いずれにせよ、ぼくが言いたかったのは母乳とミルクの問題を入り口にして「科学的に最善のこと(あるいは子どもにとって最善のこと)」と「現実」との折り合いをどうつけるのか、ということだった。
そのことにかんして、最近読んだ深見じゅんの子育て家族の漫画『ぽっかぽか16』はなかなか心に響いた(『ぽっかぽか13』についての感想はこちら)。
というか、深見について前にも書いたのだが、今回もつれあいと読んでいて「くそう、こんなありきたりの話でまた泣かされた」と悔しがったものである。この安い設定、雑な絵——なのに心にしみいるのである。
濃密で精巧な短編
たとえば、本巻の冒頭にあるエピソード「おもちゃのマーチ」は、幼稚園に預けられた子ども・トッくんの両親が、交通事故で亡くなるという設定でいきなり始まる。いきなり大きな悲しみが全体を覆うのである。
しかし、これだけ大きな悲劇を最初に用意してしまうと、逆に展開が難しくなる。設定に押しつぶされてしまうのだ。
亡くなった両親の親族は、面倒をしょいこんだという思いだけで、駆けつけもしない。だれもトッくんに心をよせない親族の勝手な有様をみて、子どものいない吉田が引き取ることを決意する。
物語は、父母の死を思い出させまいと気遣う吉田夫妻の善意とは裏腹に、なつかないトッくんとのすれちがいを描いていく。だが、「無遠慮」な他の子どもたちは、親切のつもりでトッくんの父母が死んだことを口々に「かわいそう」がる。それによってトッくんは初めて父母の死後泣くことができたのだ。吉田夫妻は、亡くなったトッくんの両親を「忘れないようにいっぱいお話」するのである。
タイトルの「おもちゃのマーチ」は、人生を「行軍」になぞらえたもので、「おもちゃ」は子どもの比喩である。子どももまた人生という戦争の行軍をしているのだ、というずいぶん広い網をかけたテーマタイトルなのだが、両親の死を子どもがどう受容していくかを中心軸にしながら、世間の人々の冷たさ(親戚)とあたたかさ(幼稚園の先生や親たち)がその中心軸に絞り込むような形で描かれることで、ラストまでくればこのテーマタイトルでしっくりくることがわかる。濃密で精巧な短編だ。うまい。
最善のことが聞きたくなる瞬間
さて、ぼくが『ぽっかぽか16』を読んで「科学的に最善のことと現実との折り合い」について思い及んだのは「いただきます。」という短編であった。
流産をきっかけに気持ちがふさぎこんでいた関は、フルタイムの正社員で働くことで急に元気をとりもどす。子どものことなど忘れるほどに。
仕事の楽しさ、充実のあまり、家事も育児もどんどん疎ましくなっていく。
買ってきた総菜や弁当が増える。
そして、子どもが話すことにも次第に耳を傾けなくなるのだった。
結句、子どもはストレスで激しい腹痛をおこしてしまう。
セミナーに現れた小児科医は「独身のバリキャリって感じ」の女性だった。「ずいぶんとエラソーな先生ね」「きっと独身で頭でっかちで子育てに苦労なんかしてないのよ」と参加した母親たちに反感をもたれている。
小児科医はセミナーの前に「自分の恥」を話す。「私は17年前 3歳の息子を抱えて離婚しました」。その理由は、仕事が多忙で家事も育児もできるだけ手を抜き、とりわけ食事をすべて買いそろえたのである。
これを1年半つづけ本人が倒れ「骨・肝臓・血液……全身がボロボロになってました」。息子は肥満児に——こうした「恥」を話したうえで、小児科医は「簡単で健康なお料理」としながらも、原理主義ともいえる料理法を提唱する。「ご家庭の冷蔵庫の中にある… 『○○の素』『○○のタレ』を全て捨てる事」「和食のほとんどは塩・味噌・醤油で作れます」「もっと極端に言えば味醂・砂糖もいりません」。
会場から大ブーイング。「ムリ」「絶対ムリよ」。
料理を出すうちに会場は少しずつひきこまれていくが、果たして伝わったかどうかはわからない。終わってから小児科医は、うってかわって自信なさげにつぶやく。「言いすぎたかしら 『めんどくさい』『できないわよ』で終わりかしら」。
この小児科医は、食事以外は急進的ではない。
関もこのセミナーに来ていて、小児科医はやさしく声をかけるのだ。
「がんばりすぎないで ごはん以外の家事は手抜きをしてもいいから 子育てを楽しんで」。
ぼくは「『○○の素』『○○のタレ』を全て捨てる事」「もっと極端に言えば味醂・砂糖もいりません」というのを読んで、まさに会場のお母さんたちよろしく「ムリ」「絶対ムリよ」と言いたくなった。「めんどくさい」「できないわよ」。そして実際に無理であろう。
だが、ぼくにしてみれば、この話はなかなか好きな話なのだ。
この話の骨格だけを聞けばいかにも現実無視、母性および科学の側にいる「過激派」の極論のようにしか聞こえない。
しかし、労働の現実の前にたえずこの「子どもにとって最善のこと」は忘れ去られていく。「最善」についてどこかに心の錘がなければやはり現実に流されっぱなしになるのではないかとぼくは思うのだ。もちろん、この小児科医がのべたように、「子育てを楽しむ」という精神がなければ、その錘は容易に精神を押しつぶすプレッシャーに転化する。そのきわどいバランスのなかで子育てがある。
現実に流される
最後にのっている「番外編」の短編「睡蓮の下で眠る」は、現実に流されていく一つのケースである。
父親は薄給で多忙、母親はケータイも買えないほどの貧困のなかでパートに明け暮れる。子どものためにパートのシフトを変えて叱られている。
そんななかで家事はすべて母親に押し付けられ、いよいよ家は荒んでいく。片付けをしている最中に、息子が部屋でおもらしをしてしまい、「誰が洗濯すると思ってるの!!」と思わず手をあげてしまうのだ。
息子の顔のケガを言い訳しながら保育園から帰る母親の後ろ姿を、作者は描写する。同じアングルでコマを連続させ、セリフと気持ちだけが読者にしみいるように精密に設計されている。
「…手をあげてしまった
またきっと同じ事をする
いつか…大けがをさせるかも
いつか……殺してしまう…かも
…………
……ああ…
結婚して夫と子供と暮らしている
ただそれだけ
それだけなのに
深くて暗くて冷たい
そんな所に私はいる」
シフトさえも動かしがたいパート労働に追われる日々。あまりにもありふれた現実なだけに、そのなかで身動きがとれなくなってしまうことは我がことのようである。
しかしそういう中であるからこそ、ぼくは、逆に「最善のこと」についての説教が聞きたくなる瞬間があるのだ。その意味で短編「ごちそうさま。」の小児科医の話はぼくの心にヒットしたのである。