清水義範と般若心経


 電車のなかで声をだして笑ってしまった、とだれかがHPで書いていたけど、ぼくもたぶんにもれず、公衆の前で清水義範を読んでいると、ついこらえきれずに笑ってしまう。

 ぼく的には、『現代語訳「江勢物語」』(角川文庫)におさめられている、「スノー・カントリー」がもっとも笑わせられた一作。
 中学生が宿題で外国の本を一冊訳してくるのを教師が読むという設定で、男子生徒は自分が買ってきたものが川端康成の『雪国』の英訳だとは知らずに、中学生らしい、奇妙な直訳をはじめる、という話。さいごは、ポルノまがいの意味不明な訳にまでなってしまうところが、清水的世界の真骨頂。

 ぼくがあきれるほど感心するのは、投稿なら投稿、映画評なら映画評、電話なら電話、というそれぞれにある独特の文体や話法をあっというまにモノにしてしまい、カリカチュアしてしまうこと。自戒をこめつつ、つねづね、中学生の直訳文というのは不思議な世界だ、とおもっていたが、それをひとつの文学にしてしまうのは、やはり、前人未踏の偉業というほかない。
 ただ、ナンシー関の文章とおなじで、あと数十年もすると、まったく価値がなくなってしまうような文章なんだろうか(つまりその時代の空気や話法がすっかり忘れられてしまうため)とおもうと寂しいかぎり。

 さて、タイトルをつけたのは、その『現代語訳「江勢物語」』の冒頭におさめられている「生臭心経」という作品のことである。

 この作品は、有名なお経の「般若心経」を清水なりに解題したものだが、キャバレーにかよう生臭坊主と、そこのホステスとの会話によってみごとにそれをやってのけてしまっている。

 ぼくの実家では、かならずお盆と正月にこの般若心経をぼくが仏壇の前で朗読(というか読経)し、それを一族が聞くという慣習がある。べつに新興宗教の家ではなく、むかしながらの農家だからだ。ぼくはそこで読む役目を10才くらいのときから帰省するたびにずっとつとめている。
 ぼく自身は、正直いえば無宗教だ。だけど、子どもじみて農家の古い習慣までぶちこわすことはないと、さして反抗もせずにしたがっているのだ。

 般若心経はわりと短いお経で、少し昔は、暗記している子どもも多かった。齋藤孝の『声に出して読みたい日本語』でも同級生が夜のテントで般若心経を暗唱しだし、すっかり怪談になってしまうという話が書いてあったけど、「彼は家で朝晩お経を上げる係になっていて暗誦してしまったらしい。『ぎゃーてー』がとくに不気味で印象に残り、その後、私も般若心経のテープを買って暗誦した」と齋藤はつづけている。

 ぼくは、高校くらいのときから、お経がわりと意味のある文章であることに気づき、「なぜ口語訳で読まないのだろう、せめて音読ではなく訓読みすればいいではないか」とふしぎにおもったことがある。
 父に話したら「お経は意味不明なのがありがたいのだ」と一笑に付されてしまったのだが。

 ぼくがはじめて般若心経の口語訳を読んだのは大学時代で、岩波文庫の中村元訳である。
 このお経の、もっとも本質的な部分であり、いちばん有名な部分、
 色不異空、空不異色。
 色即是空、空是即色。
は、つぎのような訳になっている。
「物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ物質的現象で(あり得るので)ある」
 なんとなく、むずかしそうなことをいっているように聞こえる。
 清水義範の小説も、基本的に、この中村訳の影響を出ていない。

 ぼくも、はじめの「色不異空……」という音読みよりははるかにわかりやすくなったから、なんとなくそういう解釈をしていたのだけど、よく考えると意味不明といえなくもない。
 実体のない物質的現象なんてないだろう。

 このギモンをといてくれたのが、橋本左内『牧師が読む般若心経』(白石書店)だった。
 橋本氏は平和運動などをしているキリスト教の牧師で、マルクス主義にも理解がふかい。
 彼の訳と解説によって、ぼくのギモンは氷解した。
「形あるすべてのものは、形ないすべてのものへと消えて存在しており、
 形ないすべてのものは、形あるすべてのものへと現れて存在します」
 つまり、これは古代の弁証法的な自然観のひとつで、たとえば、植物が種から成長し、やがて木になり、最後には朽ち果てて、土となりながらまたその土壌が別の生命をはぐくむという、姿は、おそらくこのような自然観を形成したにちがいなかろうとおもう。
 人間は、つい、その変化や発展の瞬間を切り取って、そこに固執ししてしまう(たとえば、植物の花がさいている状態だけを植物の姿だと思ってしまうように)のだが、この般若心経は、そうした自然や社会、人間の意識のたえまない変転の全体をとらえろという智慧にみちている。
 「これだ」といって、固定できるような形がないこと、これが「空」という意味なのである。
 カラッポとか、無とか、という意味ではない。

 全編こんな調子で、ぼくにはこの唯物論的な解釈に、ものすごく合点がいった。

 仏教とは、もともとこんなかんじで、なにか超越的な神の力というものをおがんで解決するといったところがないもののような気がする。自然や社会の法則をしって、それにそった生き方をすることで解放されるのだ、という教えだから、ぼくは、極端な話、仏教とは無神論ではないかと思う。


2003年 1月 27日 (月)記

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