池谷理香子『さよならスモーキーブルー』


 恋人やパートナーは申し分ないほどで、今もうまくいっているし、今後もうまくいくであろうという満ち足りた空気のなかで、同僚にゆらめくということがあるだろうか。
 あの、ぼくの話じゃないですよ。
 初めに言っとかんとな。ぶつぶつ。

 ある絶妙のタイミングで気持ちを切除してみたら、なんだかものすごくきれいなものが取りだせた、という瞬間がある。池谷理香子『さよならスモーキーブルー』は、その白眉である。

 派遣社員の主人公(女)には、十分にうまくいっているパートナーがいる。
 パートナーは、
 「ありのままのあたしをありのままで受けとめてくれる」
 「3年間 あたしは一度も自分に無理をしたことがない」
 そういうなかで、いつも飲み会で最後まで酔った自分の面倒をみてくれる同僚(男)の気持ちに気づく。終電がなくなったあと、2人は、家のちかくの公園の東屋で酒をのみながら時間をつぶす。
 そのとき、まわりには、煙るような雨がふりつづき、寂として声なし。
 他愛もない話をしているうちに、同僚が自分の気持ちを口にし、主人公もまた好意をよせる気持ちを口にして返す。
 それだけ。
 それから、主人公は派遣先をやめ、パートナーとの居心地のいい生活にもどっていく。

 この作品は、すべてが絶妙のバランスのうえに成り立っている。

 まず、主人公と同僚の気持ちと行動の目盛りであるが、あと少し強くすると、フリンとかフタマタとかいう世界になる。「アタシは自分の『好き』という気持ちに忠実なのよ! それのどこが悪いの!」というミもフタもない開き直りへの道だ。下品。
 逆に、目盛りがあと1つでも低ければ、それこそ主人公がいうように「こういうドキドキって一時的でちょっと風邪ひいたようなモンなんだよね」となる。コトは起きないのだ。

 また、主人公の恋人というかパートナーの目盛りも、まったく「ここしかない」というところに精確にしぼられている。
 あと少し目盛りが高ければ、「出来過ぎ」の、嫌味な造形になる。包容力ありすぎ、みたいな。
 逆に、ちょっとでも目盛りが低ければ、イヤなやつだ。
 どちらにブレても、読者は「あー、こういうやつがカレシなら、どっかズレてて、本当の恋とか探しにいくんだろーなー」と思うにちがいない。思わせないのだ。

 主人公が、「気持ちに歯止めがきかなくなったら……」といって、涙をこぼしながら、さいしょにした軽いキスだけで抑制をかける姿勢もまたこの絶妙さに貢献している。
 そして、職場をやめることで、二度とその同僚と会わなくなる、というのも、また絶妙さの一つである。あくまでそれは切り取られていく「思い出」であって、そのあとにつづく日常ではないのだ。

 ここまでの解説を読んでうんざりする人もいよう。
 いや、じじつ、2人で雨の中できく音楽がチェット・ベイカーだったりとか、そういうのは困るんですよ、とぼくも思いました。はい。
 もしこれが、少女漫画的な画風であれば、もう少女の妄想全開っぽくなって台なしなのだが、池谷のタッチは、そうした脆弱なロマンチシズムをよせつけない厳しさがある。これがそうした甘さをチャラにする。
 まさに最後に、池谷の、この「絵」によって、すべての絶妙なバランスは、どこにも倒れずに、成立し続けているのだ。

 池谷の作品のなかでも、かなり思いきって感傷的なテーマにふみこんだものだと思うが、それは、このような絶妙なバランスをくずさずにいるからできたことなのである。いや、じっさい、チェット・ベイカーでかなりヤバい話に。やりすぎ一歩手前。くずれる寸前。その手前で止まったっていう作品。
 戦略であれば職人であり、アクシデントなら希有な偶然。

 ありがちなようで、なかなかお目にかかれない作品だと思う。



集英社 ヤングユーコミックス
2004.2.28記
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