伊田広行『「まだ結婚しないの?」に答える理論武装』




 職場でぼくより同年代(少しだけ上)だが結婚していない女性がいる。その女性が今度結婚することになったのだが、彼女が読んでいてぼくに貸してくれたのがこの本だった。

 現象だけみると、結婚するから不要になった、というふうに見えるのだが、さにあらず。もともとこれを読んでいたのは婚約をしていたときだったし。




まさに「理論武装」——驚異のクソ丁寧さで反論準備



「まだ結婚しないの?」に答える理論武装 (光文社新書)  この本は文字通り「理論武装」——「まだ結婚しないの?」という圧力的な質問にたいしての「反論」集である。たとえば「結婚してこそ、やっと大人の人間として信頼されるんだよ」という言い分にたいして、この言い分をどうみるべきか、どう反論するか3ページほど検討を加えた後、「結婚していなくても、ちゃんと社会人として生きている人がいます。結婚していても、自立していない人がいます。でしょう?」「結婚しているバカもいますよ。結婚していれば“信頼”できるなんて、そんな“信頼”ってなんですか?」などと「言い返し」集を6つも載せる。
 ごていねいにも項目のラストに「3秒で反撃」というスポットまで載せている。「結婚することと大人になることの間には、まったく関連性がありません」。

 なんと36項目にもわたる「まだ結婚しないの?」系の質問の変奏と、それにたいする反論がこの調子で書かれているのである。その徹底ぶりにだれしも驚くであろう。




しかし反論集ではなく底にある思想こそが重要



 同僚がこれを良書だと思ったのは、そうした圧迫質問に悩まされて、その絶好の反撃の材料を得たから……というわけでは必ずしもない(いや実際は悩まされていたらしいのだが、別に彼女はこの本でその反撃をしようと思っていた訳ではないのだ)。彼女がこの本を評価するのは、むしろ序章と全体に通底する著者の思想である。
 その思想の根幹は、結婚というものが(必ず)幸福をもたらす、あるいは幸福にとっての前進であるとする観念を批判することにあるが、さらにそれをつきつめていくと、カップル単位の発想を解体し、シングル単位の発想に変えるというところにある。
 あー……それだと、少し難しい言い方になるかな。本書の別の言葉を使えば「恋愛を相対化すれば楽になる」ということだ。

 恋愛を相対化する、ということは、先日ぼくがとりあげた香山リカの『しがみつかない生き方』の冒頭章にも出てくるテーマでもある。しかし香山リカのそれが「相対化してね」というだけなのに対して、本書は発想としてどのように相対化するのかをしつこく、そしてくわしく追っている。
 同僚が我が意を得たりと思ったのは、恋愛も結婚もそんなに大したことではないんだ、もっと軽く考えていいんだ、ということだったらしい。彼女自身は結婚するのだからそういう人が結婚や恋愛を相対化してラクになったというのは、人生における結婚というものの「位置」が彼女のなかで定まったということなのだろう、とぼくは勝手に解釈した。




だがこの思想はただの「押しつけないで」ではない



 ぼくはこの本を読んで、一番「違和感」をもったのは、実はこの思想そのものである。
 個々の反論についてはうなずけるものが多い。後で挙げる1、2のものを除いては、「結婚するのは人として自然(ふつう)のことだよ」「まわりだってみんな結婚して幸せになってるでしょ?」など質問する側の方に無神経さを覚えるものばかりだ。つーか、「はあ? そんなわけねーだろ」でおしまいなのだが。コミュニケーションの円滑かさを考えても「そうですかね。そうじゃない人も結構いますけど」くらいだ。
 で、思想そのものに「違和感」を持った、というのは、言葉の通りにとってほしいのだが、「反対した」ということのソフトな表現ではなく、正しいか間違っているかまだ最終的な判定はつかないけど何かひっかかりを感じた、という意味である。

〈セックスは愛情や人格と結びついていないとダメだという観念が根強くあるのです。/そして、このような恋愛の「上がり」は結婚。結婚に至る恋愛は成功した恋愛であり、すばらしいものだと考えられています。/愛と恋愛と結婚とセックスと人格の五者は、いまだに一体のものとして多数派にはとらえられています〉(p.21)

〈そもそも、誰かが誰かが「愛する、恋愛する、結婚する」というとき、それが「ひとりだけを愛する」「二者に閉じている」とはどういうことなのでしょうか。/つまり、「パートナー以外の人を好きになったり、パートナー以外の人とセックスしたいりしてはいけない」というような「私たちは一体・運命共同体、特別の対関係(恋人、夫婦)という単位的考えは、なにを無意識のうちに前提とし、なにをもたらすのでしょうか〉(p.21〜22)

 後者の引用にたいして、それは支配や所有や拘束を招くおそれがあるというのが伊田の見解だ。

 単に「結婚せよということを他人に押しつけるな」というだけなら、これはある意味で「常識的な本」であるということができる。もちろん古い世代にはこのあたり抗いがたいものがあるし、依然無遠慮な押しつけは多数派なわけだが、新しい世代のなかでは公然とこのように言うことはそろそろやりにくくなってきているといわねばならない(もちろんそうでない現実が無数にあるので、ひとは多く傷つくし、ぼく自身もどこかで知らずにやっている可能性がある)。

 しかし、二者に閉じた恋愛を批判するというところまでくると、これは(いい悪いは別として)革命的な内容だといえる。おそらく多くの人が違和感や拒絶反応を示すに違いない。
 簡単な話、「不倫」「姦通」という概念は解体される。ついでにいえば、伊田は売春をセックスワークとしてふさわしい社会的地位を与えることをめざしているから、エンゲルスが現代の一夫一婦制を批判する時に「付随」すると言った、「姦通」と「買売春」はどちらも正当化されることになる。




「不倫」や「売春」をあなたは認められるか



 マルクス主義のなかで、ある種のグループは、「真の一夫一婦制」をめざす。すなわち財産目当てや経済的打算ではない、真実の恋愛によって結ばれ、感情の絆がなくなれば自由に離婚できるという婚姻の形態である。その見地から不倫や買売春は批判される。エンゲルスは財産から解放されたプロレタリア家族ではこの真の一夫一婦制が萌芽するし、経済的解放がなしとげられた社会ではそれが実現するだろうと見ていた。
 ぼくはこの見地に立っている。
 ただ、そこには大いに迷いがある(それについては後でのべる)。

 上記の見地もふくめ、古典的な立場からは、「二者に閉じた恋愛をやめたら、いまの社会のもとでは不誠実なセックスや、妊娠や育児への無責任が生まれるだけだ」という批判がなされるだろう。しかしおそらく伊田は「複数の相手と関係をもったからといってそれは不誠実ではなくなるのです」「子どもへの責任を親として果たすということはまったく別の問題です」と返すのだろう(いやそんなふうにいうかどうか知りませんけどね)。

 これはこれで筋が通っている。
 たとえば現在の日本では、夫婦になったあと、もしパートナーが性的に嫌いになったら、あるいは自分の性欲と相手の性欲がつりあわなかったら、あるいはもっとストレートにパートナーは家族として大切だと思うが他に好きな人(恋愛対象もしくはセックスしたい人)ができたらどうするか、という問題に、現在の一夫一婦制はうまい回答を出していない。
 これに対する一つの答えは、「がまんする」「パートナーとの関係を再構築する」というものだろう。「赤旗」の投書欄なんかみているとこういう悩みが出されたときの、読者の他の回答の多くはこれである。
 別の答えは、離婚する、というものだ。しかし、多くは経済的なリスクと育児への影響を考えてこの選択をとれない。まさにエンゲルスのいう「経済的打算」で一夫一婦制がつづき、「姦通」(不倫・浮気)か「売春」(フーゾク)かで補われる他なくなるのである。

 そうでない回答は二つある。

 一つは、伊田のいうように、二者に閉じた関係をやめることである。これはよく前衛的な家族として漫画や小説にも描かれる。たとえば山本文緒の小説でもあり、海埜ゆうこがコミカライズした『紙婚式』はその一つである。お互いを拘束しないカップルにしようと約束し、お互いの性関係を気にもとめないという関係が描かれる。あるいは田辺聖子の小説で、鴨居まさねが漫画化した『よかった、会えて』では、若い女性と「年増」の女性に二股をする関係が描かれ、後者と「気軽に」前者との関係を話す様子が描かれる。ただこうした作品の多くは、そうした関係が実体としては空虚であったり、虚構であったりするのだが。

 もう一つは、二者に閉じるという倫理観は維持しつつ、恋愛感情がなくなったらカップルを自由に解消する、というものだ。育児は社会がサポートするのでシングルになってもさして不利はない。ゆるい一夫一婦制、すなわち過去の「対遇婚」(日本の縄文時代がそうであったといわれる)だ。北欧のような社会がすでにこうした段階にあるといわれる。ある意味でエンゲルスが想定した社会はこれである。

 二者に閉じた関係、端的にいえばパートナーが自分以外と関係をもったら嫉妬や不誠実を感じるという関係は、ぼくの予想ではなかなかなくなりそうもない。一足飛びにその観念に移動せよ、と説く伊田の流儀はぼくからいわせればあまりに飛躍している。
 小説などの創作物の多くが、「自由な性愛関係」を空しいものとして描くのは根拠のないことではあるまい。
 おそらく、社会保障が発達すれば、今挙げた後者のような「対遇婚」へと社会は移行していけるだろう。そのさい、二者を前提とした関係や倫理感情は当分残るはずである。
 しかし、「対遇婚」のような自由さ、社会保障の安心感がでて、シングル単位の発想が基本になれば、おそらく「二股」とか「独占」のような感情、すなわち二者に閉じた関係は相対化されていくのではないかと思う。

 だから、伊田の「シングル単位」発想は悪くはないのだが、いきなり二者に閉じた関係を批判するというのは、ぼくから言わせると「気が早い」ということになるのだ。

 もう一つの「売春の正当化」問題はあるのだが、これは本書の主題ではないし、今回は触れる余裕がない。

 それにしても、北欧のような社会保障整備がない日本の現状では「パートナー以外の異性を好きになった」「パートナーとの性的なズレを感じる」という場合はどうすればいいのかは依然として課題のままである。これを愛知で講演した時に問題提起したのだが、あまりめぼしい反応がなかった。他の人、とりわけ左翼の意見を聞いてみたいものである。




老後が淋しくなるという問題



 さて本書で他に感じたことを1、2。

 「結婚しないと老後は淋しいよ」批判については「孤独は自由の裏返しである」「淋しさに向き合う技術を覚えればよい」というのが本書の反論だった。
 なるほどそうかもしれないとは思う。
 とりわけぼくは、子育てが始まってから「拘束感」が異様に高まった。子どもがいることの「かけがえのなさ」は、しかし圧倒的に自由で、自分だけに責任をもてばいいというだけの自由さを捨ててしまったのだとしみじみ思う。つれあいと二人だけだったときは、こうした拘束感はほとんど抱かなかったから、結婚生活のなかでも画期はやはり出産であり、子どもというものは長きにわたり(少なくとも十数年)自由を失わしめるものなのだと実感している。もちろんそれは自分の人生における「犠牲」だとは単純に思わないが。
 しかし、それでも老後をたった一人で過ごすということがどれほど淋しいものであるかはまったく未知数である。伊田自身も別に本人が老後を体験しているわけではない。「淋しさに向き合う技術を覚えればよい」というだけですんなりといかない自分がいることは確かなのだ。それを人に押しつけようとは思わないが、自分の観念のなかでは依然ぬぐい去りがたいものとして存在する。




「非モテは人間的価値が低い」を自己検証する



 あと、「恋愛(結婚)できない人間は価値が低い」というテーゼは長い間ぼくをとらえている。

 本書ではこの考えを厳しく批判している。とくに「独身の人にはどこかに欠陥があるよ」という形でわざわざ1項目とっている。3秒反撃では「魅力的な独身の方もいます。未婚者でも既婚者でも、タイプはいろいろです」というものだった。
 このことを冒頭の同僚に話した(自分の中にそういう観念がある、と吐露した)とき、同僚は岡部伊都子の例を出し、「結婚しない魅力的な女性もいるじゃないか」と反論したのである。
 
 たしかにそうなのだ。
 では、何が自分のひっかかりになっているのだろうか。

 ぼくが結婚をすると親に話したときに、父親が「女にもモテんやつはダメだからな」とサラリと言ったことがある。それがずいぶん自分の心をとらえてしまっている。もともと思っていたことを引きずり出された感じで。もし親父がぼくが結婚しないでいたら、たぶんこうは言わなかっただろう。「河」を渡ってきたので安心してこういうホンネを言ったにちがいない。だから、他人に押しつけるかどうかの問題としてではなく、自分の中に巣食っている観念の問題として考えたいのだ。

 この観念をいろいろ検討してみたが、ぼく自身は、他人にそれを押しつけないというばかりでなく、確かに伊田や同僚の言うように、「結婚しない人、女性とつきあっていない人でもすばらしい人はたくさんいる」ということは自分の真情としてある。ただのタテマエではなく。
 では何がこの違和感を生ぜしめているのか。

 自己検討して思い当たったことは、自分自身のことだった。
 ぼくは自分の恋愛を「自分の価値に気づいて欲される」というパターンで思い描き続けてきた。だから、中高生時代の「モテなかった」ときは「おれの価値に気づかぬ女ども」というようなイメージがあったのだ。
 大学時代に今のつれあいと出会ったときも、ぼくの観念のなかには「ぼくの価値を理解してくれる存在」としてつれあいを認識したのではないかと思う。その後、つれあいとのさまざまな関係性が構築されるにつれて、そのような単純なものでは言い表せない「かけがえのなさ」に代わっていったので、もはや「ぼくの価値を理解してくれる存在」であるかどうかはどうでもよくなっていったのだが。
 つまり、自分自身の体験を不当に普遍化しているのだろうと思った。理屈ではそれを普遍化してはいけないことはわかるのだが、ついつい思考的な怠惰が襲う時に、それを他人にも当てはめてしまうのだ。
 ちょうど貧困に陥った人に対して、理論上は相手と自分の「溜め」(生きていくうえでの自分をサポートしてくれる無数の条件)の違いを考えないといけないとわかっているのだが、思想的怠惰に陥ると、単純に自分と相手を同じようなものと考えてしまい、どうしてもっと努力しないのかとイラッときてしまうのと同じようなものなのだ。

 本書の価値は、書いてある反論をそのまま言うかどうかということよりも、そこにある記述を一つのきっかけとしながら、自分の観念を解体し相対化していく作業をすることなのではないかと思う。ちょうどぼくが「非モテは人間的価値が低い」という観念を自己検討する作業をしたように。





光文社新書
2009.10.8感想記
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