司馬遼太郎と田中芳樹
『坂の上の雲』と『銀河英雄伝説』





(メモ)

 あ、「伊藤剛のトカトントニズム」で当研究所が言及されている。

 その関係で、呉智英『『現代マンガの全体像』』を買ってきてパラパラ読む。それと約20年ぶりに『封建主義者かく語りき』も。なつかし〜。
 かのブログが「書きかけ」であるということと、自分が再言及すべき性格のことかどうかわからないので、しばらく静観しましゅ。





(本文)

銀河英雄伝説〈VOL.16〉乱離篇(下)坂の上の雲〈1〉  司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでいる。

 昨年は日露戦争100年ということもあって、この小説の政治利用がさかんで、「ボクたち悪くないの。侵略とかそういうつもりはなかったの。坂の上の雲を見てただけなの」というカマトト発言のオンパレードのひとつの源泉となった。そうした状況に触発され読み出したが、うわー、なんて面白えんだ
 
 つれあいと松山(この小説の主要登場人物である正岡子規や秋山兄弟の出身地)に出かけたが、地元では「坂の上の雲構想」(街全体を資料館のようにする)なんてのもあった。



ナショナリズムの少年期への憧憬


 江川達也(『日露戦争物語』)もあわせて読んでいる。

 井崎正敏が「少年期のナショナリズム」の若々しさ、「健全」さにふれよ、と説いていたのを思い出す(『ナショナリズムの練習問題』)。
 司馬も江川もそこに着目し、近代の草創期がもつ独特の息吹や楽観を描きつくそうとする。腐朽の時代である「現代」に生きる人からみれば、これが一種の「神話」「憧憬」になってしまうのは、むべなるかなという気がする。早い話、「エネルギーをもらいました!」「元気がでました!」といいたくなるお話なのである。元気のない日本の現実に不満をもつ若い人の一部が、ここに回収されていくというのもわからなくはない。史実の体裁をとったひとつのフィクションだとは思うのだが。



旅順要塞とイゼルローン要塞


 さて、ちょうど今読んでいるのは旅順の攻囲戦のあたり。

 このくだりを読んで、「あー、イゼルローン要塞は旅順要塞がヒントだったのかー」と思い至る(イゼルローン要塞というのは田中芳樹のスペースオペラ『銀河英雄伝説』に出てくる要塞のことで、銀河帝国と自由惑星同盟の間にある回廊をふさぐ帝国側の難攻不落の要塞)。
 そして、イゼルローンを占領したことで安心しきっていた自由惑星同盟にたいし、銀河帝国が中立自治都市フェザーンを蹂躙して反対の回廊から侵攻していくのは、マジノ要塞を無視して中立国ベルギーを通ってフランスに侵攻したナチスドイツを想起させる。

 いずれも歴史マニアの田中ファンにとっては「常識」にぞくすることなんだろうけど。

 司馬は旅順要塞を「近代の象徴」と描く。

「旅順攻撃は、維新後近代化をいそいだ日本人にとって、はじめて『近代』というもののおそろしさに接した最初の体験であったかもしれない。要塞そのものが『近代』を象徴していた。それを知ることを、日本人は血であがなった」(文庫版4巻p.227)

 それを司馬は「巨大な殺人機械」(同p.182)とも形容し、「かれら(日本兵)は、一つおぼえのようにくりかえされる同一目標への攻撃命令に黙々としたがい、巨大な殺人機械の前で団体ごと、束になって殺された」と描写する。

「ロシア側は旅順要塞をつくらせるについてセメントを二十万樽以上つかっている。すべてベトン(コンクリート)でかため、地下に巨大な戦闘用の空間をつくり、そこに砲台、兵営を設け、それらの砲塁群がたがいに地下道で連絡しあっている。野砲程度の砲弾をうちこんでも、砲台の上の土砂を吹きとばすだけで、砲塁の本体にはすこしも損傷をあたえない」(同p.28)

 無能きわまる乃木軍司令部、ひいては日本陸軍がこの近代要塞にたいして、まったく無策なまま膨大な死傷者を出していく。司馬はその事態をひきおこした乃木軍司令部にたいして、「かれらはその作戦能力において国家と民族の安危を背負っており、現実の戦闘においては無能であるがためにその麾下の兵士たちをすさまじい惨禍へ追いこむことになるのである」(同p.186)と痛罵をあびせている。そして、その無能ぶりを司馬は「執拗に」描く。まさに「執拗」である。司馬自身、こうのべている。

「この大要塞の攻撃についての日本側の態度を、筆者は時間の経過をときに前後させたり、ときにおなじ内容を別の側からくりかえしのべたりして、執拗に書いている。同時にその執拗さをはずかしくおもっている」(同p.225)

 敵軍の血を巨大ポンプのように吸い上げる殺人機械――これは田中のイゼルローン要塞にそのままうけつがれている。
 イゼルローン要塞は直径60キロの人工天体で、通常の艦隊攻撃では小ゆるぎもしない。
 おまけに射程に入った敵艦隊を出力9億MWの主砲「雷神の槌(トゥール・ハンマー)」で「消滅」させてしまう。自由惑星同盟軍は、まったくよりつけないのである。
 イゼルローン要塞の超絶的な科学技術力はそのまま旅順要塞の近代的力能を模したものであるし、艦隊が「消滅」するという描写は、師団規模の兵員が一瞬で「消滅」するという旅順の大苦戦に似ている。

「いままでの乃木式によれば裸突撃をさせてたった一回の突撃で、一万六千とか、五千といった数字で兵員を死傷させている。第七師団はたった一回の突撃で消滅するであろう」(同p.376〜377)

 この軍事的ハードウェアは、旅順においてたしかに大量の日本兵の血を吸った。
 しかし、その軍事的ハードウェアへの信仰が、逆にアダとなったのが「マジノ要塞」である。ドイツとの国境線に防衛のための長大な永久要塞をつくり、フランス側は安穏としていた。これを逆用したのがナチスドイツで、マジノラインが及んでいないベルギーとの国境を通って(アルデンヌ奇襲)フランスに侵入してしまう。
 『銀河英雄伝説』のなかで、この「軍事的ハードウェアの信仰を逆用する」のは、ひとつはイゼルローン要塞を落とした自由惑星同盟側の軍人ヤン・ウェンリーであるし、もうひとつはイゼルローンを回避し反対の回廊から攻め入った帝国皇帝のラインハルトである。

 さて、以上のことは、田中が司馬に影響されたということではなく、田中が「史実のスープ」をつくっているということの例証にすぎない、と言われるだろう。
 田中はつねづね自分の手法の一つを、“歴史の材料のなかから任意のものを選んで、ごった煮のスープをつくること”だと公言している。『銀河英雄伝説』の要塞描写で、田中は旅順要塞とマジノ要塞のスープをつくった(それ以外にも、イゼルローンから帝国軍をおびき出すくだりは、たぶんに中国の攻城譚、とりわけ『三国志』的なのだが)というだけなのかもしれない。

 しかし、そうであるにしても、『銀河英雄伝説』は司馬的だ。



エピソードをキャラの彫琢につかう


 凡庸な「大河」小説は、ストーリーを動かすために、ストーリー上の役回りを個々のキャラクターに分割する。単層なキャラクターが、ストーリーに踊らされて動く。キャラはあくまでストーリーの従属物なのだ。

 ところが、司馬が自身の歴史小説のなかでとる方法は、そうではない。前にものべたとおり、司馬は、キャラクターを無数のエピソードによって立体化していく。
 司馬においてエピソードは、ストーリーや伏線のためにあるのではなく、キャラクターを彫琢していくための贅沢な「あそび」である。司馬はまるで散歩でもするかのように、あるいは無駄話をするかのように逸話を語る。あっちへよろめきこっちへふらつく。ところが、そうやって彫り上げられたキャラクターはしだいに自動化し、物語のなかで生き生きと動き始めるのだ。自立化したキャラクターたちが、物語をつくってしまう。

 田中も『銀英伝』のなかで、エピソードを同じようにつかう。内面の詳細な心理描写などにはあまり力を入れない。
 その使用方法はきわめて司馬的なのである。
 田中は、物語のうえでは不要とさえおもえる、銀河帝国の歴代皇帝のエピソードさえ詳細に描く。この贅沢な寄り道によって、しかし読者は、いつのまにか銀河帝国(ゴールデンバウム朝)の腐敗と堕落の歴史を脳裏に印象づけることになる。





司馬遼太郎『坂の上の雲』文春文庫(全8巻)
田中芳樹『銀河英雄伝説』徳間文庫(全11巻)
2005年7月19日感想記
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