きらたかし『赤灯えれじい』



赤灯えれじい 1 (1)  一週間ばかり「矢沢あい」漬け。
 来る日も来る日も「みんな…大好き!」「ねえハチ あの頃のこと覚えてる?」とかいう世界に浸っていて、脳が砂糖菓子のようになってしまった。

 そこへきて、この『赤灯えれじい』だ。
 海外でバタくさいものばかり食べていて、納豆が無性に恋しいとか、そういうのに似ている。
 朝日で紹介されていたのと、ぼくのサイトを読んでくれている人からのおススメで読んでみたが、大当たり。これは効きます。

 フリーターで、すぐヘバり、これといった才覚もなく、容姿もパッとせず、高校時代は「ゲロ男」といじめられ、女性とは無縁の究極のヘタレ男・サトシが、工事現場のバイトをキッカケに、ド金髪・元ヤンキー・超攻撃的な同世代の女性・チーコ(美少女というか美女という設定)と知り合い、恋に落ちていくという話。「赤灯」とは、工事現場の赤く光る合図灯、もしくは発光するライトコーンを意味する。大阪が舞台で、言葉づかいや街の雰囲気もその設定が十分に生かされている。

 ヘタレと美女、そしてヘタレの自己変革プロセスと聞けば、『電車男』を彷佛とさせるのだが、恋愛を発展させていくサトシの涙ぐましい努力と、不器用にそれに答えるチーコのリアクションが、階梯をのぼるように一つひとつ確実で、かつリアル。エルメスのカップで紅茶うんぬんとかそういう妄想やユメみたいな設定はこの世界から剿滅されている。

 サトシがチーコの家をはじめて訪ねるのも、工事現場のバイト明けで始電待つよりうちに来いや、などと味気ない(しかしリアルな)きっかけだし、朝チーコの「おかん」たちと寝ぐせをつけながらメシを食う様は色気もへったくれもない。
 そればかりか、チーコの家は潰れかかった零細な町工場で、ヤクザまがいの借金取りが毎日のように押しかけ、チーコや妹をみては、フーゾクで働けやなどと叫ぶ環境なのだ。
 サトシの家も負けてはいない。父親が過労で早くに亡くなり、団地住まい。母親は二人の子育てに疲れ、一日も早い自立(=世話からの解放)を願っているものだから、サトシの弟が同級の女子高生を妊娠させてしまったときには疲れきった表情で結婚に反対する。
 サトシは高校時代にいじめられていた人間にファミレスで見つけられ、「ゲロを吐け」とおもちゃのようにされるシーンも出てくるが、こういう描写というのは、経験のある人には心をえぐられるようにキツいだろうなと思う。

 いわば、この二人のフリーターの恋は、とてもリアルな貧困のなかで育まれる。

 ぼくは前に、マルクスをひきながら、貧困についてつぎのようにのべた。

 「貧困」とは、ただお金がないということだけではない。
 人間が精神と思想のうえで抑圧と奴隷状態へと落ちこんでいくこと――そしてこのことは、形を変えた物質的な貧困とどこかで結びついているのである。
 現代では、「貧困」は、直線的に私たちの前には姿をあらわさず、転倒し、誇張あるいは希釈され、もとの姿をとどめぬような入り組みようで、私たちをからめとっていく。

 

 自分をとりまくすべての環境が、自分をゴミのように流していってしまおうとするとき、サトシはそれに抗しようと健気に決意する。それがサトシがことあるごとに口にする、「チーコにつりあうような男になりたいんや」とか「男らしくなりたいねん」とか「チーコとタメな感じになるまでは(セックスは)がまんするんや」というセリフと行動になってあらわれるのだ。

 ふつうは「男らしくなりたい」「彼女に見合う男に」というセリフには、見栄や体裁、ジェンダーが入り込んだチープなものになるのだが、サトシのこの決意にはそうした安っぽさがみじんもない。なるほどサトシが決意したわりには、出てくる行動はとんちんかんなものばかりなのだが、それでもサトシの決意がぼくらの胸をうつのは、それが単なる「純愛」の宣言にとどまらず、未熟ながらも力強い自立の宣言になっているからだ。

 仕事をこなすこと、部屋をさがすこと、免許をとること、生活費の分担をきめること、チーコがからまれたら自分で助けること、言い寄る異性にだらしなくしないこと――サトシにとって一つひとつが人生をかけるほどの真剣な事柄であり、それらを克服し自立していくこととあわせて、チーコと手をつなぐこと、キスをすること、セックスをすること、という恋愛のプロセスが一体になっている。

 ぼくらはただ「純愛」に涙するだけでなく、サトシの、おぼつかない、しかし健気な自立の心意気に声援を送るのである。

 そして、二人の恋愛と自立の階梯は、大阪的な(とイメージされている)環境にささえられている。
 サトシのことを「頼りなさそーやな」と揶揄するチーコの家族、チーコとどこまでいったんやと猥雑な顔で聞いてくる工事現場のおっちゃんたち、「初めて会うた人間に一人で店番さすほど人間信用してないんや」とつっけんどんにいうタコヤキ屋の親父といった面々は、ただのスケベ野次馬、いけすかない親父のようではあるが、構わないようでいてどこかで二人(あるいはそのうちの一人)を見守る視線をもっている。その空気の温度がこの物語にとって、見えないところで重要な役割を果たしている。

 少なくとも4巻までを読む限り、すばらしい傑作である。
 きらが「ちばてつや賞」を受賞したことがあるのは、けっして偶然ではあるまい。

 それにしても、矢沢あい『NANA』も、たしか当初設定は高校を出てフリーターのはず。
 あたたかい人間関係にかこまれているというのも似ているし……。
 にもかかわらず、このちがいは一体。
 『NANA』のほうは、現実との「地続き」感(藤本由香里)をたくみに挿入しているものの、スターダムにのしあがったバンド周辺の友情と人間関係のオハナシで、まるで夢や映画のなかにいるよう。他方、『赤灯えれじい』はリアルきわまるフリーター同士の恋愛と自立のお話で、現実の貧困のど真ん中にあるお話。
 『NANA』を掲載している「Cookie」誌は「りぼん」誌を卒業した高校生以上をねらった女性誌であり、『赤灯えれじい』を連載している「ヤングマガジン」誌はやはり男子中高生からフリーターなどをねらった男性誌で、年齢的には同じところにあると思うのだが、その世代の男女の脳内というのはこれほどまでに違っているのであろうか。





講談社ヤンマガKC
1〜4巻(以後続刊)
2005.9.26感想記
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