蓮池透『拉致』



 拉致被害者の兄であり、かつて「家族会」の事務局長を務めた人物の、驚くべき、というか貴重な手記である。たんなる回想やエッセイではなく、完全にゆきづまりを見せている拉致問題、日朝交渉について、被害者家族の視点からみての問題点の剔出になっているのだ。
 100ページほどの短いパンフレットであるが、拉致問題の解決を考える人であれば一読して、これにどう応えるべきかを真剣に考える必要があるものだと思う。

 サブタイトルの〈左右の垣根を越えた闘いへ〉というのは、「右派も左派も共同してやりましょうね」といったような一般的なスローガンではない。蓮池の主張には右派が陥りがちな議論への批判が入っており、同時に左派が陥りがちな論点に対する批判をも込めている。そのことをただの議論ではなく、運動の体験にもとづいて書いているところに、本書の貴重さの基軸がある。

 右派が陥りがちな点としては、拉致被害者の救出の運動を次第に北朝鮮の体制打倒につなげたりすることである。本書の冒頭に出てくる蓮池が運動に参加していたときの違和感(「『朝日新聞』出て来い!」と叫んだり、サングラスの男たちがデモの最後にいたりするような光景)はここにつながっている。
 あるいは、甚だしきにいたっては、拉致被害者の救出は実質はどうでもよくて威勢のいいスローガンに隠れて実際には国交正常化をさせないために問題の解決を延々と先延ばしするような傾向であろう。

 他方で、左派が陥りがちな傾向としては、拉致問題というのを単なる国交正常化の障害物のようにだけ見なして、手っ取り早くさっさと終わらせてしまおうとすることであろう。

 この「永遠の争議化」と「手っ取り早い解決」の両極は、「拉致問題の解決とは何か」ということをどう具体的に設定するかという焦点をめぐって現われる左右の偏向である。
 この手記は2002年の小泉訪朝からやや時系列的に書いている。しかしそれは単なる回想や記録のためではない。この経過を叙述するなかで、日本側(政府も被害者家族の団体もふくめて)の対応のどこにまずさがあったのかをえぐり出していくためだ。そのなかで、この両極のブレを蓮池は味わうことになる。

 はじめは、左派ではないが日本政府の態度が、この「手っ取り早い解決」だったのではないか、ということへの蓮池の不信感である。

 蓮池は「拉致問題の軽視が交渉の停滞を生み出している」と書いている。こう書くと、「拉致問題の進展がないなら、一切他の交渉はしない」といっている人たちの主張に似ているようだが、そうではない。国交正常化を焦るあまりに、拉致問題を単なるその障害のようにみなし、非常に簡単な「解決」の手続きしか定めなかった、そのために、日本の国民の中で拉致に対する激しい批判の世論がわき起こった時に、対応不能に陥ってしまったのだと考えているのだ。
 日朝平壌宣言では拉致問題について、具体的な問題名をあげることなく、その手続きを再発防止に限って非常に簡潔にしか書いていない。拉致問題を真剣に重視しているのであれば、どうすれば解決にいたるのかというかなり詰めた作業が事前に必要だったのではないか、というのが蓮池の見解である(ちなみに蓮池は平壌宣言に不満をもってはいるが、現時点ではこれを破棄したり無意味な文書とみなすのは適切ではなく、それにそって解決をしていく道を提案している)。

 ここからはぼくの意見。
 北朝鮮側からすると、「5人生存、8人死亡」、5人の一時帰国、正常化のあとの自由な行き来、ということで拉致問題は「解決」となるはずであった。そして日本側もそれでいいということで平壌宣言を飲み、拉致の事実を認めたわけである。外交交渉上は、北朝鮮側は金正日自身の口から拉致を認めるというかなり大きな譲歩を引き出したことになる。北朝鮮から見ると、その意図がどれほど「邪悪」であったとしても、かなりの譲歩をして正常化への道を決断したということである。ところが、北朝鮮側から事態をみると、日本側はその譲歩の後に、「一時帰国ではない」「5人生存、8人死亡では終わらない」と言い出し、次々と約束を反古にしていく過程であった。外交上の道理だけからすると、かなり乱暴な話である。

 ここから再び蓮池の言い分にもどるが、〈拉致問題をめぐる日朝間の四回の政治決着は、ことごとく失敗に終わりました。いずれの決着も、拉致被害者の人権をかえりみないものであり、家族には受け入れがたいものでしたが、結局、すべて日本側が裏切る形で終わったのです。それ以来、北朝鮮側は日本側を相手にせず、両者の間は膠着状態となり、何の新しい情報も得られないまま長い歳月が経過してしまいました〉(p.44)。

 つまり、本当に拉致被害者の救出について真剣の検討があるなら、そこまでの道筋をかなり精緻なものとしてつめておく必要があったし、今後も同じようなことがいえる、ということなのである。
 もし左派の側が、拉致問題の解決について、そしてその背後にある世論について、いさかかでも軽視するところがあるなら、また同じような誤りをくり返して交渉の停滞を招くであろうし、そもそも打開の道など開けない、ということを蓮池は伝えたいのではないかと思う。

 特に左派の中には拉致問題で批判的に沸騰する国民世論にたいして「世論操作」だとみるむきがある。たしかに不必要に煽られている側面はあって、それが後から述べる右翼的偏向に道を開いていることは間違いないのだが、だからといって、拉致問題の解決を願う世論が本当は小さいものだと断ずることはまったく世論を見誤ることになる。

 他方で右派の側が陥りやすい誤りとはなにか。
 現時点ではこちらの側への傾斜が運動を硬直したものにしているといえるし、実践的にはこの克服が急務だといえそうなのだ。

 すでにこのサイトでものべたし、アメリカからも指摘されていることだが、「拉致問題の解決とは何か」ということの明確化である。

 拉致問題の「解決」の終点をいったん外交交渉のなかで定めたものの、それが国内世論との関係で破綻した状態にある。そして、解決とは何かが見えない状態にある、というのが現状なのだ。しかも北朝鮮との関係でいっても、いったんこういう形での決着の方向をとりましょう、といった約束を次々と反古にしていっており、外交交渉としても行き詰まりをみせてしまっている。
 政府が認定しただけでも12人の拉致被害者がいる。それ以外にも北朝鮮がらみではないかと疑われている失踪者がたくさんいるし、その背後には莫大な数の行方不明者がいて、どれだけになるかわからない、という状況にあるのだ。

 逆の立場で眺めてみればよいと思うが、たとえば強制連行の被害者を特定し、その補償の範囲を交渉で定めて合意したとしよう。それがくつがえって次々その範囲を広げられまったく終わりが見えないようなものである。

 拉致被害者にしても植民地支配の問題にしても、本当にどれだけいるかわからないんだからしょうがないだろう、というのはまことに正論である。
 そこで、やはり出てくるのは「段階論」にしてはどうか、という提案だ。そうしないと交渉が膠着して前に進まないからである。

 蓮池は段階論を主張する。

〈何をもって解決というのか、きちんと政府が見解を出さないといけないと思うのです。もうその時期になっていると思います。/私は段階的にやらなければならないという立場です。あえて言わせていただければ、北朝鮮に拉致されたと政府に認定されている人たちの問題と、それ以外の人たちというのは、言葉が適切かどうかわかりませんが、少し性格が違うと思います。/まず、拉致されたと政府が認定している人の問題を解決するというのが、当然のことだと思います。そうして、その次の段階に進むべきです〉(p.39〜40)

 本書の第二章では、経済制裁一辺倒の現在の路線を見直し、日本政府が北朝鮮外交について戦略をもて、と主張して、具体的に〈植民地支配の謝罪と補償を具体化すべきだ〉〈行動対行動の原則で交渉を〉〈調査委員会を動かすべきだ〉という提案をしている。その具体的な主張については読んでもらったほうがいいだろう。

 この章では、植民地支配への謝罪と補償を、あえてこういういい方をさせてもらえれば、外交交渉の積極的なカードとしてとらえていることが白眉である。
 植民地支配への謝罪と補償の問題は、単なる北朝鮮側への譲歩、土下座外交のようにしか思われていない。しかし、それを積極的におこない、内外にアピールすることは、むしろ北朝鮮側を包囲して動かしていくうえでも道義的優位を確立するというわけだ。
 この問題をここまでプラグマティックに扱ってしまうことには、左右どちらの側にもためらいがあろう。しかし、外交が冷徹な理性で戦略を計算せねばならぬとしたら、ここまでふみこむことも一つの選択肢に十分なりうるのだ。


 そして最後の第三章では日本の運動をどうするかというテーマをたてているが、そのなかでも憲法問題での見解の相違を脇におけ、ということを提案している。
 また、北朝鮮の体制打倒を運動の一致点にするな、ということも注文をつけている。

 これは主に右派側にむけられたテーマであるといえる。

 ここはぼくが思っていることだが、9条を改定しろという主張や、北朝鮮の体制打倒の主張をからめると、拉致被害者救出という国民運動にならない。そればかりではなく、へたをすると、事態が硬直すればするほど心の底では小躍りする人たちがいて、「永遠の争議化」をされてしまう危険性がある。
 そうならないために、蓮池はこのように主張しているのだろう。

 こうした排外的なナショナリズムがくっついてしまうと、拉致被害者救出というきわめて明瞭で実践的な解決目的がくもってしまう、と蓮池は危惧するのだ。

〈国内世論と北朝鮮の両方から信用を失った政府にとって、拉致問題を動かすというのは至難の業です。これを無理やり動かそうとすれば、園政治家や官僚は四方八方から滅多切りにされて、血まみれになります。文字通り、命がけで取り組まなければなりません。拉致問題は、いま、そこまで来てます〉(p.51)という蓮池の言葉は、きわめて重い。経済制裁の強化だけをお題目的にとなえる強硬路線では何も開けないし、具体策のない「包括的解決」でも展望は開けない。本当にこれくらいの覚悟がないとできない課題なのかもしれない。





蓮池透『拉致 左右の垣根を越えた闘いへ』
かもがわ出版
2009.6.4感想記
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