浦沢直樹×手塚治虫『PLUTO』2巻


PLUTO (2) 【豪華版】
※1巻の感想はこちら



 アトム出まくり。
 2005年になって、アトム萌えで困る事態になるとは想像もつきませんでした。

 とくに、

「ええと、それじゃあ…… アイスクリームを。」

と注文するアップ描写のアトムとか、

「約束ですよ!」

とゲジヒトにくり返し言葉をかける健全児童然としたアトムとか、

 もー、だめぽ。
 気ィ狂いそう

 これにたいし、巻末にアトムの妹・ウランが登場するが、少なくともこの範囲では全然ダメ。これではジャリである。萌えません。リテイク。やり直し。(まあ、アトムと競合しなくていいのかも。)



 あいかわらず、話の全体はまだよく見えない。

 1巻の感想にも少し書いたことだけど、手塚の原作のオチは、「ねえ博士 どうしてロボットどうしうらみもないのに 戦うんでしょう!?」というアトムの問いに、アトム自身が「ぼく……今にきっとロボットどうしが仲よくして けんかなんかしないような時代になると思いますよ きっと……」と答えるというもので、そこにはシンプルではあるが、手塚自身の戦争体験に裏打ちされ、直近のキューバ危機などを背景とした、「平和」というテーマが貫かれていた。

 浦沢が手塚に挑戦するのであれば、当然、「平和」という問題を、今日的なリアリティをもってよみがえらせるという課題に直面する。



 そのことを忌諱するなら、このリメイクは手塚への挑戦でも何でもなくなる。
 よくも悪くも、手塚は間違いなく戦後民主主義の旗手であるのだから。



 無謀な戦争を体験した戦後日本は、戦争や平和を扱う創作を数多く生み出し、その結果、自分の戦争への感情を語るにしても、あるいは戦争にたいする倫理観を語るにしても、いくつかの(あるいはもっと多くの)パターンが定まってくるようになった。
 まるで鋳型に流し込むように、そのパターンの中に自分の気持ちを入れ込めば、だれでも戦争を語れるようになった。
 それは必ずしも悪いことではなかった。特定の人だけでなく、だれもが戦争や平和にたいする感情や倫理観を日常的に表現できるようになったという点で、大いに意味のあることであった。とくに戦争体験を国民の中に遺し、「普及」していくうえでは、こうした「物語のパターン」は決定的ともいえる役割を果した。
 しかし、他方でそういう表現にたいして、多くの国民が目が肥えてくるようにもなり、そうしたパターン化された表現にふれても、「リアリティ」を心の底からは感じられなくなっているのもまた事実である。
 こうの史代『夕凪の街 桜の国』を読んだ若い世代が、従来の戦争についての表現との対比で語り(ぼくもその一人であったが)、その「新鮮さ」に称賛の拍手を送ったのは、「破格」だと感じたからであった
 また、たとえば、水木しげるのような、パターンから外れた厭戦観は、その語り口に不思議なリアリティがあり、世代を超えて彼の漫画が今でも愛される原因の一つとなっている。


 しかしながら、この「パターンにたいする抵抗感」を、悪ノリして言っているのが、たとえば映画「ローレライ」のプロデューサー亀山千広の「戦争がいけないということは、もう教育が行きわたっているから誰にもわかっている。その大前提があるから、いま是非論をやっても仕方がない」という発言や、同じく原作者・福井晴敏の「第二次世界大戦の映像というと、東京大空襲や『はだしのゲン』などの負のイメージがありますが、いまさらそんなものは誰も見たくないわけですよ」という発言(いずれも『日経エンタテイメント』2005.3増刊)で、こういうふうに問題を仕分けてしまうと、まったく間違ったものになってしまう。

 『夕凪の街 桜の国』とからめて従来の戦争(反戦)表現に言及するいしかわじゅんの次の発言は、ギリギリだろう。

「反戦マンガは嫌いなものが多いんだけど、戦争はつらくて悲しくてイヤだね、ってみんな描くんだよ。爆弾が落ちてきて手が取れて痛いね、とか。お父さんが死んで悲しいとか描くんだよ。でも、それって表現としてどうなんだ、と思うんだよ。悲しいって描いて悲しがらせても表現として意味がないんだとおれは思うんだよ」(『このマンガを読め! 2005』)

 いしかわじゅんにして、これである。

 問題は、「ねえ博士 どうしてロボットどうしうらみもないのに 戦うんでしょう!?」「ぼく……今にきっとロボットどうしが仲よくして けんかなんかしないような時代になると思いますよ きっと……」という「平和」観を、「負のイメージ」「そんなものは誰も見たくない」ものとして片付けるのではなく、今日的なリアリティをもってよみがえらせるということなのだ。

 浦沢の『PLUTO』がこの課題に果して挑戦するのかどうかは、いまのところ、定かではない。

 作品では、イラクのフセイン政権を連想させるペルシア王国のダリウス12世、アメリカを想起させるトラキア合衆国のアレクサンダー大統領が登場し、「大量破壊ロボット製造禁止条約」への違反、査察、戦争というストーリーを展開させている。そして中央アジア紛争に参戦したロボットたちが、「僕達は、何をやっているんだろう…… 僕達は、正義のためにここに来たんだよね……」とその大義に疑問を抱くシーンを描いている。

 しかし、いつもの浦沢流であろうから、おそらくこうした描写はほんの「とばくち」にすぎないのだろう。イラク戦争もどきの設定が出てきたからといって浦沢にとっては、そんなものは撒き餌程度のものでしかない。一体、浦沢がそこからさらにすすんで、手塚の「平和」観をリアリティあるものとしてリメイクする意欲や能力があるのかどうかは、まったく未知数である。(だから、昨年末にまだ1巻しか出てないというのに、この漫画を04年の最高作品に挙げた批評家〔『このマンガを読め!2005』など〕は、どうかしてるんじゃないの!?と思うぞ)

 ただ、ぼくが期待しているのは、「記憶」の問題である。

 2巻でロボットのうちのひとつであるヘラクレスは次のように言う。


「人間はなぜ、あんなモニュメントを建てたがるかわかるかい?

 忘れてしまうからだよ。

 記憶がどんどん薄れる前に、
 ああいうものを建てて忘れないようにする……

 ところが俺達はどうだ……

 メモリーを消去しない限り、
 記憶はいつまでも残る……

 あの戦争で見たものを、
 俺達は鮮明に覚えている……」


 ロボットと人間のちがいの一つに「記憶」をもってくる。

 「記憶」は、いま日本で戦争と平和を語るさい、外すことができないキーワードである。

 浦沢はこの作品の中で「メモリー」について執拗にとりあげ、2巻の後半でも、ゲジヒトの「記憶」について、何度も触れる。このモチーフを今後浦沢が料理するのかしないのか、まったくまだわからないが、この問題をもし軸としていくなら、手塚の「平和」観をこえる今日的なリアリティを獲得しなおす可能性があるように思う。

 まあ、たとえ、いつもの浦沢流の「ひねりすぎ、意味不明」へ落ち込んでいったとしても、ぼくたんには、アトムがいるからいいや。




(2005.6.10補足)浦沢の『PLUTO』に手塚治虫文化賞が出た。だから未知数だっていってんだろ! 頭おかしいよ、審査員。

※こうの自身が語っているが、「夕凪の街」はすでに既存の原爆文学のなかで語られてきた「パターン」ではある。しかしそれでもぼくは「夕凪の街」でさえいろんな意味で新しい表現だと感じる。

1巻の感想はこちら

小学館 ビックコミックス(以後続刊)
浦沢直樹/スタジオナッツ
手塚治虫 長崎尚志 手塚プロダクション
2005.4.27感想記
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