『老子』・『孫子』

 9・11事件のあと、イスラムへの関心がにわかにたかまり、ぼくも手軽な解説書を少しばかり読んだ。
 そういういい加減な知識での印象なんだが、ずいぶんと「人為」あるいは「作為」のにおいがつよいと思った。それはキリスト教なんかにもいえる。
 どういうことかというと、人間をさまざまな基準で律しようというふうに感じるのだ。それはキリスト教が克服したところの戒律であろうが、内面の信仰であろうが、同じことである。「人為」あるいは「作為」といったのは、「どうあらねばならないか」というモノサシから、人間を操作するというふうに感じるのだ。「○○をせよ」「××はだめだ」みたいな窮屈なルールで人間をしばろうとしている印象をうける。ひょっとしてスゲー誤解? それは『韓非子』の感想のところでものべたけど、中学時代のぼくによく似ている、という印象をうける。自分がこの世界の一部でありこの世界がどうできているのか、ということとは全く別に、自分の勝手な内面の基準や道徳やモノサシを世界におしつけていくような「人為」あるいは「作為」のにおいを感じたのだ。(いや、たぶん、キリスト者やイスラム教徒からは反論されるような粗雑な議論だと思うけど)

 これと逆の印象をうけたのが、仏教だった。宇宙・世界の法則をつかんで、それにそった生き方をせよ、というふうに説いている。それは「清水義範と般若心経」のところでもふれた。ぼく自身、べつだん仏教徒というわけでもない。だが、イスラム教やキリスト教とちがって、外側から人間を律する基準を「信仰」と称してもちこむのではなく、世界の観察によってえられた認識にもとづいて生きなさい、というのは、ぼく的にはすごく「しぜん」な気がするわけだ。


●『老子』は「なんもしない」哲学ではない

 この世界観をいっそう徹底しているのが、ぼくは『老子』ではなかろうかと、おもう(もちろん時空間的には両者の直接の連関は絶対にありえないが)。
 じつは、徳間書店の『老子・列子』のなかにある老子の「解題」が、ぼくが直観的におもっていたことをぜんぶ後づけてくれたので、以下はそこからの引用や要約になるのだが(とくにことわりがないかぎり)。
 しばしば『老子』は「無為」の哲学だと思われている。なーんもせんで自然にまかせておるのがいーんだよ。ぼくがイスラムやキリストの教えを「人為」「作為」と表現したから、「じゃあ、その反対は何にもしない『無為』?」っていうふうに、これを読んでいる人の思うかもしれない。
 しかし、そうではない。

●『老子』の弁証法

 『老子』の大もとは、冷徹な自然哲学にある。神=天の意思というものを信じない。古代の中国にあって、天の意思にもとづく祭政一致がとりおこなわれていたが、やがて自然そのものを天の意思から切り離して独自にとらえようとする動きがおきる。「陰陽5行説」(自然現象を陰陽の二つの気と火水木金土の5要素によって説明する)がそれである。これが『老子』の淵源にある。
 それはギリシアの自然哲学に似ている。それがやがてアリストテレスに集大成されていくように、古代のレベルではあるけど、自然というものの徹底した冷静な観察にもとづいた認識にもとづいているのである。
 「(老子にあっては)自然は、不断に生起しては消滅していく非常な物理的自然として、把握されていた。かれは自然を変化においてとらえようとし、宇宙間の事物の変化を通じて、そこに一定の通則を見出す。それは万物の根元、つまりあらゆる現象の背後にひそむ時空を超越した本体と、その運動法則とである。この本体を、かれは『道』と命名する」
 これは、世界は物質であり、そこにはたえず変化し発展するという弁証法的な法則があるという世界観ではないか、と、マルクス主義をかじったものなら誰でもおもうだろう。
 そして、「道」という物質でみたされたこの世界の全体・総体そのもの(の運動法則)は、すべてを包括している。ヘーゲルの絶対理念を思い出す。すべてを包括しているがゆえに、それは規定できないものである。規定すれば、それは「全体」ではなくたちまち「部分」へと転落するからである。
 すべてを包括するものは規定ができないゆえに無である。
 しかし、それは規定できる部分となって、つまり「有」となって、現象する。
 無から有が生じ、そこに変化を見、あるいは対立物の統一を見るというのは、ヘーゲルに似たにおいを感じざるをえない。あるいは般若心経の「色即是空 空即是色」を思い出す。
 「道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。無は天地の始に名づけ、有は万物の母に名づく。故に常に無はもってその妙を観(しめ)さんと欲し、常に有はその徼(きょう)を観さんとホッス。この両者は同出にして名を異にす。同じくこれを玄と謂う。玄のまた玄は、衆妙の門なり」
 「玄」とはすべての色を溶かしこんだ黒色のことで、「衆妙の門」とは森羅万象が現れ出てくるところという意味である。「万物は流転する」というギリシア自然哲学と似たものも感じるだろう。
 そうやって世界をながめたとき、世界にある存在は、固定した一つのスタイルをとりつづけているという不自由なものでもない。またAとBが対立しているからといって、その対立は絶対的なものでもなく、なにかの局面であっという間に相互が前提されていることが暴露され、同一のもとなってしまう。そんなふうに、われわれの常識的で不自由な認識のモノサシをこえて、世界というものははるかに「豊かな」ありようをしている。『老子』にあるたとえをつかってみると次のとおりである。
 「天下みな美の美たるを知る。これ悪なり。みな善の善たるを知る。これ不善なり」
 みんなは美しいものはつねに美しいと考えるが、美は同時に「醜」であることを知らない。また、人はだれしも、善はつねに善だと思っているが、善は同時に悪であることを知らない――という意味である。
 ものごとの一面に固執しない、また、ある瞬間の歴史的な姿にとらわれない――弁証法の真髄がここにある。
 長くなってしまったが、『老子』がなーんにもしない「無為」の哲学ではなく、その根底には自然に対する冷徹な観察があるのだと思う。
 『老子』の「無為」とは、このような自然のありよう、自然の法則を、主観や人為を一切排して、冷徹に観察するという態度をしめしている。
 問題はそこからで、そうやって自然を冷静に観察してえられた認識をもとに、リアルな行動、働きかけをおこなえ、というのが、『老子』の実践論だということはあまり気づかれていないのである。
 たとえば、先ほど引用した、
 「天下みな美の美たるを知る。これ悪なり。みな善の善たるを知る。これ不善なり」
につづいて、『老子』では「ここをもって聖人は、無為の事に処(お)り、不言の教を行う」という実践を説いている。
 「無為とは、手をつかねてなすすべも知らぬ態度を指すのではない。おのれの主体性を放棄して、成り行きに任せる諦念を意味するものでもない。認識を得たことをもって満足し、ひたすら知識のための知識を求める書斎派的姿勢は、由来、中国の思想家には無縁のものである。自然の法則の巨大さへの自覚は、同時に法則運用への意欲にも通ずる。無為――それは、道を認識し、道の働きと一体化することである。換言するなら、法則を把握して、その法則をトコトンまで利用することである」
 ここでは、卑俗な『老子』観が、完膚なきまでに叩きのめされている。

●『老子』の俗流解釈――韓非と荘周

 インターネットでまっさきに検索ででてくる老子にかかわるサイトでは、「道」から非合理主義、神秘主義への流れへと落ち込んでしまっている。それは般若心経を「からっぽの、空の哲学」だと誤解するむきにも似ている。
 ちなみに、この『老子』の「無為」を傍観、行為の放棄という形で俗流化していったのが『荘子』であり、逆に、『老子』の行為者としての側面のみを過剰にとりあげて利用したのが『韓非子』である(たしかに『韓非子』には「解老」「喩老」の章がある)。

 世界そのものが豊かで融通無碍なものであるのに、人間の認識のモノサシのなんと不自由で窮屈で教条的で一本調子のことか。
 日本酒の名前で有名な「上善如水」(じょうぜんみずのごとし)はもともと『老子』の言葉から採ったものである。ぼくは、『老子』の比喩の圧巻はここにあると考える。
「上善は水のごとし。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所に処る。故に道に幾(ちか)し。居るは善く地、心は善く淵、与うるは善く仁、言は善く信、正すは善く治、事は善く能、動くは善く時。夫れだた争わず、故に尤(とが)なし」
 最高の善とは水のごときものをいう。水は万物を助け育てながらも自己を主張せず、だれしも嫌う低き低きへとくだる。だから、「道」に似ているといってよい。水、それは位置する所は、低い。心は、深く静かである。あたえるに、わけへだてがない。言動に、いつわりがない。おさまるべきときには、必ずおさまる。はたらきには無理がない。時に従って、変転流動して窮まることがない。水と同様に、自己を主張せぬものののみが、自在な能力を得るのである。――
 なんか、こう書くと、だまっているやつはエラいみたいなハナシになって、たぶん町人道徳みたいに俗流化されるとそんなふうになっちゃうんだろうけど、そういうことじゃない。
 自然法則にさからった人為や作為をいっさい排除して、自然法則にのっとった、それと一体になった行動をせよ、そのために固定した観念や固定した行動スタイルを捨てよ、とのべているのだ。世界はおそろしく豊かで、常識をこえる奥深さがある。そういうときに、自分の認識や行動も自由自在でこだわりがないようにしないとだめですよ、ということを水の自由さにたとえていっているのだ。

●『老子』のまっすぐな継承者――『孫子』

 この『老子』の思想をほんとうに生かして、透徹した軍事科学を構築したのが、ぼくは『孫子』であると思う。
 「兵は詭道なり」――戦いとは敵をあざむくものである――という認識が、『孫子』の根本にあり、神憑かりだった古代の戦争観や、経験・常識・慣習にとらわれる逆の戦争観を粉砕する。
 そしてぼくがもっとも『老子』に通じると思われるのは、次の一節である。
「夫れ兵の形は水に象(かたど)る。水の行は高きを避けて下(ひく)きに趨(おもむ)く。兵の形は実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝を制す。故に兵に常勢なく、水に常形なし」
 『孫子』のなかで、特異であり、しかしもっとも光彩をはなっているのは「用間篇」、つまりスパイを使うことをのべた章であろうが、そこには敵=外的対象を徹底的に認識することによって、自らの行動を決めるという世界認識が根底にある。
 「武経七書」とよばれる中国の兵法書のうち、ぼくは徳間から出ている抄訳しか読めなかったが、その範囲でエラそうに言わせてもらえば、『呉子』『尉繚子』『六韜』『三略』『司馬法』『李衛公問対』は、どれもマニュアルにすぎない。いわば「人為」「作為」のガラクタが集積されている。それでも人心把握という点ではいまにも通じるものが多少はあるかもしれない。(あの企業戦士むけによく解説されているようなヤツだ)
 しかし、『孫子』はそのなかでずば抜けている。深みがまるでちがう。
 ナポレオンが愛読し、最近出た『現代戦略体系』の全6巻の一冊に『孫子』がくわわったのもむべなるかな、という気がする。
 ちなみに、傭兵の経験をもつ柘植久慶の『実戦 孫子の兵法』は、かなり我田引水で強引だけど、現代の戦争の立場からどんなふうに『孫子』が見えるのかを自在に論じていて、けっこう面白かった。


『孫子』再論へ


奥平卓+大村益夫訳『老子・列子』(徳間書店)
村山孚訳 『孫子・呉子』(徳間書店)
金谷治訳注 『孫子』(岩波文庫)
柘植久慶『実戦 孫子の兵法』(中公文庫)

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