一方を拒否して他方のもとに馳せ参じるももは、やはりぼくからみて何という卑劣漢、いや卑劣婦?であろうかという感慨が残ってしまった。

 恋愛とは競争であり、闘争であり、戦いであり、相手の打倒であるという世界観の結晶が『ピーチガール』だ。それは矢沢あい的な世界の対極にある、反矢沢的世界といってよい。

 ねえ、「矢沢あいも好きだし、上田美和も好きよ」、とかいっている女性がいたら、ちょっとぼくの前に連れて来てくれませんか。その人はきっととんでもないことをたくらんでいるんですよ。世界征服とか。





講談社コミックス 別フレ
全18巻
2005.11.21感想記
この感想への意見はこちら

メニューへ戻る