デフォー 『ロビンソン・クルーソー』

とあるメーリングリストに感想を投稿したので、それを加筆・補正しました。



告白すれば、『ロビンソン・クルーソー』を読んだことはありませんでした。
人のすすめにしたがって読んでみました。

本屋にいって、まず児童書を手にとってみたのです。
まず講談社版。これは完全に子どもむけに意訳されていました。
つぎは新潮文庫版でこれは完訳。
しかし、その大部さにおどろき、そこまで時間がかけられるだろうかと悩みました。

けっきょく、買ったのは福音館文庫。これも児童書なのですが、
「原作の文章を変えて訳したり、重要な部分をはぶいたりはしてありません」
(訳者)というもので、いわば抄訳です。

「なんだあ、それでは味わいは半減だよ」といわれかねないのですが…。


「人喰いの蛮人」を殺すというくだりは、正当防衛の体裁はあるものの、正直、
そのページにきて、やはり違和感をかくせませんでしたが、
『のらくろ』の帝国主義的な部分への違和感と似ていて、
歴史的文献だと割り切って、「それは別のときにあつかう問題」と頭を切り換え、
おもいきって物語に没頭しました。

物語としてたしかにいっこうに古びるところがなく、
ぼくはジムで自転車をこぎながら読んだのですが、
難しい本はこういう苦しい作業をしているときは、
どうにも頭に入らないのに比べ、『ロビンソン』は、夢中で読んでしまいました。
気がつくと、目標分をこぎおわっていた、みたいな。

とくに、島で使う道具や動物についてのやや偏執的な描写がぼくは好きで、
黒田硫黄が意味をはぎとったモノの描写にこだわるのに似て、
「子供心」をくすぐるようなところがあります。
じつは、ぼくも“広大な湿原にまよいこんだ人間が、
どのように採取や農耕をはじめていくか”、という、ちょっとユートピアチックな
小説もどきをずいぶん昔に書いたことがあり、どうやってブドウを獲得したかとか、
肉はどうしたとか、魚は、陸稲は、と、これでもかこれでもかと描写するのは、
たまらない愉悦です。

ちょっと、ぼくの「小説もどき」を開陳すると、こんなふうです。

****** 引用ここから ************

ところが、しばらく暮らしていると、二、三日どころではなく、
長く住み続けられそうなことがわかってきた。

矢作川にそそぐ小川が小屋の近くを流れており、そこには愚鈍な魚がいた。
肺魚の一種のようで、外敵が少ないせいか、あっさり捕まえることができた。
蛋白源を得ることも、さほど難しくはなかったのである。
その気になれば、少し遠出して、湿原の中を通る矢作川で、
大きな魚を釣ることも可能だった。

犬栗だけではなく、家の裏には葛麦(野生の麦)や女郎稗、
水芋、火豆、茸類が豊富にあった。植物栄養にも事欠かなかった。

それだけではない。

骸骨になった小屋の主が遺していったのだろう、
陸稲(おかぼ)の籾が詰まった袋や農具類が小屋の隅にあった。
主は、この土地で耕作を始めようとしていたのだ。
通常、湿原は地味が悪く、耕作には適さない土地が多い。
苦労をして開墾し、土地改良を重ねれば別だが、普通は畑にはならない。
水はけは最悪で、莫大な労力を払って水田にするしかない。
漁撈だけが湿原の生業たりうる。
この主は、全く偶然に、湿原のど真ん中に、このような地味豊かな場所を見つけ、
こっそりと耕作を始めようとしたのだ。
運悪く、誰にも知られることなく息絶えたのだろうが。


****** 引用ここまで ************

こうした描写が長く続きます。
デフォーの念入りさの足下にもおよばないのですが……。
上記の物語は、むろん『ロビンソン』に出会う、はるか前のものです。

訳者によれば、
「この作品の中に、日常生活のこまごました説明や、くわしい数字や、
 いろいろな道具や品物のことが熱心に語られているのは、デフォーが、
 その当時しだいに勢力を得てきた、商人を中心とする市民階級の
 代弁者だったことを示すものです」
ということです。

この本を読むと、当時の人間にとって、航海をするとはどういうことか、
植民地にいってそこで農場を経営するとはどういうことか、
神にどうむきあうか、「野蛮人」をどうみていたか、
みずからが異民族の奴隷になるという状況はどんなふうだったか、
などが、手にとるようにわかります。



じつは、大塚久雄の『国民経済』の冒頭には、つぎのような一文があります。

「このごろ経営者の参考書として、徳川家康を主人公にした小説だとか、
 孫子や呉子の書までがよく読まれるという話である。
 どこまでが真実なのかよくわからぬが、ともかく、それを聞くたびに
 私はそれなら何故あのデフォウの『ロビンソン・クルーソウ漂流記』
 を読まないのかと、しきりに思うのである」

大塚は、かの本にこそ、島を経営体にみたてて事業を広げていく、
まぎれもない近代ブルジョアジーの経営精神があるではないかと述べ、
物語のスジにそって、それがどうたとえられているかを詳細に説明したあと、
「デフォウは……ロビンソンの漂流生活というフィクションをかりて、
 産業革命前夜のイギリス経済界の経営者の理想像を描いてみせた」
と看破します。

エンゲルスも『反デューリング論』のなかで、
くりかえし「ロビンソン」と「フライデー」のたとえを
つかって、論敵を嘲笑しています。

20世紀前半にも、現代の地域通貨につながる通貨・利子論をしめした
シルビオ・ゲゼルがこの物語を利用して、
『ロビンソン・クルーソー物語』を書いています。

この時代のヨーロッパの、しかも経済学の一つの素養だったようです。

ま、とにかく、ひさびさに冒険小説を堪能しました。


『ロビンソン・クルーソー』
福音館書店 ; ISBN: 4834006239
ダニエル・デフォー/坂井晴彦訳
メニューへ