オノ・ナツメ『リストランテ・パラディーゾ』



 自分でもかなり図々しいと思うのだが、ぼくは自分の美化した自画像を心に描くとき、かなりゆるやかに「アッパークラス」にまで、駆けのぼっていける。つまり、自分とは似ても似つかぬハンサムな美男子を「自分」だと見立てて、酔うことができる。

 少女漫画の主人公は「ダメでドジでかわいくない私」であることが多いけども、なかなかどうして、たいていの少女漫画の主人公はなんともかわいらしく描けているではないか。先に扱った、椎名軽穂『CRAZY FOR YOU』なんかはまさにこれで、いやーこの主人公、かわいすぎるだろ!と思ったものだった。

 しかし、ぼくの場合、ひとのことは、まったく笑えないわけである。

 ●卑屈なていねいさ → 「物腰やわらか」
 ●メガネ → 「知性的」
 ●臆病 → 「おだやか」
 ●優柔不断 → 「優しい」

 結婚式スピーチの言い換えかと思うほど図々しい変身のさせ方であるが、自分の特徴と短所を、このように転倒させて美化させることが、ぼくの頭の中ではできるのだ。

 そうするとどうなるか。

 本作に出てくる「クラウディオ」(下図1、2参照)は、まあ、ぼくも少しいじればこれくらいになるかな、と自分を重ねあわせることが出来てしまうのである。自分でも思うが、便利だなあ
 リアルぼくを知っていて、なおかつ、クラウディオのファンの人、ごめんなさい。

リストランテ・パラディーゾ この漫画は、イタリアを舞台にした話で、主人公の若い女性・ニコレッタが、長く離れて暮らしていた母親の恋人が経営するレストランを訪問するところから始まる。従業員全員がメガネ(老眼鏡)で初老(せいぜい中年)の紳士なのだ。
 いわば、メガネ男子萌え+執事萌えのようなもので、どちらかといえば、この漫画世界は、ある種の若い女性の欲望を具現化した世界である。

 すなわち、ニコレッタは、「仕事見つけなきゃ 何もしない訳にはいかない…」と悩む無職のひとである。そして「家にこもってたって出会いはない… いい男と出会って恋をしたい…のよ」と願っている女性である。
 そしてニコレッタは、弁護士をしてお金がある、かつカッコのいい母親によってアパートを確保してもらい、「滞在中は全て面倒見てあげるからね」という具合に庇護されている。そういう不安のない下支えをしてもらったうえで、レストランで「見習い」として厨房に出入りできるようになるのだ。

 そして、その職場は、みんなやさしくてスリムな「メガネ紳士」たちばかりなのである。

 自分が萌えるタイプの男に囲まれて、生活の不安もなく、料理の「見習い」をしていられる 嗚呼、なんというすばらしい世界。

 それだけではない。つい、気になる紳士であるクラウディオに、ニコレッタは恋心を抱いてしまう。「この紳士 モノにしたい気がする」とニコレッタが思えば、自宅に引き込んで、押し倒すことまでできてしまうのだ。
 これを読んだつれあいが「かわいい若い女なら自分が強姦するのはいいのかよ」とブツブツ言っていたが、この本の世界の中では、いいらしいんだよ。なにしろ「パラディーゾ(天国)」なんだから。

 ロリ萌えを「虚構下で都合のよく支配できる女性が欲しいという願望の具体化ではないか」と説明する野暮に似ているのでこういう話をするのは気がひけるが、初老であるということは、「クールなオトナの男性」であることを意味している。
 ニコレッタへむけられている老紳士たちの優しさは、老人としての慈しみの優しさではない。そのような枯淡の境地とは別のものである。従業員の一人、ヴィートは「若い大学生」と結婚しているし、何よりもクラウディオがニコに押し倒されて「困ります…」と顔をそむけて苦悩する表情は「色っぽい〜」のである。ニコレッタへむけられる「優しさ」の視線は、決して枯れてはいないのだ。

図1:本書p.5
 図1はクラウディオの登場コマであるが、クールすぎるほどの描写であることがわかるだろう。図2はニコレッタが偶然街でクラウディオに会うシーンで、セリフ通り、色っぽさがたしかに漂う。オノ・ナツメの筆はそれをよくとらえている。

 普段はギラつきもせず、オトナの優しさと物腰をもち、しかし性的魅力はその奥底では決して失われない――それがこのレストラン従業員たちなのである。


 とまあ、そんな女性の欲望世界に、いったい男のこのぼくが何を求めるというのか。

 冒頭にものべたように、ぼくはクラウディオを自分であると思うことができる(きょうも出勤のとき駅から職場に歩くまで、横長レンズタイプのメガネをかけて、クラウディオになったつもりで歩いていた)。

図2:本書p.20
 それで、ニコレッタがたまんなくかわいいんだわ。

 舞台はイタリアだが、ニコレッタの言葉遣いから生み出される空気は、とても現代の日本的である。ニコレッタを見ていると、ぼくのすぐ近くにいる日本の女性が、迷ったり笑ったりしているような親近感がある。だいたい従業員どもが「私は伊達老眼鏡だし駄目でしょう!」と言って呵々大笑いするなどというのは、日本のメガネ萌えを意識した戯れ言ではないか!
 つまり、イタリアを舞台にすることで、生々しい日本的空気をすべてデリート、オサレさだけを引き取って、なおかつ日本的な感情や言葉遣いを残すことに成功しているのがこの作品である。
 だから、ぼくにとって、ニコは、「日本の若い女性」を想起させる。いや、作品を読んでいてはじめニコレッタは日本人の娘だと思っていたし、どうもそうではないらしいということがわかって以降も、ぼくはニコレッタを「日本人」だと思って読んでいる。

 最近、虚構の設定としては「ボブ」あるいは長めの「ショート」は、マイブームになっていて、描くイラストがみんなそんなふうになってしまう。「媚び」とは無縁、自然体の快活さ、という女性が想像される。そういえば『ラバーズ7』の添野なつきも、『高校デビュー』の長嶋晴菜も似た髪型だったな。

 つまり、そういう、ぼくが萌えている女性に、言い寄られて困ってしまうなあ、もう、という物語としてこれを読んでいるのである。
 たとえば『高校デビュー』の男性恋人役である小宮山ヨウを「ぼく」の美化像だとは、ぼくは絶対に思えない(ましてや椎名軽穂の男主人公なんてもうアナタ……)。しかし、クラウディオは「自分」だと思うことができるのだ。
 だから、ニコレッタが好意をよせて近づいたり悩んだりしてくれているのを見るたびに、ぼくはうれしくなってしまう。「いやー、ぼくにはつれあいがいるからダメなんですよー」などと。

 母親の誕生パーティーでドレスアップしたニコレッタを、従業員の一人であるヴィートが「キレイですよね クラウディオ」とクラウディオに同意を求め、クラウディオが「ええ」と短く答えるシーンを見ると、そこに描かれたニコレッタはなんときれいなんだろう、としみじみ思ったりしてしまうのである。



 


オノ・ナツメ『リストランテ・パラディーゾ』太田出版
※図1、2の出典は↑
※画像は引用の原則をふまえています
2006.6.22感想記
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