こうの史代『ぴっぴら帳』『こっこさん』




 「私はいつも真の栄誉をかくし持つ人間を書きたいと思っている」


 これはアンドレ・ジッドの自伝『一粒の麦もし死なずば』の一節で、こうの史代が好きな言葉である。
 こうのが好きかどうかを別として、ジッドの同書には次のような言葉もある。


僕は、正しく愛されるのが好きだ。誤解によって自分に与えられたという気のする賛辞は、むしろ苦痛だ。僕はまた、細工された厚意にも満足できない。命じられたり、利害や、縁故や、友情によって引き出されたりした批評から、何の喜びが得られよう?……僕にはそんなものなんか欲しくないのだ。なぜかというに、いちばん大切なのは自分の作品の真の価値だ。すぐに凋れてしまうかもしれない月桂樹なんか、僕には用がない。



 文化庁メディア芸術祭漫画部門大賞を受賞した『夕凪の街 桜の国』。同書をつうじてこうの史代を「発見」してしまった――しかもそれはぼくの審美眼などではなく、紀伊国屋新宿南店が平積みをしていることによって懇切丁寧に導かれたものにすぎない――ぼくにとって、このジッドの言葉はまさに突き刺さる。

 実は、そのあと、こうのの『ぴっぴら帳』『こっこさん』を読んでいるのだが、どうにも深々とハマりつつあるようなのだ。ぼくは『夕凪の街 桜の国』の作者であるがゆえにハマっていると思いたくはないのだが、では『夕凪の街 桜の国』なしに『ぴっぴら帳』『こっこさん』を見いだしハマることができたのか、と言われればまったく自信がない。おそらく無理だっただろう。
 ぼくはこうのの諸作品を「正しく愛して」いるだろうか? これは「月桂樹」をいただいた作品のフィルターを通して「誤解によって与えている賛辞」ではないだろうか? ぼくは「作品の真の価値」を評価しているだろうか? 自分の足下がたえずぐらつく。

 にもかかわらず、この無謀な感想を書いてみようと思う。


 こうのは、あるインタビュー(※)で、この冒頭のジッドの言葉に次のようなコメントをくわえている。


「周りに認められるかどうかとは別のところに、誇りを持って生きたいという欲求はみんな持っていて、そういうところを描きたいなと思って」


 なるほど、と思う。こうのの作品には、そんな視線があふれているようにぼくには見える。それは、日常の平々凡々とした生活のなかに、私たちが何を「かくしもって」生きているかということを見つめる創作者の視点ではなかろうか、とぼくは思うのだ。


 漫画表現は、シズルいっぱいの欲望や偏愛、さもなくばジェットコースターのような蠱惑のドラマにとりかこまれている(むろん、ぼくはその表現をくだらないといって捨てるような愚は犯したくない。十分にそのなかにまみれている)。

 その漫画界にあって、こうのが題材として選ぶのは、日常中の日常である(ぼくは、こうのを見いだし、そしてこうした作品を描くことを許した編集者に「よくぞ」と言いたい)。それはたとえば、近藤ようこが『ルームメイツ』で老人の日常を、ひとつの「典型」として描くことからさえも、さらに遠くへだたっている。事件によるドラマツルギーさえも使わずに、こうのは「日常」のなかに分け入ってくるのだ。

 『ぴっぴら帳』は、食堂につとめるキミ子がある日、迷子になったセキセイインコ・ぴっぴらさんを拾うところから始まる四コマ漫画である。ぴっぴらさんと、それをとりまくキミ子の日常生活が四コマで描かれていく。
 ぴっぴらさんへの愛情は細やかに描かれるけども、それは最近流行のペット偏愛漫画とは趣を異にする(いや、読後、セキセイインコを飼いたくなってしまったということはあるのだが)。読者が印象づけられるのは、むしろキミ子と彼女をとりまく人間関係、その日常生活だ。声高にではなく、読み終えてじわりと浮かび上がってくる。

 『こっこさん』は、小学生のやよいが雄鶏である「こっこさん」を拾ってくるところから始まる物語で、こちらは4コマではなく、1話ごとのエピソードを連ねていく方式である。「こっこさん」の決して媚びない気高さと、それより生じ来る愛らしさが読む者に迫ってくるが、同時に、その背後で進行するやよいの日常、家族・交友関係がやはり読後、ゆっくりと、しかし確実に心に浮かんでくる。


 ぼくはたとえば『ぴっぴら帳』を読んでいるとき、キミ子が枕もとでぴっぴらさんと話している時のコマ、淡い恋心をいだいている小鳥屋のお兄さんとの部屋での会話を読んでいると、しみじみ「ああ、いいなあ」と思えてきてしまう。「うまいうまい」と古典的表現でおはぎを食べるキミ子は実にしあわせそうではないか。
 くわえて。
 こうのが毎回トビラに描く、ぴっぴらさんとキミ子のツーショットの絵が、またいい。
 1巻p.106の、雨のなかで踊るキミ子とぴっぴらさん。古臭いと思えるこの絵画表現は、グッとくる。
 あるいは同書p.102の、窓辺で遠くをみつめるキミ子とぴっぴらさん。
 ぼくのボロ下宿にもまったく同じような窓の出っ張りがあって、そこにすわると遠くに新宿の高層ビル街が見える。それを思い起しながら(あるいはすぐ横目にみながら)、日常のなかでぼくが感じる「楽しさ」に、ふっと重なっていく。

 あるいは『こっこさん』のなかで、やよいが、河原にこっこさんと出かけ、そこでふと萌えそめる花にかこまれた風景に気づく。そのコマがこうの史代の筆致で大写しで描かれるのだ。
 そのコマは美しい。
 世界にはこんな美しさがあるのだということを、こうのは日常のなかに見いだす。
 『こっこさん』は毎回ちょっとしたユーモアというか、ある意味、辛辣な笑いで落とすのであるが、それは決してたんなる「ほのぼの」や「あたたかさ」「癒し」といった感傷に流れない、芯の強さのようなものをぼくは感じるのである。



 そして、どちらの作品も、ある種の「古さ」を感じさせる。

 たとえば、『ぴっぴら帳』では、朝おきてキミ子は「冷たい水」で顔を洗う。心がけてそうしているというより、温水器がないのだと思える。また、キミ子は銭湯へ出かける。いまどきそんなやつは、おれくらいしかいねーよ、などと思いながら読む(木造賃貸、フロなし、ガスなし、空調なし)。

 食堂につとめるキミ子の頭には三角巾、体には割烹着、人のいい亭主とおかみさん。橋田寿賀子の世界のようだ。
 また『こっこさん』に出てくる、たとえばやよいのお姉さんは中学生であるが、丈のやや長めのセーラー服を着て自転車を押してくる彼女は、なんとなく昭和中葉の中学生のようである。
 
 こうのが生活や人間関係を「古めかしく」描いているのは意識的ではないかと思える。
 たとえば苛酷で、そしてドライな環境の中でギリギリのところにうまれるものがリアルな友情だという世界観が猖獗をきわめているこの漫画世界において、あえて距離をとる。古めかしいものを使うことによって、距離をおくことができる。「日常」なくせに、「距離がとれる日常」というものがあるとすれば、このような「こうの」的な装置が必要になるのかもしれない。

 ちょうどぼくは山田洋次の映画、「寅さん」の世界を思い出す。
 山田洋次が扱うような世界、人間関係に似たものを感じる。
 確かに東京の下町にいってちょっと食堂に入ると、三角巾をまいて割烹着を着た人間関係が展開されており、そこに近所のおっちゃんが来て、うだうだ世間話をしているのにすぐ出くわす。それはたしかに「日常」なのだが、ぼくはちょっと不思議な気分になってしまう。ぼくからみれば、それは「日常」ではなく、「距離をおいた日常」なのだ。
 「男はつらいよ」で演じられる世界は、もともとそのまま庶民の「日常」だったのだが、次第にズレが出てきても、それは愛され続けた。ひとは、それをみるとき、なつかしい日常をみるような距離感をもつのだろうと思う。
 山田の映画をみていると、人間とは本来共同しあう生き物なのだということを、なつかしい気持ちとともに思い出させてくれる。孤立した個体が競争しあうのが人間世界だ、という世界観(そしてそれはぼくらがたえず吹き込まれているイデオロギーでもある)をしばし忘れる。


 こうのの描くものは山田のそれとは違うけども、やはりどこかなつかしい気持ちになる。
 世界にはどこかしら美しいところがあって、また日常生活はなにかしら楽しく、あるいは友だちや家族は「リスク」ではなく一番失い難いひとたちだったのだということを、思い出させるのだ。ぼくらはそれを忘れている。忘れていたなつかしいことを思い出させるには、「古さ」が要るのだ。




 こうのは図書館通いが趣味だという。
 こうのが日常のなかに、ある種の強さや美しさ、楽しさを見出せるという視線は、実は「文字」の力によって生まれているものだろうと思う。
 『夕凪の街 桜の国』は、まずタイトルからして大田洋子の創作を意識したものであり、中身も最後の参考文献にあるように大江健三郎『ヒロシマ・ノート』などからの着想やヒントが数多くある。淡々とすすんでいくように見える物語は、実は周密に構築された世界なのだ。その堅牢な構築物の土台には、こうのの「図書館通い」の成果があるに違いない。

 そうした視線は、おそらく『ぴっぴら帳』『こっこさん』にも役立っているであろう。
 文字や言葉の力があるからこそ、凡人には平凡としか見えない「日常」に分け入っていき、そのなかから美しさや楽しさを見事にとりだすことができるのだ。

 自分もまた、こうののように世界を見たいと願う一人である。



※『夕凪の街 桜の国』の感想はこちら | 『長い道』の感想はこちら