吉野朔実『恋愛的瞬間』



 「オトコとオンナの間に友情は成立すーるか?」

 なんてベタな……。って、これ、吉野朔実の作品のテーマじゃありませんから。
 これは、ぼくの女友だちが、ぼくと旅館に泊まったさいに、夜中に言ったこと。って、ぼくだけじゃなくてグループで泊まったわけですから。

 この人には、「相談に乗っているうちに、上に乗ってしまう」などというシチュエーションが不思議で仕方がないわけだ。彼女にとって、世界は、友情と恋愛にはっきりと分裂している

 彼女には、この『恋愛的瞬間』に登場する心理学者・森依四月が、主人公・ハルタたちに「友情と恋愛の違いはなんでしょう」と聞かれたときの、次のやりとりをぜひかみしめてほしい。

森依「…恋愛は あらゆる抵抗に打ち勝つ相思相愛の力。友情は 相思相愛でありながら 抵抗によって達成できない疑似恋愛関係
ハルタ「抵抗?」
森依「同性であるとか 既婚者であるとか 恋人がいるとか 顔は好みだが性格が気に入らない 性格はいいが肉体的には受けつけない等々 逆をいえば抵抗があるにもかかわらず気持ちのベクトルが向き合っている人間関係と言ってもいい」
ハルタ「友情は恋愛の一部ですか?」
森依「そうではないものを私は友情とは呼ばない」
ハルタ「じゃあ抵抗を克服すれば」
森依「恋愛になる可能性は極めて高いと言える」

 この森依の言葉は橋本治の「友情はセックスのない恋愛である」を思い出す。この話のなかで、ハルタ(男)は、高校時代の旧友・司(男)に久々に会う。高校時代、共通の友人がつくった彼女が「すげーブス」だったことを男の友人たちみんなで笑い者にするのだが、「どんなブスでも頼みこんだらヤるか」という話になり、ハルタは「やんねーよ」と答えてしまう。それは会話のノリからいって、「やる」と言うべき場面だったのだが。
 ハルタも司もその後よくつるんだのだが、爾来、女の話はおたがいにしなくなった。

 ハルタのモノローグ。

「たぶん
 俺達はずっと
 お互いに一番だった

 いっしょに遊んで
 一番楽しい相手だった

 あの瞬間
 女の子が間に入った時
 俺達はお互いが
 一番じゃなくなることを知ったんだ

 だから
 “女の子はいないことにしよう”

 あれはそういう約束だった」

 友情と恋愛の、不毛な絶対的・固定的対立の把握を排して、友情と恋愛の相互転化の可能性を見事に表現した一話だと思う。
 ぼくにも、抵抗によって恋愛に転化しない友情は、同性間に存在している。


 ぼくは以前、吉野朔実について、

吉野は、短編集『いたいけな瞳』(全8巻)で大きく変貌した。
若い女性がよくやっている、ひとりよがりの感情の吐露から脱皮して、心情とか記憶とか意識とかいったものをいったん突き放してとらえ、それをまた自分のものにしていくという作業をするようになった。『ぼくだけが知っている』『恋愛的瞬間』はそうした作業が生み出した良質の作品群である。

書いた

 恋愛という感情を、完全な客観物として、あるいは対象物として、目の前にごろりと転がしている。それが高じて、ついに吉野は『恋愛的瞬間』においては、その対象物に学問や科学の解剖のメスを入れることまではじめてしまった。いわば、この「心情や意識や精神を『突き放す』」という吉野的態度の真骨頂、あるいは究極の成熟の形が、『恋愛的瞬間』なのである。

 事実、森依という心理学者を中心におき、どのエピソードも、恋愛という感情がおりなす複雑で、相互に矛盾しあう、そしてそれゆえに豊かな姿態をとりあげているものばかりである。
 任意の巻である2巻をみてみても、吉野がとりあげる、倒錯し、矛盾し、錯綜する恋愛的感情の「豊かさ」はどうであろうか。

 「第5話 不幸の発明」では、精神的にのみレズビアンであるがゆえに、好きになった女を肉体的に受け入れず、かわりに彼女の相方に手を出して欲望を満足させるという女性が登場する。
 「第6話 恋をしたことがない」では、「恋をしたことがない」という25才の女性の、社会年齢、精神年齢、肉体年齢の分離を導入にしつつ、世の中の多くの人は実は恋愛をしていない、という事実をつきつける。
 「第7話 螺旋の中に住む」では、子どもの頃に誘拐された美少女が、大人になってもその誘拐犯との逃亡の時代が忘れられず、その楽しさを口にできないでいるという話が登場する。

 恋愛という感情を科学、あるいは学問の対象にできないだろうか、ということは、科学・学問の側のもつ欲望であって、このような欲望が、創作の側、すなわち小説や漫画の側から提出されたことは、管見にして知らない。
 ところが、吉野はそれをやってのけた。
 そして、これほどミもフタもない解説で全編を覆いながら、漫画作品として大成功をしてしまっているのである。

 驚くにはあたらない。

  人間の意識、精神こそ、弁証法の宝庫であり、矛盾と倒錯に満ちた、豊かなものだ。だからこそ、古来多くの人々は小説や韻文の形でその豊かさを表現してきた。散文的精神がはじめはそれにおいつくことができなかったのである。
 だが、近代以降、心理学、精神分析、精神医学、あるいはヘーゲルの弁証法にいたるまで、散文精神はこの豊かさの秘密を暴きはじめ、あるいは記述できるようになり、たちまちのうちに小説のような創作を――ある意味で――凌駕してしまった。いまでも、みじめな小説や漫画のなかには、心理学の命題を貧しくしたようなものを貼付けているだけのようなものが見受けられる。
 だから、恋愛感情を科学する、あるいは学問する、ということは、現代では、当然、小説や創作の側から出されてよい欲望や欲求なはずなのである。多くの人々が、「創作は、学問や科学の下女ではない」「創作は学問的命題を解説するものではない」という古臭いテーゼにいまだにこだわっているから、このタブーを破れなかったのだ。

 やってみたらどうだ。吉野という才能の手にかかってみれば、見事な作品になったではないか。むろん、いつもどの作品もそうしろという気はないけど、そういうタブーにひっかかっていると、いい作品はできませんぜ。


全5巻 集英社マーガレットコミックス
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