高橋しん『最終兵器彼女』


 1982年、まだ時代がバブルさえむかえない日本。
 柴門ふみは『女ともだち』のなかで、こう書いた。

「あなたの心が見えない
 地震がおきればいい
 ソ連が攻めてくればいい
 核が頭上でサクレツすればいい
 なにかがおきればいいのに……」

 主人公は、このモノローグのあと、自分が片思いの相手とともに、空爆から逃げまどうという妄想をふくらませる。
 爆音のなかで、男が、主人公の女にいう。
「今まで言い出せなかったがオレはノリコがずっと好きだった」
 女も告白する。
「あたしもよ」――

 ある極限の状態、生死の切迫した事態、そういうものに自分たちが囲まれたとしたら、虚飾や体面をすべてとりはらうことができ、そのときはじめて、ぼくたちのなかから「純粋なぼくたち」が現れ、なんの衒いも、けれんもない「純粋な意思の疎通」ができるはずだ――ぼくらがそんな妄想にとらわれることはなかっただろうか?
 一再ならずそう妄想したことのあるぼくは、柴門のこの描写をみて、それが普遍的な観念だと知った。

 高橋しん『最終兵器彼女』は、この妄想を妄想として終わらせず、物語として最大限のサイズまで展開してみせた。

 北海道を舞台に、高校生の主人公「ちせ」と、「シュウジ」の他愛もないラブコメからはじまる。そして突然、その日常は「空爆」におそわれ、街全体が最終戦争にまきこまれていく。そして、「ちせ」はその正体不明の敵に壊滅的な打撃をあたえる、ヒト型の「最終兵器」になる。物語は、このラブコメのような日常と、極限の有事が絶え間なく交錯するのだ。

 日常のすぐそばに、「有事」という「切迫した生と死」を隣り合わせにさせる――
 ここでは、「戦争」は、完全にぼくたちの「純粋さ」を紡ぎ出すための小道具にすぎない。
 ナマのラブコメでは、とうていたえきれないような青臭いセリフや設定も、この無根拠な切迫感によって、すべて感動へと高められていく。

「シュウちゃんのこと、
 守りたい。
 ごめんなさい。
 こんな彼女でごめんね。
 ダメな彼女でごめんね」

「あたし、消えてなくなっちゃいたくって……
 ――でも、こんなあたしでも……
 ごめんね、
 恋してるんだ。
 ごめんね。
 生きていたいんだ」

 ぼくらは、現実が現実とは思われないような希薄なリアリティのなかで、コミュニケーション不全の重圧に耐えて生きている。「有事」にかこつけて、純粋の自分を出して、純粋なコミュニケーションをするという「解放」を心の奥底から待ち望んでいるのだ。

 この作品は、「ちせ」が、戦闘の根拠にかんするトラウマをもたないという、典型的な〈戦闘美少女〉の造形であるということをはじめ、物語の随所に「萌え」要素が配置されているおり、「ぬかり」のないヲタむけの作品であるようにも見える。「ちせ」のメンタリティや疑似少女漫画的ドジっ子設定(ただし真の少女漫画とは本質的に異なるのだが)は、「エロゲー」の世界観そのものでもある。
 しかし、この作品がそれに終わらず、「BSマンガ夜話」で紹介されたときも、10代の女性からも高い支持をしめしたのは、「有事」という極限を利用して、「純粋な自分と世界」を抑圧するもろもろを粉砕する解放者のように、この漫画が見えたせいでもあろう。

 だが。

 高橋しんが設定した、この「最終戦争」的有事は、ほんとうに、たんなる「小道具」にすぎないのだろうか?
 冒頭に書いたように、柴門がそのような「小道具」を使ったとき、時代はバブル前だった。そのときは、「戦争」や「絶望」的世界は、リアリティのない妄想だったにちがいない。

 しかし、高橋がもちだした「戦争」は、実はけっして現実とは縁のない妄想ではないように思われる。

 岡崎京子は、地球環境破壊の問題が自分たちにとっていかにリアリティのない話かということを、しつように描いた。セックスさえもなんら自分たちにリアリティを与えてはくれない。空虚きわまるものだ。現実は膜にへだてられた、現実感のない世界でありつづけた。ぼくは、そのことを『リバーズ・エッジ』の感想のところでも書いた。
 しかし、岡崎は、そうしたリアリティのない現実の世界のどこかで、目もくらむような生々しい現実が進行していることを、うすうす勘づいていた。その離人症的な苦しみを、彼女は『リバーズ・エッジ』にした。岡崎が『リバーズ・エッジ』を描いたのは1993年、すでにバブルは崩壊し、これまでの世界が実体のない「泡」であったことが次第に思い知らされはじめた時期だった。岡崎は、バブルの間じゅう、世界のリアリティのなさ、実体のなさに、苦吟していた。〈ぼく〉と〈世界〉、あるいは〈私〉と〈大状況〉をめぐる乖離、もっといえば、〈ぼく〉の話と、〈世界〉の話がぜんぜんむすびつかないという、古くからある対立を、岡崎もかかえつづけていたのである。

 戦争が起きて何千人もの人が殺されている現実、環境が破壊されて人類が存続できなくなるかもしれないという現実。その「現実」と、きょうぼくらが教室でおしゃべりをしている現実、つまり「私をめぐる現実」とは、とても同じリアリティでつながっているとは思えない――岡崎はくり返しこの不信感を表明してきた。日常の教室の喧噪、「死んだテレビタレントの霊がテレビ画面に出ていた」という噂ほどには、オゾン層の破壊はリアリティがないのだ。
 「政治の話したんだけど、友だちがひいちゃってさあ。シーンとなっちゃった」と、若い左翼たちが苦労していることにもつながっている。


 高橋しんは、この対立を、一気にアウフヘーベンしてしまう。
 高橋においては、ぼくたちが愛したり、恋したりすることに、世界や戦争ということが深く深くかかわりつづけ、「戦争」と「恋愛」、あるいは「世界」と「ぼくら」は、あっさりと「等価」におかれてしまう。
 『最終兵器彼女』のラストちかくには、空想の「世界」ではなく、いま現在の世界の人々の貧困や悲しみを描いたコマが挿入される。それは、ぼくらの恋愛やラブコメ的な日常のすぐそばに〈戦争〉とか〈世界〉といった〈大状況〉のリアリティが差し迫ってきていることを示すものである。岡崎の時代には乖離しつづけた〈私〉と〈世界〉は、高橋においてイコールにおかれ、やがて奇妙な一体化をとげる。だからこそ、この物語は、最後に、「ちせ」=「母なる地球」というところにまで行き着いてしまうのだ。

 岡崎がくり返し「空虚」さを強調したセックスについても、高橋は、死に隣り合わせる極限状態ゆえに切望される「生殖のための性交」=「シュウちゃんの『こっこ』がほしいよお」(その実、子どもはつくれないセックスなのだが)というセックスを描くことで、岡崎的な課題を克服しようとする。


 高橋がこれを描きはじめたのは2000年であり、まだアメリカの「対テロ戦争」は始まっていなかった。連載の最中に911事件による負のスパイラルが表面化する。「戦争」や「終末」のリアリティは、この作品にとっては、はじめから明示的なものではなかったが、高橋や企画者(編集部など)は、敏感にその空気を感じていたにちがいない。

 恋人という「私をめぐる現実」は、実は「世界をめぐる大きな現実」につながっている。これは、岡崎は決して言えなかったことだ。これが高橋がたどりついた世界のリアリティをとりもどす方法であった。
 恋人を愛するように世界を愛する。恋愛の焦燥や絶望やもどかしさが、世界の焦燥や絶望やもどかしさである――「世界でおきている戦争の惨禍のリアリティが、なんで恋人をめぐるリアリティと等価なんだ!」と怒る人もいるであろうが、ぼくはこの高橋の思想はなかなかイイのではないかと思う。うん、悪くないよ。そうやって回復されるリアリティもあると思うね。
 

 だが、だがな。
 やっぱりいっとくけど、現実で求められるのは散文的な努力なんだ。
 恐怖の正体を理性の目でみきわめること、〈私〉と〈世界〉を論理=歴史によってつなげること、そうやってはじめて、おれたちは離人症的な朦朧さから解放されるんだ。リアリティももてるんだ。

 虚構にこういうことをいうのは野暮のきわみだが、これは「解決」ではありえない。




なお、高橋しんは、『きみのカケラ』を連載中に「無期限休筆」宣言を出して、執筆活動をやめてしまっている。→その後わかったことだが、2003年12月中旬から、高橋は活動を再開している。

小学館ビッグコミックス 全7巻
2004.1.16記(1.18、2.3加筆)
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