宮部みゆき『理由』


 宮部みゆきは、こわい。
 どうやればひとがこわがるか、よく知っている。

 それはたとえば、『模倣犯』のように、絶対的優位にある加害者が被害者をいたぶる、その一点を、錐でもみこむように集中して描出する、そういった次元でも発揮される。
 あるいは、『火車』のように、この社会のなかでは、自分という「ID」が簡単に消失し、そうした事態は「カード破産」というしかけを通じて、われわれのすぐそばで口をあけて待っているのだ、というそんな次元でも発揮される。

 だが、『理由』を読んで感じる「こわさ」はもっと生理的で、即物的なもの。
 文字どおり、鳥肌がたつ。
 思い出すたびに、そしてこれを書いている今でさえ、「さぶいぼ」ができる始末なのだ。

 とりわけ冒頭。

 どしゃぶりの夜中、高層マンションで若い男の死体が、上階の、ある部屋から落ちてくる、という事件から始まる。(この部屋から男女3人の惨殺体が発見される)
 そこで、ぼくが「こわい」と思ったのは、事件がおきたと思われる部屋の隣人の帰宅時の証言だ。自分の部屋の鍵をあけるとき、となりの部屋のドアが少し――ほんの10センチ――空いている。そこから明かりがもれて、

 かすかに人が横切った影がうつる、のである。

 こわい。

 なぜそれがこわいのかといえば、隣人がこの影をみた時間が、すでに死体が窓の外に投げ捨てられ、救急車の音が遠くからすでに聞こえてきた時間だったからである。
 すでに殺人事件がおきたあとの部屋、という設定が読者に迫ってくる。
 凶行がおこなわれたあとの部屋で、動く人影。
 それはまぎれもなく犯人の人影なのだが、かすかに、しかしはっきりと隣人の目にその動く「影」が焼き付く。犯人そのもの、あるいは犯人とおぼしきものを見たのではなく、ほぼ「犯人」と断定できる人影。にもかかわらずそれは一切具体的な姿をあらわさない人影なのである。

 不審な人影、ということには確かに一般的にこわさがつきまとうが、宮部のうまさは、これをロジック上は、犯人以外の人影ではありえないように読者を追い込みながら、その正体をまったく明らかにしないという不安の中に放置していく、という手法にある。

 同じことは、「エレベーター」にもいえる。
 事件の直後、複数の住人がこのマンションの複数のエレベーターを使うのだが、どの人もまったく一瞬のタイミングで、犯人とは出遭わずにすんだ。そのタイミングもこわいのだが、ぼくがこわかったのは、一人の住民の証言である。

 その住民は、深夜なのにエレベーターがいつまでも1階でとまっているのに苛立つのだ。

 そのエレベーターからは血痕と不審人物のモニタ映像が出てくるのだが、つまり、この住人が見た「いつまでも1階で止まっているエレベーター表示」というのは、明らかに「犯人」のものである。
 ここでもやはり、読者は犯人以外の何者でもないものを、犯人そのものではなく、「エレベーターの表示」によって、つまり得体のしれない、何一つ確認しようのない表徴によって、認識させられるのである。


 
 本作は、宮部の作品にはめずらしく、ある家族の描写をのぞいては、全体が事件の調書ふう、あるいはルポふうの叙述ですすめられる。吉野朔実のところでものべたけど、事実のもつ圧倒的な存在感を伝えるには、情感をこめた文章よりも、むしろ行政が書いたような「事務的叙述」のほうが、ふさわしい。
 心理描写や会話を楽しむ宮部ファンにはどうにも評判の悪い本作であるが、このような叙述スタイルのなかで組み立てられたということは宮部作品のなかでも特筆すべきことであり、それゆえに直木賞に選ばれる「理由」もあったのではないかと愚考する次第である。

(まさしく愚考だな、と誰かが笑っていそうだが)


 と、深夜にこの文章を執筆中、部屋のむこうで「ギシッ」と何かが軋む音。

 くはーっ、死ぬほどびっくりした。





※しかしこの上記の宮部のファンページにでているメールのやりとり。『理由』の中にある矛盾とミスを探し出して、ついに朝日の編集部に謝らせてしまうんだから、ファンの執念とは「こわい」ものである。

朝日文庫
2004.6.29感想記
メニューへ