深見じゅん『ぽっかぽか 13』

 「ぽっかぽか サーティーン」と読む。(カナがふってある)

 むろん第13巻、という意味だが、ぼくのつれあいは、「ときめきセブンティーン」とか「純情シックスティーン」のように、年齢かとおもったらしい。そういわれると「ゴルゴ サーティーン」のようなものも連想してしまう。
 それにしても、「13歳」という尖った年齢に「ぽっかぽか」っていうのは、いかにも似合わないよなあ。田舎の中学生ってそんなもんかなあ。

 などと、与太話はおいといて。

 『ぽっかぽか』の「臆面のなさ」は、巻をおうごとに定向進化をしている。

 なんについての「臆面のなさ」かといえば、「結婚後の家庭生活のすばらしさをうたいあげること」である。「夫と家族の惚気」といってもいい。
 これは『ぽっかぽか』の一貫したテーマではあるが、久しぶりに読む13巻は、この傾向に拍車がかかっていると感じた。いくつかあげてみよう。

「夫や妻 母や父 そういうモンじゃなくて まず男と女だろ
 恋をして愛し合って結婚したんだろ それを忘れるなよ」

「…麻美 ひと言 言わせてくれ
 …麻美がいなくて淋しい しみじみそう思うよ
 うん…じゃあな (電話をおく音)
 どうだ うらやましいか?」

「あなたが父さんに言った言葉 
(回想シーン)
 娘さんに…幸せにしてもらいたいんです
 そして全力で幸せにしたいんです
 『娘さんをください』とは言えません
 ただあなたの娘さんと一緒に人生を過ごしたいんです!
(回想シーンおわり。中略)
 …うれしかったなあ 安心したし元気も出た
 …私ね 結婚前の私に会って 言ってあげたい事があるの
 “大丈夫よ あなたが大切にしてあげたいと思う人だもの
  きっとうまくいくわ”って
 “そして今 私はこんなに幸せよ”…って」


 どうであろうか。
 わぁっ、と叫んで走り出したくなる人もいるであろう。

 
 だが、ぼくは、これほどまでに「臆面もなく」、正面から夫婦愛と家族愛をうたいあげることを、皮肉でもなんでもなく、心から賞賛する

 深見がとりあげる夫婦愛と家族愛は、古典的なようにみえて、実は、しっかりと言葉によるコミニュケーションをとる、という意味できわめて現代的であり、古典的、いわば男権的な夫婦・家族像にたいする厳しい批判たりえている。

 現代の夫婦や家族の関係というのは、日常の目的意識的な関係の再生産なくしては、持続されない。
 近藤ようこ『ルームメイツ』には離婚する老夫婦の話が出てくるが、夫はずっと妻に背をむけて無言で茶をすすり、テレビや新聞を見つづけてきた。それがおたがいの亀裂を深めていく。「以心伝心」、言葉なんかなくても夫婦はお互いのことはよくわかっているというのは、神話でしかない。

 『ぽっかぽか』は、あらゆる場面で、田所夫妻が、実によく話す。
 夫が帰ってきてから、毎日夫婦で晩酌をする、という場面がその中心にすわる。
 子どもが出来たあとも、夫は妻を「麻美」と呼び、妻は夫を「慶彦」と呼び続ける。夫婦が個人として、男女として、機能しつづけているのだ。

 「娘さんをください」という言葉のもつ傲慢さも、深見はきちんと見抜いている。
 子育てが母親ひとりでするものではなく、父親と、社会全体によって担われることも、この巻のなかでしっかりとうたわれている。

 深見のもっている夫婦観・家族観は、きわめて健全で、逆に言えば、そのまま現実批判となるだけに、ひどく戦闘的でもある。


 前にも紹介したが、日下翠は『漫画学のススメ』のなかで深見じゅんを紹介して、こうのべている。

「恋愛にあこがれ結婚したものの、現実の壁につきあたって幻滅する。それが事実であろう。純文学によくでてくるのは、そんな日常生活のむなしさにめざめ、自立を求めて苦悩する姿である。しかし、こんなものを読んでも、気が滅入るだけで、何の助けにもならないのだ。大多数の人は、現実と折り合いをつけつつ、なんとか暮しを続けて行く他はないからだ。深見じゅんの漫画は、そんな彼女達を元気づけ、はげましてくれるのである。
 たとえば、『土曜日の居酒屋』…は、結婚一カ月で精神的に不安定になった主婦が、夫がえんえんと『その日あった』自分の話を聞いてくれることで、暮しを続けてゆく希望を抱く話である。彼女が本当に言いたいことは、そのしゃべる内容とは無関係だ。結婚はそれほど面白い暮しではない。家事をし、食事のしたくをし、夫の帰りを待つ。これがこれからずっと続くのかと思えば、気が滅入るのも当然だろう。彼女は言外に、助けてちょうだい、私はあなたと結婚したことを後悔したくないのよ、と悲鳴をあげているのだ。……読者は、こんなにしてもらえたらどんなにいいだろう、と思うことだろう。普通の女が求めているのは、こうした、自分の希望をはっきり形にして気づかせてくれる作品…なのだ」

 数々の漫画が自らの欲望表現であることは今さら指摘するまでもない。
 しかし、深見じゅんの漫画は、欲望表現ということにはちがいないが、しっかりと現実のなかに立脚している(むろん、そうでない漫画も別の価値があるのだということはくり返し言っておこう)。
 日常のなかで直面し、悩み、格闘する問題を、素材としてふんだんに使い、そのなかに欲望を理想として造形するとき、その作品は、厳しい現実批判の力をもつ。理想という虚構を、現実のなかに立ち上げることこそが、深見が選びとった方法論だ。臆面なく語られる理想は、輝き続け、まぶしくなる一方の「光」に似ている。うっとうしさがないとはいわないが、やはり、世界において高い価値をもち続ける。

 深見は、虚構のもつ現実的な力を、もっともよくわきまえている作家の一人であるといってよい。


集英社ユーコミックス
2003.11.26記
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