松山剛『怪獣工場ピギャース!』




※結論部分以外についてネタバレがいくつかあります


ヒッポリト星人の「非道」さ



 「ウルトラマン」シリーズに出てくる怪獣は、たとえば「セブン」のころはまだまだその出自について、すなわち「怪獣側の事情」について多少なりとも描写があり、それがまた物語に深みを加えていた。
 しかし、「帰ってきたウルトラマン」や「エース」「タロウ」のころは、こうした事情はかなり後景にしりぞき、主人公の人間ドラマ、そして怪獣との戦闘の興奮が前面に押し出される。

 ただ、「セブン」の時代をふくめて、少なくともぼくが見ていた「レオ」シリーズまで、怪獣の側から徹頭徹尾物語が描かれることはなかった。

 たとえば、まあぼくが見ていた中で最も「非道」さを感じたのは、やはりウルトラマンエースのみならずウルトラ5兄弟全員がヤラれてしまう(ブロンズ像にされてしまう)ヒッポリト星人だろう。なにしろタイトルが「全滅! ウルトラ5兄弟」なのだから。
 作中でエースの人形の首をひきちぎる、などという残酷パフォーマンスを展開し、「悪逆非道」ぶりを誇示。このようなヒッポリト星人にいったいどんな「大義」や「事情」があるというのか?




「怪獣たちから見える世界」



怪獣工場ピギャース! (新風舎文庫 ま) (新風舎文庫 ま 147)  本作『怪獣工場ピギャース!』の著者・松山は、「あとがき」で、自分は怪獣と聞くと「ウルトラマン」や戦隊ヒーローものを思い出す、と切り出しながら、次のように述べている。

「怪獣や怪人をはじめとした悪役連中は、子供のころはそれはもう強くて怖くて憎々しげに見えたものですが、大人になった今、あらためて見てみると、どこかこう憎めない感じがするんですよね。場合によっては、ヒーローよりも生き生きしていたります。ほんの少し怪獣に感情移入しながら見ている自分。ヒーローにちょっと距離を置いている自分」

 そして、本作の特徴について、

「私には天の邪鬼なところがありまして、前作『閻魔の弁護人』と同様、善とか悪とか立場を逆さまにして物事を書いてみたい気持ちがあります。怪獣たちから見える世界を少しでも追体験していただけたら、作者としては望外の喜びです」

と記している。

 前作『閻魔の弁護人』では、世の中では「絶対善」の象徴たる「阿弥陀如来」を殺戮の張本人、それを正当化する「神話」をでっち上げる(ホトケなのに「神」話は変だが)存在として描き出した。ただ、殺される側である修羅道の住人たちは「群像」として描かれるにとどまった。その出身者である藁摑の物語も十分には開陳されなかった。「善」の虚偽を暴き出すことの方が強く印象に残ったものである。

 本作『怪獣工場ピギャース!』では、抑圧され、差別され、殺戮される側の存在=怪獣に照準が当てられている。まさに「怪獣たちから見える世界」である。




怪獣という徹底した他者



 人間が住むリベルタ国と、怪獣が住むギャース共和国は過去に大戦をまじえ、現在冷戦状態にあるという険悪な関係にある。そのため、リベルタ国内にいる怪獣はマイノリティーとして抑圧され差別されている。
 物語はリベルタ国内における怪獣の職業訓練施設(授産施設)の一つである「工場」を舞台にしている。

 主人公は、半分は怪獣、半分は人間という中間的な存在である美少女・クレアであるが、ぼくはこの作品の中で強く印象に残るのは、クレアやその幼なじみであるフィオナではなく、「悪」に手を染める存在たちだった。

 すなわち、巨大化してリベルタ国の都市を破壊してしまう怪獣たち、あるいは、クレアを裏切ってリベルタ国に奉仕する女医のルージュリア、あるいは先の大戦で怪獣たちを殺戮したとされるアレックス、そして、「第二次怪獣大戦」を影で操るデモクリトスなどといった存在だった。

 巨大化して大勢の市民を「殺戮」した怪獣たちは、それこそリベルタ国からみればヒッポリト星人のような「絶対悪」としか見えないだろう。
 しかし、たとえばイカの怪獣であるイカロスがそのように巨大化して暴れるにいたるには、自らの抑圧され差別されてきた経歴と、貧困の中で娘を救うという「事情」があった。もしヒッポリト星人に似た事情があるとすれば、「エース」を見ていたぼくはもっとウルトラ兄弟を全滅させたことについてももっと冷めていられたかもしれない。

 以前ぼくは、松山の『閻魔の弁護人』について評したとき、大塚英志が、ライトノベルについて「死にゆく身体」を十分に開発していないことを指摘している文章を紹介した(大塚『キャラクター小説の作り方』)。
 『怪獣工場ピギャース!』において、おそらく唯一「傷つき、死にゆく身体」を意識したのは、怪獣イカロスであるとぼくは思う。他のキャラクターも「死ぬ」がその傷つく身体性がこれほど克明に描写されたキャラクターはいない。

「イカロスは地面に横たわっていた。巨大な体が夕陽に照らされて赤く染まる。斬られた足からは大量の出血」(『怪獣工場ピギャース!』p.102)

 怪獣ほど「他者性」の強烈な存在はない
 そもそもその命名からして「怪しい獣」というわけだから、もう自分たちとは一切縁のない、理解不能な、邪悪な存在としての臭いがたちこめている。

 『閻魔の弁護人』のレビューのさいにも紹介したように、大塚英志は、自分の幼少体験として『海のトリトン』において最終盤でトリトンの「正義の行為」が実はポセイドン族からみれば「侵略と虐殺」でしかない、ということを描かれたことにショックをうけたとのべている。
 「敵」という他者性に視点をうつす、という作業自身はその後の漫画でも、アニメでも、ライトノベルでも決して例がないわけではない。
 しかし、「怪獣」という、はじめから全き他者性を背負わされた存在の側からこれほどまでに徹底的に視点をうつして描いたライトノベルはあまり例がないのではないだろうか(謙遜ではなく本当にぼくはライトノベル経験が乏しいので、それはまったくぼく個人の感覚にすぎないのだが)。

 あるいは、戦争を裏からシナリオ通りにすすめ、多くの人々に裏切りや絶命を強いるリベルタ軍大佐デモクリトスも、のっぺらぼうな「悪」ではない。
 妻を「蚊」と「人間」の要素に分解させられ(人間の要素は失敗して消滅する)、なおかつ「蚊」である妻を自分の過ちによって殺してしまうために、狂気に憑かれるのだが、デモクリトスは物語の終盤でフィオナとの問答のうちに明らかにするように、怪獣と人間は「同じ」存在であるという「怪獣・人間」一元論にたっている。すべての存在を原子から一元論的に説明した古代ギリシアの思想家・デモクリトスの名前が冠されているのは、このキャラクターを理解する中心環がそこにあることを示している。
 一元論にたつデモクリトスは怪獣という他者性を徹底的に否定している。同じ「仲間」だと認識するがゆえに、「蚊」という「妻」を殺してしまった自分を責めるのである。いや、蚊を妻だと思えたからこそ、デモクリトスは一元論者になったというべきであろうか。

 いずれにせよ、狂気の虜になったデモクリトスが、やがてその狂気から解放しえたのは、その一元論ゆえではなかろうか。デモクリトスを最後の最後で救い得たのは「蚊」である妻の声だったからである。




現代の戦争にとっての「他者性」



 前回のレビューで紹介したように、松山は「小説の分野で、貧困や差別、戦争を描けないか」と自身の抱負をのべている。「むしろ戦争をとめようとする世界を描きたい」と松山が語るその決意の一つとして、「他者性の克服」がある。

 911事件がおきたとき、アメリカのテレビは「死者の物語」で溢れかえった。テロの犠牲となった約3000人にどんな「物語」があり日常や家族があったか、ということがくり返し報道された。
 他方で、アフガニスタンは「テロリストのいる土地」として徹底した他者性を与えられた。そこで死にゆく市民は911事件を遥かに上回る数だったというのに、「誤爆」という単に「正常からのズレ」として処理され、そこでいかに多くの「物語」が中断され、日常や家族が失われたかということは、ほとんど報道されなかった。
 「報復」が何を奪っているのかということを隠蔽するために、他者性はどうしても必要なものだったのだ。

 松山の決意とこの作品はその中核を突いている。
 もちろん、大塚が戦争を描けるライトベルを開発せよ、とのべたように、十分に戦争を描くにはまだ長い道のりがある。とくに、ぼくは結末をこういうふうにもってきたことが果たしてよかったのかどうかは疑問が残る。
 しかし、「小説の分野で、貧困や差別、戦争を描けないか」とする松山の意欲的な挑戦ではあるのだ。




KEIのイラストについて



 今回の松山の小説はKEIが担当している。「初音ミク」のパッケージイラストで評判になったイラストレーターだ。
 前回のとんぷうのイラストがぼくへの訴求度が低かったという単に趣味問題かもしれないが、今回のクレアとフィオナを前面にしたイラストはぼくに訴求した。この二人のいわゆる「キャラ立ち」は松山の本文もさることながら、この表紙イラストに大いに依存している。本文にはない百合っぽいニュアンスさえ勝手に自分で仮託できてしまう。
 ライトノベルにとって「絵」は単に挿絵ではなく、作品の本質を成すものだと実感する。

 しかし、本文中のモノクロ2階調でのイラストは、ベタの処理がうまくない。人物が沈み、全体が汚く見えるだけになっている。ぼくがこの作品を読んでいる最中に念頭にあったのはつねに表紙のカラー絵だったのだ。
 KEIのホームページにも行った。ぼくのシロウト目ではあるが、カラーはどの作品もすばらしい。なのにモノクロになってしまうとこんなにアカンのかなあとちょっとびっくりした。

※これ書いた途端のニュースであるが新風舎文庫は「休刊」になるとか…。ゆえに、本作もしばらアマゾン等では買えるらしいが、絶版になるようである。





新風舎文庫
2007.12.30感想記
※ぼくがレーベル一般についてとっている態度はこちらを参照
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