三浦博史『洗脳選挙』


 「選挙プランナー」という選挙参謀、もう少し言えば「空中戦」(組織の力での票固め=地上戦ではなく、有権者の前での論戦や宣伝の部分)を担当する選挙参謀であった筆者が、自分の経験してきた選挙戦術の中身を披露する。

 「Part1」では筆者がプランナーをつとめたという新潟県知事選で、泉田和彦を「史上最年少知事」に押し上げた経験をもとに、その「裏話」をしつつ、泉田という男をどう「宣伝」していったのかを明かす。

 項目をみれば、どんなことが語られているのか、わかるだろう。

「ネガティブ・ファクターを見極める!」
「ポスターとチラシは情報発信の原点」
「最も重要なのは、メッセージ・イメージの『統一感』」
「知事は『日本一の営業マン』」
「勝てるポスターが潰されるとき」
「ホームページを作っただけではダメ」
「マスコミに取り上げられる工夫」
「『自分の得意な言葉』が一番、人の心に届く」
「今、あえて『箱もの』を売りにする」……


 「Part2」では、「Part1」の具体例を、一般化したもの、すなわち選挙における宣伝・論戦術について語る。ここでも、項目をみれば、ある種の読者は興味をわかせるだろう。

「選挙は戦争である」
「従来の調査があてにならない理由」
「マスコミの定量調査が外れる理由」
「出口調査が外れる理由」
「『定量調査』のワナ」
「上手な写真はこうやってきめる」
「法律を『飛び越える』工夫」
「目に、耳に、訴えろ!」
「対抗馬の『致命的な選挙パフォーマンス』」
「自分らしさを打ち出すことの意義」
「小泉首相のメディアトレーニングはすごい」
「人を惹きつけるには『熱伝導』がすべて」

 「Part3」は日本の選挙CMの評価、「Part4」はアメリカ大統領選挙のプロパガンダの歴史、「Part5」はITを駆使した選挙運動と投票の検証、となっている。
 やはり本書の中核は「Part1」「Part2」で、この部分が本書のなかではいちばん面白い。

 実は選対(選挙対策)関係者や、その話を多少なりとも聞いたことのある人にとっては、半分くらいは常識に属するもの。しかし、この本自体が一種の「プロパガンダ」であり、宣伝の力によって売り出そうとしているだけあって、それをいくつかの「新奇」さと、見せ方の「新しさ」によって、なんだかスゴいことが暴露されているかのように仕上げてしまっている。

 筆者自身が言及しているプロパガンダのエッセンスを、この本自体がたくみに利用している。

●ネーム・コーリング……悪いイメージのレッテルはりのことで、既存の選挙対策がいかに何も考えていない無戦略なものであるかをイメージづける。それは、実は筆者の印象にすぎないものがほとんであるのだが。

●華麗な言葉による普遍化、証言利用……普遍的な価値(自由、正義など)によって自分の行動を正当化することが「普遍化」。「証言利用」は有名人の発言を利用すること。いまここにあげているプロパガンダのエッセンスの列挙自体、「コロンビア大学のミラー教授が設立した『宣伝分析研究所』が発表したもの」として筆者は宣伝しているのだ。

●カードスタッキング……都合のいいことを強調し、悪いことをかくすこと。筆者は選挙の勝敗を戦術の巧拙の評価にあまりに近づけすぎていると思うのだが、実際にどれくらいの効果があったのかは、実はそれほど厳密に検証されているわけではない。

●転移……権威ある存在を味方につけ、自らを正当化する。筆者は、イキナリ「日本を代表する選挙プランナー、新潟へ」って、うたいあげて、自分はスゴい大家なのだと言い立てる。

 そもそも、この本のカマトトな部分には苦笑させられる。

「『洗脳選挙』。正直言って嫌な言葉だ。編集者にタイトルを変えるよう希望したのだが、とりあってくれない。けれど、仕方ないか、とも思う。選挙というのは、確かに『洗脳』の側面がある」(おわりに)

 またまたぁ〜。
 考えに考えて筆者がつけたとしか思えないタイトルなのに、こういうことを言う。じっさい、「洗脳選挙」というのは、ちょっと聞いただけでは、わかりにくいタイトルだ。普通の選挙とちがって、そういう洗脳するタイプの選挙があるのかな、と聞こえてしまう。たとえば「選挙洗脳術」のほうが、内容を表すうえでは的確であるし、インパクトもあると思う。にもかかわらず、「洗脳選挙」というネーミングを選んだのは、フレーズ化したい、もっといえば流行語のようにしたい、という意図が透けてみえる。

 なーんて勝手な妄想を書いたが、たとえば同じ「おわりに」という一文で「私がプロパガンダを研究するのは、悪質なプロパガンダからいい候補者を守るためだ」などというのも、よく犯罪の手口を紹介する暴露本の言い訳に似ていて、鼻白む。
 もうちょっとブラックな気持ちなんでしょ。そう言ってくれるほうがリアルだよ。


 ただ。

 それにもかかわらず、この本は面白い。
 選対関係者は右にかぎらず、左にかぎらず、自分たちの宣伝戦略は果たして効果的かどうかを、この本を使って検証してみることは無駄ではない。
 
 たとえば、左翼というのは、ロゴスに重きをおく人種である。
 ビラにどんな言葉が書いてあるか、演説でどんなことをいうかが、最上のものである。
 しかし、本書は言う。「人の印象を決定づける要素は、……目からの情報(服装などとボディランゲージ)が55%、声の調子・話し方(パラ・ランゲージ)が38%、言葉・話の中身(ランゲージ)が7%である。つまり人の印象の93%は「話の中身以外の要因=ノンバーバル(非言語的要素)で形成される」(p.101)。
 額面どおり信じるわけには到底いかないけども、ビラやポスターのデザイン、候補者のいでたちが、誰の利益を代弁している人間かということを、言葉以上に伝えることはある。

 これに近い問題として「デザインの統一感」という問題がある。「選挙運動というのは、投票で有権者に候補者の名前を書いてもらうための営業活動だから、候補者の名前・イメージをどう覚えてもらうかが非常にたいせつになる。だから選挙キャンペーングッズには統一感が不可欠なのだ」(p.30)。
 この問題は、左翼の党派のなかでは積極的に無視されているといっていい。「まくビラが前回と同じようだとまぎらわしい」などという理由で。
 これは「論戦」ということと関係がある。
 左翼はたえずロゴスの力によって、状況を告発し、問題を動かそうとする。
 そのときに、固定されたイメージに頼っているわけにはいかないのだ。
 たとえば不正を告発しクリーン一色でたたかおうとしたが、途中で消費税問題などが争点として急浮上してきた場合、それに機動的に対応しなければならない。ところが、もとの戦略に固定的にこだわっていると、そのチャンスを逃がしてしまう。
 どうせ左翼が問題にしようとしているような争点は、マスコミには最初から無視されていることが多い。だとすれば、左翼が総力をあげて訴えねばならぬのはまさにその争点そのものなのであり、イメージにこだわっていて、問題を突破できるだろうかという疑問は残るのだ。
 しかし、必ずしもそうなるとは限らない。たとえば消費税のように大争点に押し上げられてこられれば、有権者はそれで判断しようとするけど、争点に押し上げられなかった場合は、たしかにここに書いてあるようなことが有権者の判断には重要になってくる。

 また、筆者は、「『自分の得意な言葉』が一番、人の心に届く」と説く。
 筆者は、新潟県知事選で、ライバル候補の演説が「自分の言葉ではない」ことを批判している。「応援に来ていた菅直人元民主党代表の話だと言っても、民主党県議の話だと言っても通じる内容しかない」(p.43)。
 組織体をもっている左翼はしばしばこの種の批判をされる。
 組織左翼にとって、政治とは個人技ではない。集団の叡智によって問題にあたるというのが建て前になるから、つむぎだされる言葉は集団のものである。
 たとえば、「社会保障を守る」と方針案に書いてあったとして、ある派は「『守る』はどうにも消極的だ。保守的なイメージしかない。積極案を対置していくべきだから『改革する』のほうがよい」といい、別の派は「いや、いまの力関係ではとうてい改革などできない。現状のものを守るということで幅広く共同することを方針としたほうがよい」といい、そういう論争があった末に決議された方針は「守る」に落ち着いたとしよう(そういう論争が実際にあったわけではない)。
 もちろん、どんな言葉を使おうがたとえ組織左翼であっても自由ではあるのだが、そういう論争を真面目にしたものほど、そのことを無視して「社会保障を改革する」とは言いづらい。
 しかし、それは有権者にとっては「一様」なものに映る。
 保守系政治家にとっては、つむぎだす言葉はまったくの個人技である。池田勇人は演説会に来ている人の顔色を見ながら話のレベルを調節し「所得倍増」という言葉を決めたというが、すぐれた保守政治家は人の顔色をみながらその空気で言葉を紡ぎ出す。ただし、それは一種の民主主義的プロセスではあるが、あくまで消極的な「反映」の側面でしかなく、民衆が権力をコントロールするという民主主義の本旨はそこにはないのだが。
 他方で左翼における民主主義文化は、たとえば方針案などを徹底的に討議し、それにもとづいて組織が動くというものである。本来、民主主義の精神からいえば、これが常道である。
 しかし、それが形骸化したり、硬直化したりすると、現実に日々生起する有権者の反応を、機敏に吸収し柔軟に変化していくことはできなくなる。
 組織の民主主義文化をふまえながら、「自分の言葉」を紡ぎ出すことは、じっさい簡単なことではない。

 しかし、有権者がまさにそれをのぞんでいる。
「誠心誠意やれば伝わるなどと言うと、『何を馬鹿な』と言う人もいるかもしれない。だが、自らの言葉で話している人間と、他人から渡されたことを丸暗記して話している人間とでは、声や態度に差が出て当然だ。それが印象のよさに結びつく」(p.44)
「自分の十八番の演説をすればいい。『絶対にこれを言いたい』ということがあれば、あちこちで一字一句違わずにその演説をすればいい。聴衆はいつも違うのだから心配ない。同行しているマスコミやボランティアが対象ではないのだ。/仮に選挙プロに『この話をしろ』と言われたとする。候補者は大体頭の回転がいいから、もちろん話はできるのだが、本人も慣れない言葉でしゃべっているので違和感があるし、聞いている方も面白くない。/でも自分が一番得意な分野を話せば、聞いている方もそれはうなずけるものだ」(p.99)

 筆者は、埼玉県知事選で当選した上田候補を例にだし、彼が県政のことを話さず、特殊法人改革ばかり話をしているので、下から文句が出たことを紹介しつつ、「上田さんが一番得意な話をしているのだからそれでいいじゃない」と言ったという。そしてこう言い切る。
「演説の内容はあまり関係ないのである。『あの人なら、クリーンな県政にしてくれそう』と思わせればそれでいいのである」(p.100)
 ぼくはこれ自体は間違っていると思うし、効果としても逆ではあると思うが、「十八番を歌え」という精神の一つの徹底ではあると思う。昔、日本新党で当選した都議が「都政で何をやりたいか」と当選直後のインタビューで聞かれ、「これから考えます」と答えた。都政のことなどそっちのけ、「政治を改革する」という十八番だけを歌いつづけた“成果”であろう。

 ポスターの写真を選ぶ話も興味深い。
 ポスター写真は候補者に選ばせずに、近親者に選んでもらえ、と筆者は言う。
 本人はどうしてもスマートで見栄えのいいものを選ぶのだが、有権者はそんな「カッコイイ候補」を見たいわけではない。その人らしさが一番出ているものを選ぶのが要諦だ、というのが筆者の主張である。
 新潟県知事選挙で、泉田陣営がつくった最初のポスターは「スマートな部分が強調されすぎていた」(p.34)という。かわって選んだのが、いちばんにっこりわらって気さくな感じがでているものだった。本人は「『え、この写真ですか?』と不満気」(p.34)だったとか。「自分が好きな写真と他人が見て好ましいと思う写真は違う。自分が選ぶと、どうしても自分の欠点が出ないものを選んでしまい、他人からみると本人らしさが欠ける写真となるからだ」(p.35)。


 個人的に、もっとも関心をもって読んだのは、CMの話にかかわって「ターゲット化」の話だった。「オールターゲットはノンターゲット」というのはマーケティングの常識に属することではある。その部分は、まあ、どうでもいい。
 彼は日本の広告代理店には、政党広告にたいして設計部分のノウハウがないと嘆く。「設計部分のノウハウとは、政党のニーズを理解し、有権者をセグメント化し、ターゲットを特定することである。そのうえでターゲットの関心事を調査し、媒体を選定し、政党のメッセージのPR活動を行えばいいのだが、日本の広告代理店はこの部分のノウハウをもたないから、テレビ、新聞だけを狙った広告戦略となる」(p.113)。

 私が瞠目したのは、だとすれば雑誌媒体に注目すべきではないか、と主張していることである。ああ、ぼくも常々そう思っていた、などというのは、卑怯な言い分であるが、まったくその通りだと線を引きまくったものである。

「(日本の広告代理店は政党広告をうつさい)雑誌媒体については一番最後に提案してくるが、この場合も発行部数の多い雑誌をすすめてくるだけで、読者層の分類を真剣に考えているわけではない」(p113)

 個人的実感からいっても、新聞広告の素通り感にくらべて、雑誌の広告というものは、あたれば見つめる強さが違うように思われる。
 特定の階層がどこに潜んでいるかは、この社会を漠として見渡したときはなかなか見分けにくいのだが、雑誌は分化した階層がそこにいることが一番目につきやすい媒体である。


 筆者は公明党を「日本で唯一プロパガンダを理解している公明党」と評価しているが、これは卓見であろう。公明党の宣伝戦略は、それが十全に成功しているかどうか別としても、ネガティブキャンペーンをふくめて、よく考えられていると思う。
 筆者は書いていないが、2003年総選挙で年金にしぼりこんだ戦略は見事だった(しかし党三役の年金未納問題の発覚と年金改悪批判の沸騰で、これが逆に仇となるわけだが)。


 他にもたくさん論点はあるのだが、最後にひとつだけ。
 インターネットの政治活動における活用である。

 筆者はアメリカの民主党の大統領候補ディーン(ケリーに敗れるのだが)がブログ(ネット日記の一種)を使ってのしあがってきたことに注目する。
 ブログはたしかに更新が簡単で、リピーターをふやすうえで重要な毎日の「更新感」がつくりやすい。また日記形式をとることによって、生の政治家の言葉を有権者に伝えることができる。と、これは筆者の考えというより、ぼくの考え。
 だが、筆者がブログに注目する核心は以下の点にある。
 ブログはトラックバックやコメントの機能があることが特徴である。すなわち、ある日記を書くと、その日記にたいして、コメントをその場で書き込めるし(コメント機能)、あるいは有権者が自分のサイトでその日の日記に言及した場合、候補者の日記で「だれそれさんがこの日記を言及してくれました」と自動的に知らせてくれる機能(トラックバック機能)を持っているのだ。

「閲覧者が意見を書き込めるうえ、ブログ間が密接につながるため、1つの情報を爆発的に広めることができる。ブログは大規模な口コミなのである。これまで個人間で伝わっていた口コミ情報をネット上で大規模に展開したものなのだ」(p.192)

「ブログを特徴づけるコメントやトラックバックという機能(リンク)は、ブログユーザー(ブロガー)同士のつながりも強める。ディーンにはキャンペーン活動をしているブロガーが1000人以上もいる。つまりディーンの私的応援サイトが1000以上も立ち上がり、そこでディーンの主張や選挙状況が有機的に流されたわけだ」(p.194)

 ここから得られるヒントは、別にブロガーでなくてもいいのだが、大量の応援団をとりまきにつくることである(ここからはぼくの意見)。
 もっとも直近の懸念として、ブログサイトを立ち上げると、必ず「あらし」が出る。そのとき、こまめに削除することも大事だが、「とりまき」が自然に「あらし」をかき消してしまうほうがよりよい。
 むろんそれだけではなく、そこがにぎやかな情報の集合地点になるためには、たくさんの私的応援団がいて、行き来しているということが大事だということだ。
 50人の応援ブロガーが多様な趣味や話題をもっているとしよう。ある人は盆栽、ある人は釣り、ある人は子育て。たとえば、「楽天広場」(楽天が開いている無料ブログのコミュニティ)でその50人が自分の趣味に応じてブログを開設したとする。その50人の「趣味」の触手を通じて、まったく関係のなかった人たちも候補者に接する「入り口」に立つことができるだろう(むろんそれは「入り口」にすぎない。本体の候補者のブログがダメなものなら、結局去られてしまうであろうが)。しかも、楽天には「ランダムに訪問する」機能があり、まったくの偶然や気紛れでたくさんの人がそこを訪れるのである。

 筆者は日本の選挙においてホームページが「つくられただけ」というケースを批判する。

 ない候補というのは、たしかに論外ということだが、だからといって立ち上げたらそれでいいというものでもない。長い間更新しないものは、有害ですらある、とぼくは思う。

 ぼくが考えるに、政治家のホームページは(1)まじめに候補者選択のためにサイトを訪問する人のために、政策(公約)と実績、かんたんにでも人柄がわかるものをのせておくこと、を基本としつつ、それを「面白くする」ためには、(2)ブログを使って生の言葉を毎日とどける、というのが一番手軽だと思う。それはキレイゴトだとやがて誰もこなくなる。それこそ、本音の自分の言葉をどれだけきちんと伝えられるかが、ブログでは勝負になるだろう。
 あとは、もし議員であれば、(3)政治の問題点を暴露したことなどを興味深く、そしてわかりやすく伝えるのは魅力になる。
 動画や映像を使えばいいと思っている人もいるようだが、そういうのはウェブデザイナーの自己満足であることが多い。議員が出てきてえんえん喋っているなどという、面白みのない動画の企画もある。もし動画や映像を使うのであれば、たとえばムダな公共事業の現場など、まさに映像としての面白さがあるものを最小限使うべきだとぼくは思う。


 ぼくは、選挙というものは、もっと世の中の大きな流れを反映して規定されていると思っている。したがって、宣伝というのはその一番上澄みのところのものでしかないと思う。「洗脳選挙」というほどに、有権者は馬鹿ではない。
 しかし、にもかかわらず、あと一歩のところを宣伝戦略が事態を決めてしまったり、いくらかでも票を上積みするということは確実に存在しているのだ。
 その関係さえ見誤らなければ、本書は役立つにちがいない。




※なおp.119の「2000年の参院選」という記述は2001年の誤りであろう。


『洗脳選挙 選んだつもりが、選ばされていた!』
光文社ペーパーバックス
洗脳選挙ペーパーバックス
2005.1.30感想記
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