J.ジグレール『世界の半分が飢えるのはなぜ?』


 入門の本はないかとおもって、よく、子どもむけの本を買う。
 子どものむけの本は、「わかりやすい」、ということもあるが、しばしば「本質的」であるからだ。

 学生運動をしていたとき、授業改善の運動にとりくんでいたが、ある大学教員の授業改善実践を読んでいて、学生からときどき根源的な質問が出される、というくだりに出会ったことがある。たとえば、

 「ダーク・マターの温度は何度ですか」

 卒然、こうした質問にであうと戸惑ってしまうわけだが、答える方はためされる。
 もちろん、いい加減に答えることもできるし、卑俗化して「わかりやすく」答えることもできる。しかし、決して卑俗化せずに、その合理的核心だけを保存して表現のレベルを下げていくという作業に真にいどむなら、それは大変な努力を要する。
 本当にわかっている人間にしかできない。

 だからこそ、教育と研究は統一されておらねばならず、大学のシステムとしても、教育と研究を一体にした「学部」というシステムは重要なのである。昨今のように、「独立大学院」化をすすめることで、この機能は破壊される。

 子どもへの本質的な説明は、叙述側に「甘え」を許さない。
 専門家間ではラクにつうじあう議論が、門外漢には、とりわけ子どもにはまったく理解不能なものになり、叙述する側は、世界をはじめからきちんと組み立てて子どもに示す必要に迫られる。

 子ども向けの良書が書けることは、真の専門家であることの、必要十分条件ではないにせよ、必要条件であろう。

 本書『世界の半分が飢えるのはなぜ?』は、28の小さな章にわかれ、飢餓問題の国際権威であるジャン・ジグレールが、子どもに語る形式で、一様ではない飢餓の原因をテーマごとに論じていく。
 そのカヴァーする範囲はとても子どもむけとは思われず、これだけの中身を知っていれば、大人社会では飢餓について十二分によく知っている人とみなされるだろう。

 ぼくが興味を引かれたのは、4つ

 ひとつは、「3章 飢えは自然淘汰? それとも運命?」として、マルサス主義を手厳しく批判していることである。『人口の原理』を要約して次のように紹介する。

「世界人口は、幾何級数的な規則性をもって25年ごとに倍増している。それに対して食料増産はそうは見込めまい。だから、経済的に厳しい家庭では子どもの数を制限しなければならなくなるだろう。貧しい家庭にいろいろな援助と社会的保障を施す必要も出てくるはずだ。そうなると、病気や飢餓はたいへん痛みをともなうものとはいえ、地球人口を自然淘汰していくものだと考えられる」

 このマルサスの話をきいたジグレールの息子は「牧師さんがそんなことをいうなんて!」と怒りの声をあげる。ジグレールは「でも、心にささやくんだと思う」として、耐えられない貧困と飢餓の映像がひきおこす良心の呵責から逃れるために、こういう理論につい頼ってしまう、と解説する。

 ジグレールが、飢えは運命ではない、としてあげている数字は興味深い。
 おそらく、この問題(飢餓問題全体)を考えるひとつのポイントとなるだろう。

「豊かな食糧が公平に分配されていないということが、現代の人間社会がかかえているいちばんの欠陥ではないだろうか? 食糧自体は豊かに存在するにもかかわらず、貧しい人びとは、それを入手するための経済的手段を持っていない。……地球は世界人口がいまの2倍になっても、それを養う能力を持っていると推定されている。現在、世界の人口は60億人くらいだが、国連食糧農業機関(FAO)は、『農業がこのままの水準で発達していけば、地球は問題なく120億人を養える』(1984年)と報告しているからね。この数字は少し大げさかもしれないが、あと数十年は問題ない。全人口を養える、ということは、大人にも子どもにも、1日あたり2400〜2700キロカロリーに相当する食糧があるということだ」


 ふたつめは、「6章 緊急援助で問題解決?」のところで、つい、経済的飢餓(突発的で一時的な原因による飢餓)のばあい、食糧を緊急にとどければそれでいい、というふうに思ってしまうことへの戒めについてである。
 むろん、緊急にとどけることは必要である。
 しかし、知識をそなえた十分な専門家がいなければ、たいへんなことになることを教えている。
 「たとえば、飢えた子どもたち(大人であっても)にパン1個をなんの配慮もなしに与えると、命取りになることもある。支援センターにたどりつくまでのあいだ、ながいこと栄養不良にさらされていた体は、衰弱してきっていて、消化機能が驚くほど衰えているからだ」。

 飛行機で物をただただ落としている「救援」をジグレールは批判する。
 「緊急援助っていうのはそういうものじゃない。非常に綿密で、科学的でかつ医学的なものでなくてはならないんだ」。

 ここからも、日常的で地道な人道援助の重要性がわかる。
 どうしてもそのことは、イラクやアフガンの問題に思いがいく。
 なぜ地道に活動するNGOを危険においこんでまで、費用対効果のいちじるしく薄い自衛隊が喧伝されてそこにいくのか。長年、飢餓のために活動していたNGO活動家がなぜ一方的な非難にさらされるのか、と。


 みっつめは、本書の核心部分「なぜ飢えるのか?」にかかわる部分である。
 さっきものべたように、この本では、さまざまなレヴェルの飢えについてのべるので、その原因は一様ではない。経済的飢餓において、戦争や内戦がはたす重大な負の役割についてものべているし、「15章 武器としての飢え」ではフセインへの制裁と称しておこなわれた経済制裁がたくさんの餓死者を出している問題をあげている。
 「17章 国家テロとしての飢え」では、北朝鮮政権が独裁のために飢えを放置している、ということを指摘する。
 しかし、あえて問題のもっとも大きな根源をどこにジグレールがみいだすかといえば、「人間の顔をなくし、社会倫理を逸脱してしまった市場原理主義経済、暴力的な金融資本、国民から富を巻き上げるだけの国家財政がが世界に不公平と苦悩をもたらしている」と結論づけている、ここであろう。

 ジグレールは、この問題をたとえば「10章 牛が食べ、人が飢える?」でこう紹介している。

「こういう事実を知っているかい? 世界で生産されているトウモロコシなどの穀物の4分の1は、豊かな国の牛のエサになっているっていうことを。先進国では肉の食べ過ぎで生活習慣病になる人が増えつづける一方で、世界中の大勢の人たちが栄養不良のために飢えて死んでいるっていうことを」

「自由主義市場で売り買いされている農産品のほとんどが投機筋の動きに影響を受けていることを知っているかい? アメリカのシカゴにあるミシガン湖のほとりには、輸入業務用の貯蔵倉庫が立ち並んでいる。『シカゴ穀物取引所』と名づけられ、世界の主要農産物が売買されている。そこでは、ひとにぎりの金融資本家が農産物を買い占め、貯蔵倉庫にため込んでは市場価格を操作しているんだ。国際的な穀物の商取引は、すべて『穀物メジャー』といわれる商社、むかしでいえば穀物商人の手ににぎられている」

「穀物の収穫量は十分だ。しかし、その取引価格はシカゴの投機家の手によって人為的に操作され、国連や国連食糧計画(WFP)、さまざまな人道援助団体、あるいは慢性的な飢えに苦しむ国ぐには、穀物メジャーによって決められた価格で買わざるを得ないということが問題なのだ」

 ぼくは、自分の共産主義講義でもジグレールのこうした言葉を引用したのだが、「利潤第一主義」という資本主義の経済原理が、まさにここにきて世界的な飢餓をひきおこしている。
 いまやその克服は世界にとって重大な課題となり、資本主義の克服、すなわち好むと好まざるとにかかわらず、「共産主義」というシステムが、もうすっかりしたくをととのえて、戸口のところに立っているのである。

 さいごに、よっつめ

 解説部分(監訳者・勝俣誠執筆)なのだが、次のくだりは、やっぱり左翼のぼくにはぐっとくる。

「1968年に、スイスのジュネーブで国連貿易開発会議(UNCTAD)がひらかれ、キューバ革命にはせ参じたアルゼンチン生まれのチェ・ゲバラが、キューバの経済大臣として会議に出席しました。当時まだ学生だったジグレールさんはチェの泊まっているホテルのロビーでかれと会います。/開口一番ジグレールさんは、『キューバ革命に参加するため、僕をキューバにいけるようにしてください』と頼み込みます。するとチェはかれの手をひいて、レマン湖を見下ろすバルコニーまで連れていき、対岸に輝く世界的に有名な製薬会社バイエル社や食品会社のネスレ社のネオンサインをさしてこういいます。『君はスイスに残って、この怪物と戦うのだ』」

 「『北』のなかから『南』に対する不正をただす」――これが日本の人間のできることの一つである。

 ジグレールも、監訳者の勝俣も、その方策として各国の食糧の自給自足をあげる。
 日本では減反でコメが不足してタイ米を輸入したとき、アフリカでは食糧不足がおきている。
 また、日本の肉生産のために、世界のトウモロコシ輸入の22%は日本がしめているのだ。
 


 物事がわからないときは、新書をよむよりも、子ども向けの良書を読もう。
 くり返すがそれは非常に本質的にできている。

 なお、スーザン・ジョージに、本書と似たタイトルの本があるが、直接には関係ない。



ジャン.ジグレール著 たかおまゆみ訳 勝俣誠監訳
『世界の半分が飢えるのはなぜ? ジグレール教授がわが子に語る飢餓の真実』
合同出版 2004.4.22記
メニューへ