宮崎駿監督「崖の上のポニョ」を観てきた



 お盆に帰省したときに観た。1歳になる娘は最近は寝かしつけるともう朝まで起きないので、実家の母に頼んで看てもらっている間に、レイトショーを夫婦で観に行ったのである。



子どもたちの賛否は分かれている


 「映画生活」レビューにのった多くの投稿をみると、宮崎駿が「子どもたちのために作った」とのべた当の子どもたちの評価は微妙である。
http://www.eigaseikatu.com/imp/21026/

「1時間過ぎたあたりから、周りの子が(自分の子も含めて)ザワザワと落ち着きがなくなってきました」
http://www.eigaseikatu.com/imp/21026/398216/

「自分自身は後半30分気を失っていたので、レビューに値しませんが、子どもたちが映画を観終わってしばらくしても、映画の話をしないので、感想を聞いてみると、一言、(つまんなかった、、、意味が分かんない、、、終わり方が、、、)とのこと」
http://www.eigaseikatu.com/imp/21026/390641/

「ちなみに3歳の娘的にも、パンダコパンダ、トトロの次くらいには面白いという程度ですし、7歳の息子に感想を聞くと『我慢して見たんだから早くポケモンを見させろ』って言われますし。
結果から言って、子供にとっても大して面白い映画ではないようです」
http://www.eigaseikatu.com/imp/21026/389423/

 もちろん、他方でこういう感想もある。

「4年生の娘と4歳の息子も、とても満足していました。息子は『また見ようね!』と言っていました」
http://www.eigaseikatu.com/imp/21026/398944/

「映画は、娘ふたりと見に行きました。
初めて映画館を体験する3歳の下の娘は、最初から最後まで身を乗り出し、 音楽に体を揺らし、ポニョにすっかり入れ込んでいて。。
私は、映画にも感動しつつ、娘の様子にもちょっと感動してしまいました」
http://www.amazon.co.jp/review/product/B0018QT94I/

 ターゲットとなった子どもにおいて、この映画の賛否は分かれている、という感じだ。

 この賛否の分裂は子どもに限らず、大人たちまでそうなっているようである。しかもそれは『もののけ姫』のときのように、その質の高さを受け入れた上で物語の結論への賛否ではなく、そもそも作品としてダメであるというような批判の仕方をされているのだ。




「ぼくの娘だ」



崖の上のポニョ サウンドトラック  ぼくは、観てすぐに「これはうちの娘だ」と思わずにはいられなかった。もちろんポニョがである。しかも人間の姿になってからのポニョというより、金魚や半魚人のときのポニョをみてそのことを強く感じた。
 と、こんなふうに書くとそれだけで、全日本親バカ大会をここで開かれてしまうのかと思ってうんざりする人もいるだろう。まあまあもう少しおつきあいを。
 作品解釈のためのあらゆる理屈を考える前に、脊髄反射的にそう感じ、そのことに快楽を覚えながら作品を見続けたのだ。

 実は少しだけ前準備があって、映画の宣伝や取材番組が放送されているのをつれあいが視て「みてみて、これうちの娘にそっくり〜」と言っていたのである。それで先入観をもって映画を観ることになったのである。

 顔面のパーツが下に偏り、大人のような縦長ではなく横長を基調とした造作。手の入っていない赤茶けた髪──漫画で幼児を描く際の基本ではあるが、こうした特徴に加えて動作が「わが娘」っぽかった。

 海から家出してきたポニョを救った5歳の少年・宗介が、バケツの中のポニョに最初自分の食べているサンドイッチのパンを与えようとするが、ポニョは拒絶する。そして、やにわにサンドイッチのハムをひったくるようにしてガツガツと食べてしまう。1歳になったわが娘が離乳食にみせる好悪の感情・態度を彷彿とさせる。食事をしていってだんだんお腹がふくれてくると、あとは頑として食べない。口を真一文字に結んでしまう。もう食べないのかな、と思って、フルーツを差出すとひったくるようにしてガツガツと食べ始めるのだ。

 ポニョがバケツのなかで眠っている様も、すぐさま娘を思い出した。ポニョは死んでしまったのではないかと思うほどに小さい生き物の眠りは動きが小さく、無防備にすぎる。大人が眠っているときと違って、赤ん坊が眠っている顔というのはきわめてイラストチックである。娘が眠っている顔をじっと見ていると、しみじみと「小さな生き物」感が強くなってくる。
 ポニョの尾ひれのあたりが白くみえるのも、オムツをしている娘のようだった。
 そして、力づくで何かを突破しようとしたり何かに抵抗しようとするときの、目を閉じて懸命に力を出すポニョの様子もそのままわが娘であった。

 人間の姿になってからのポニョではなく、金魚や半魚人のときのポニョに「自分の娘性」を強く感じるのは、言語を十分に解さず、足取りもおぼつかない「プレ人間性」が重なるからだろう。ぼくの娘は今のところ「マンマ」と「バイバイ」と「ワンワン」しかいえない(しかも「マンマ」以外はあまりシチュエーションにふさわしい使い方ができない)。そして最近ようやく歩くことを覚えた、という段階だ。「言語」と「二足歩行」をもって「赤ん坊」時代の終焉とみるのであれば、まさにわが娘はその移行の最終段階にある。
 ポニョが金魚から「進化」する過程で鳥ともカエルともつかぬ得体のしれないものになるシーンがあるが、あのような「中間形態」こそ、いまのわが娘である。ぼくの娘は金魚であり、カエルである。人間の姿になったポニョはすでにわが娘ではない。それは娘の「未来」の姿である。




虚構を通過させること



 ポニョがお前の娘のようだというなら、映画などをわざわざ観ずにお前の娘そのものを見ていれば済むことではないか、という声が聞こえてきそうであるが、現実の、生きて動いている娘にはポニョほどの先鋭な「わが娘」らしさがないのだ。妙な話であるが。

 現実の娘は、上記のような動作だけをしているわけではない。テレビがついていればそれをじっと見入る時間があるし、意味もなく指差しをしている瞬間もある。つまり、娘は無数の仕草や発声などをしていて、そのすべてがぼくの考える「わが娘らしさ」なのではない。そうした様々な、豊かな、数多くの娘の言動のなかから、ぼんやりと「わが娘らしさ」の特質というものが浮かび上がってくるだけなのだ。
 虚構は、このまどろっこしさを一気にとりはらってしまい、本質的なものだけをとりあげ、先鋭化し、デフォルメし、観る者に強烈な印象を残す。その結果、現実のものよりも、虚構のほうがはるかに真実に近くなっている。
 金魚のポニョというのが、現実のぼくの娘よりもはるかにぼくの娘っぽさ──ある瞬間だけではあるが──を見せるのはそのせいである。現実の娘が今そこで動いているのに、ついつい自分の撮った娘の写真を見てしまうのは、「切り取られた」その瞬間に、より「娘らしさ」が浮き彫りにされているせいである。
 その証拠に、津波の後、ポニョと宗介が舟に乗っているシーンで出会う赤ん坊は比較的リアルタッチに描かれているが、そんな赤ん坊を見てもぼくの心はピクリともしなかったのだ。針が1ミリもふれない自分の心に驚きながら、虚構をくぐりぬけるとはどういうことか、ということを実に鮮明な対比として「ポニョ」と「リアル赤ん坊」はぼくに示してくれた。

 もちろんポニョを見て自分の子どもだと思うことはぼくの特権的・極私的体験ではなく、少なからぬ全国の親バカがそう思ったに違いない。ぼくもそのバカの一人である。宮崎駿はこの映画を作るさいに、スタッフの、まだ小さい子どものエピソードをくり返し聞いていたというから、ポニョのあらゆる動きが「小さい子」の動きを普遍的に表していたとて不思議ではない。「宮崎監督の隣で仕事をしている近藤氏が、まだ3歳にならない子どもの子育てに悲鳴をあげながら仕事をしていて、それがこの映画の内容と結びついた」(@ぴあ07年12月4日)。
http://www.pia.co.jp/news/hot/c_20071204_ponyo_repo.html

 ある種の小説が「これは私のためにかかれた物語に違いない」と読者に思わしめるように、この映画のなかにある普遍性は、ぼくら一人ひとりの特殊性へと還元される。「特殊は普遍である」というヘーゲルの言葉通りだ。

 あるいは、「この程度の動物キャラクター・赤ん坊キャラクターならたくさんいるではないか」という指摘もあろう。これはぼくが映画について不案内だからそうかもしれないなと感じるし、否定はできないところだ。
 ただ、ぼくの乏しい映画・アニメ体験ではこうしたキャラクターはいなかった。たとえば「イクラちゃん」というのは記号のような赤ん坊だし、「O次郎」や「ハジメ」は才気走っていた。ディズニーに出てくる小さな主人公たちは、あまりに意志的にすぎる。あるいはその裏返しとしてあまりに内気すぎる。
 ぼくが子どもを持っていないかった時期には、子どもをもつ親の目線でポニョのようなものを感じられなかっただけかもしれないのだが。

 ついでに言っておけば、ぼくはポスターを見た段階では、「あ、娘そっくりだ」とはまったく思わなかった。そもそも題名と絵柄と大まかなストーリーと「生まれてきてよかった。」というコピーに接して「ディズニー的癒し」を連想してしまい、まったく観る気が失せていた。それが一転、見に行くことにしたのは、「これまでのどの宮崎作品にも似ていない、よくわからぬ非凡な映画」という「たけくまメモ」の奇妙な感想に惹かれてのことだった。
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/07/post_fb6c.html

 そうしてスクリーンで動いているポニョをじっくりと観るうちに、ぼくのなかに冒頭のような印象が閃いたのだった。「命をふきこむ」という「アニメーション」の原義どおり、アニメとして動かされ、音としての台詞が入ることでポニョは「生き物」になった。




「死のイメージ」は恐怖ではなく「なつかしさ」



 つれあいは、こうした感想に加えて、観賞後、「気持ちの悪い、未解決のエピソードが多すぎる」ということを言った。たとえば、津波のあとに、デイケアセンター(ひまわりの家)のお年寄りたちの車イスが波打ち際に無人で並んでいるカットは死を連想させる、というのだ。

 『ポニョ』には死のイメージが多すぎる、ということは、プロデューサーである鈴木敏夫自身も「あっちの世界に行って帰ってくる話というのは、これまでも描かれてきた題材だし、宮さんも取り組んできました。『ポニョ』でそれを突き詰めたと言えるかもしれない。生命が誕生する間際には、死がすぐそばにあるんですよ。生きていくのも同じじゃないですか」(読売新聞08年7月23日付)といって認めているし、
http://www.yomiuri.co.jp/entertainment/ghibli/cnt_interview_20080723.htm

そのことへの批判はすでにあちこちでなされている。

 たとえば映画評論家の前田有一は「死をイメージさせる要素があまりに多すぎて、個人的には異様な鑑賞後感を味わう羽目になった」「『神経症の時代に向けて作った』というが、むしろこの作品こそがパラノイア的で気味が悪い。絵本調のパステルカラーによる妙に明るい雰囲気とのギャップがその思いに輪をかける。そうした意味では、これを何の疑いもなくハッピーエンドのかわいらしいお話、と見られる人は幸福といえるだろう」とのべ、こうした死のイメージを感受せずにこの映画がハッピーで明るいとしか思えないやつは頭がハッピーなんじゃねーの? とは言っていないがそんなことを言いたそうなことを書いている。
http://movie.maeda-y.com/movie/01143.htm

 ぼくも感じないわけではなかった。
 たとえば、津波の後、ポニョと宗介が舟に乗って最初に出会う夫婦はまるで昭和初期のような出で立ちをしており、観ていたぼくは一瞬「あれ、別の世界に来たのか…?」という錯覚を受けた。すなわち「物故者」の世界に。
 あるいは、ひまわりの家の車イスのお年寄りたちが海中で大はしゃぎしながら走り回っているシーンで、お年寄りたちはこれがあの世なのねー、存外いいもんじゃない、というむねの言葉を口走る。その前のシーンで車イスのお年寄りたちは、宗介のように走り回りたいわーという趣旨のことをしゃべっているように、これは老境の彼女たちの願望であった。それは魔法によって果たされているのだが、一連のイメージによって死後の世界で「実現」しているかのようにも見える。

 NHK「プロフェッショナル 仕事の流儀」の08年8月5日放送の「宮崎駿のすべて〜『ポニョ』密着300日」で、宮崎駿はこの映画に自分の母親への思いを盛り込んだことが、本人のインタビューもまじえながら、解説されている。『となりのトトロ』に病身の母親が出てくるが、宮崎の母親はこうした病床に伏せる生活を長年送っており、老婆たちを走り回らせるのは宮崎の願望の投影なのだ、と。『ナウシカ』が大ヒットし、自由にアニメを創れるようになる以前に鬼籍に入ってしまった宮崎の母親を、宮崎が「走り回らせたい」と考え、それが「死後の世界」と結びついた空想になることは十分に理解しうることである。

 だとすれば、これらの一連の「死のイメージ」は必ずしも恐ろしいものではない。むしろ「なつかしい」ものである。
 宮崎が意図したかどうかは知らないが、これが公開され、ぼくが観に行った「8月」という月は、日本的空間においては「お盆」があり「戦没者追悼」があるという「死者と生者の交わる」ことに特別強い感慨を抱かせる月である。ぼくもまた3日間お墓に提灯をかついで行き、仏壇の前で一族を代表してなぜかぼくが般若心経を読経させられるその一連の最後の日にこの映画を観に行ったのであり、この10年くらいのあいだに亡くなった祖父母のことを思い出していた。ぼくは、この映画とは別のところでなつかしさに包まれながら、スクリーンの前の席についたのである。

 ただし、宮崎の「母への思い」そのものについていえば、ぼくはこの映画から感じ取ることはまったくできなかった。しかし、この映画が「死のイメージ」というより「死んだなつかしい人々の空気」をもっていることは感じることができた。
 この空気を「気味の悪い、死のイメージ」としか感受できない人は、身近な死者をなつかしさをもって迎えるという体験に欠けた人かもしれない。




高波の上を駆けるシーン



 CGを使わずセル17万枚手描きというのがすごいのかすごくないのかは、どこか深いところで影響を与えているのかもしれないが、素人であるぼくにはわからなかった。「セル画ゆえにあたたかみを感じた」という感想を述べている人はよほどアニメを見慣れた人にちがいない。

 動きとして一番面白かったのは、ポニョが宗介を追って、海の牧場を再び飛び出すシーンで、とりわけワーグナーの「ワルキューレの騎行」にも似た音楽に乗って高波の上をポニョが駆けるところだろう。

黒船 (Cue comics)  黒田硫黄の「海に行く」(『黒船』所収)に出てくるが、電車に乗ったとき、車窓を後ろに流れていく無数の屋根の上を「忍者」が飛んでいく、という妄想を小さい頃にしたことがある。あれに似ている。荒れ狂う、暗い嵐の海の上を赤い服を着た女の子が笑いながら鬼のようなスピードで走っていく、というのは、テキストだけで聞くとなんだか怪談のようであるが(いま海の上に女の子が、と宗介のように自分の娘が親であるぼくに言ったとしたらぞっとするものがある)、映像になるとこんなにもユーモラスになる。

 子ども時代の妄想という点でいえば、「水没」と「デボン紀」もその一つだ。
 宗介の町は「水没」してしまうのだが、映画の公式パンフレットにもあるとおり、あるいは『台風クラブ』のように、子どもにとって嵐とか水没とかいう災厄は「悲劇性」ではなく──自分や家族が死ぬのでなければ──イヴェントとしての興奮の要素が高い。
 宗介の母親であるリサの周辺にただよう大人社会の緊張感とは別に、家にたどりついてからの暗がりの中で非常生活の準備をする宗介とポニョの様子はどことなく楽しげである。あるいは、自分の家が水没しているというのに、非難して山上のホテルに集まってくる人々の顔ははっきり言って喜びに満ちている。
 ぼくはその快楽を共有した。
 とりわけ、宮崎映画にしばしば登場し、今回も登場した「町の水没」は楽しかった。そしてその水没した町の中を古生代の魚介類たちが自由に泳ぎ回っているのを見るのは、自分の小さいころの妄想をより劇的によみがえらせた。
 前にも書いたが、ぼくはペルム紀やデボン紀の生物が大好きで、ああいう生き物が町を歩き回っていることを妄想したことがある。宮崎はこうした妄想をさらに大きなスケールにして、町を海に変えて古代魚を泳ぎ回らせる空間にしてしまった。

 宗介がせっかく友だちになった、というか、お気に入りになったポニョを、波にさらわれてしまい、それを追って海に入っていき溺れかけてしまうシーンは、ぼくの子ども時代に自分の過失でペットを失ったときのことと、親となった今、回りが見えずに子どもが事故に巻き込まれていくことを想像してしまい、なんとなく涙ぐんでしまった。

 ぼくはこの映画にまつわる「解釈」にあまり興味を持てなかった。ぼくはこの映画を「欲望」や「快楽」の角度からだけ観た。「解釈」に興味をもった部分も、その「快楽」にかかわる範囲のみである。物語の破綻や矛盾にも関心がなかった。竹熊健太郎が指摘した、伊藤剛開発の概念である「マンガのおばけ」問題(金魚であるポニョをみて、デイケアセンターの老人の一人が「人面魚じゃないか」と言って気味悪がるシーンがあるのだが、リアルさと漫画的世界をシームレスにつないでいる「約束事」を覆してしまうのではないかという指摘)は、今回については、自分の娘の「かわいさ」をぼくが本作に投影している立場から、そのような指摘自体がぼくにとってはあからさまに不愉快であった。
http://takekuma.cocolog-nifty.com/blog/2008/08/post_746c.html

 「解釈」に関心がないせいか、ぼくにとってはこれまで述べてきたように、「母子」とか「家族的ななつかしさ」というイメージや空気が強いもののように感じられる映画であった。この映画について賛否両論がおこっているのは、こうしたことをテーマとして受け入れられる条件のある人にのみ限定されているからではないか。


宮崎アニメは、なぜ当たる スピルバーグを超えた理由 (朝日新書 121)  もちろん、これらはあくまで作品評価の話であって、興行的にどれくらの成績を収めるかは別の話だ。すでに公開31日目にして100億円を突破したというし(シネマトゥデイ)、そもそもジブリ作品の多くは前評判での不安をくつがえして成功をおさめることが多い。「この『おもひでぽろぽろ』以来、ジブリ作品の試写がスタートすると、『今回はヤバいんじゃないか』との不協和音が聞こえるようになった気がします」(斉藤守彦『宮崎アニメは、なぜ当たる』p.59)。

 ここでぼくがのべてきたのはそうした興行的な成績とは別の話である。もしぼくが子どもを持たないとき、あるいは小中学生のときにみたら、「面白くない」と感じたのではないかと思うのだ。「解釈」にも「母子」にも「家族的ななつかしさ」にも関心が持てない人は、楽しめないかもしれない、ということだ。ぼくは楽しんだのだが、どの階層、どの立場の人にもおすすめできるかといったら自信がない。 





2008.8.18感想記(19日補足)
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