猪口邦子『戦略的平和思考』


戦略的平和思考―戦場から議場へ

「イマニュエル・カントが『永久平和のために』において民主主義の地平に平和を展望してから二世紀余りたつ今日、平和は今だ恒久的なものでも保障されたものでもなく、時代の知識と外交の粋を折り合わせて守る稀少価値であり、日々の細心の管理を要する脆弱な構築物である。平和とは希望して訪れるものではなく、戦略的に深く画策し、猛烈な外交によって構築し、知識と情報の極限において守るものであり、そのような戦略的平和思考に導かれた継ぎ目のない連続的努力によってのみ、辛うじて確保されるものである」

「戦争は外交の失敗の形態であり、戦場は議場の失敗の形態である」

「戦争という手段による目的達成の困難性に関する長期趨勢をとらえてみよう。戦争とは国家の実力部隊の組織的な対応によって敵勢を破壊する活動であり、破壊する対象の可視性を前提とした国家行動であったが、ポスト近代の戦争と平和の特質は敵勢の不可視性にある。見えざる敵を戦争によって殲滅しようとすることの手段的合理性の問題は、今後の国際政治における戦争という手段の有効性についての認識を変えていく可能性があろう」

「テロリストによる大量殺戮の脅威や小型化する各種の兵器の非合法拡散を含め現代国際社会の脅威に対する、戦争に代わる解決法法はいかにあるべきか。/戦争が外交の失敗の結果である以上、問題を未然に発見して外交的解決や和解へのプロセスを構築する知識集約型の交渉力を高めていくことがまずは肝心である。また問題の予防、早期発見、平和的処理を可能にするよう、国際のルールを多国間において格段に強化し、その国内実施への国家責任を強く問うべきであり、さらに国家責任が果されていることを証明する透明性へのコミットメントを各国から引き出していく必要があろう。国際取極めを交渉する議場や、会議体の機能強化は、そのような外交努力の中核を成し、21世紀には戦場から議場へと国家間関係を仕切る場裏を転換させていかなければならない」


 本書の方法的な問題意識はだいたいここ、「序論」に集約されている。

 本書は大きく3つの部分からなり、第一部は筆者・猪口が日本大使(2002年から2年間、ジュネーブで多国間軍縮交渉を担当)として活動した体験をもとに、「議場外交の様相を活写」し、かつその経験から得られた外交や交渉における「成功するための秘訣」を考察している。第二部は、その体験にかかわり、「軍縮・不拡散への国家責任」「和解プロセスの構築」にかんする論文をいくつかのせている。
 そして、最後に補論としていくつかの本の書評をのせている。

 第一部は日記のようなスタイルで、短い文章を集めたものである。

 外交そのものは巨大な国家意志やさらに大きな歴史法則によって究極的には規定されているのだろうとぼくは思うわけだが、ここを読むと、外交の「現場」というのは、無数の人間の努力や機微の集積、戦術や戦略の交錯の場所として存在しておるのだなあ、そしてそれが意外にデカい比重をしめるのだなあ、ということを実感せざるをえない。
 「外交の場なんて、どうせ国家間の力関係ですでに決まっていることを儀礼的に決める場だろう」という外交観はここにはない。

 たとえば、冒頭に生物兵器禁止条約のとりまとめにおいて、日本が議長から「米国と非同盟諸国のとりまとめを」とお願いされる場面が描かれる。
 非同盟諸国は議長案に反対しており、しかも米国の同盟国であるという日本の立場が、非同盟諸国を鼻白ませるおそれがある。
 という難しい場面で、猪口が考えたことは「非難の応酬で、席を蹴って退出する国が出るのを防ぐには、各人の自制を引き出すしかない」ということ。ホストとしてまず、強い立場を宣言する。ホストの許可なしには発言できない、整然とした雰囲気をつくりだす。
 そしてその非公式の場では「まとめない」。「まとめないでおけば、ここで妥協したすべての国に名誉ある自発的な退路を残すことができ、議長の求心力を守ることにもなる」(p.10)

 あるいは、猪口が、「ジュネーブでの交渉では公邸を協議会食のためにフルに活用し、レストランではなく自宅で執り行うことによるホストとしての言わずもがなの存在感を確保できた場面は実に多い。大使として使える格式のあるレストランの数は限られているため、会合を行うことが漏れることも多く、また人数の予約を緊急には入れられないこともあるので、高い水準の公邸機能を有していることはかけがえのないメリットである」(p.35〜6)とのべているのを読めば、多くの国をどういう雰囲気のなかで招いて(料理もふくめ)、どう話をつけていくかということが、交渉をとりまとめるうえで、ある大きさの要素をしめることが伝わってくる。
 だから、『大使閣下の料理人』(西村ミツル、かわすみひろし)を読んでいると、「相手の大使を招いた料理ごときで外交が左右されるわけないだろ」と単純に思うわけだが、本書を読んでいると、ある段階においてはそういうこともリアリティがあるわけだなあ、と十分に感じられるようになる。

 そのほかにも、猪口は声を「外交の生命線」と心得、喉を冷やさぬ努力や、太陽を背にして表情を読まれぬ努力にまで腐心する。
 それはただ猪口の「日本大使やってみました日記」とかそんなもんではなくて、先述のように、「時代の知識と外交の粋を折り合わせて守る稀少価値であり、日々の細心の管理を要する脆弱な構築物」「戦略的に深く画策し、猛烈な外交によって構築し、知識と情報の極限において守るもの」だという猪口の外交観そのものである(ただし、一定の美文調にはやや辟易するだろうが)。

 小型武器軍縮の議長に選任され、その準備段階で「全米ライフル協会」とわたりあう話もなかなかに面白い。「全米ライフル協会」といえば、マイケル・ムーアが映画「ボウリング・フォー・コロンバイン」でその会長と対峙した、例のヤツである。
 ここでも、全米ライフル協会に、説得を試みるがやはりまったく「効果がない」(p.91)。あげく、猪口がとった方法は、「相手が説き伏せられても不名誉ではないと思える論理を発見すること」(p.91)であった。すなわち、ライフル協会こそこの場合強い力をもっていて、私など簡単にひねりつぶせる立場にいるのだと相手に投げかけ、「強い皆さんは、いかに相手をつぶすかではなく、強者らしく、いかに助けるかを考えてください。皆さんの持っている力のうち、国連に役立つ能力とは何か、私の主宰する会議で皆さんは何を貢献できるかを考えてください」ともちかけたという。
 猪口によれば、このあと、彼らはNGOのセッションで自らの「貢献策」を発表するまでに「変貌」し、議場は驚いたという。

 この技術は、「込み入った論理学や哲学でなく、自然な思考にのっとる場合が多い」と、猪口はのべる。「視点を変えて相手の立場で考え抜く」というのがその秘訣の核心だというのである。
 猪口は、核廃絶決議案にある核保有国を説き伏せる際に、「相手が受け入れられないことをまずは受け止める」という立場にたち、「一般命題としては受け入れられなくても、被爆国が言うなら受け止めるという論法もあるでしょう」という説得に出るのである。

 相手の立場で考え抜き、その心象風景にまで思いを馳せる――猪口はこの手法を米国にまでおよぼす。「日本外交は、米国追随とよく批判されるが、米国の抱く心象風景から出発することによって、日本はむしろ、米国を世界認識に引き寄せることもできよう」(p.95)として、単独行動主義で世界に横暴をふるまう米国ではなくて、自分の孤立した不安感におびえる米国にまずは心をよせてみる、ということまで言ってみせるのである(そもそもぼくは日本外交において米国の行動を「問題」と感じる回路が貧弱ではないかと思うのだが、それはおいておこう)。
 ここまで徹底すれば、「猪口流」とよぶこともできよう。

 いま書いたものは、むしろ戦略を実現するための戦術部分だと思うのだが、いずれにせよ、不可視性を増す現代の戦争において、たとえばそのもっとも危険なものの一つは「小型武器」であり、紛争関連死の最大の元凶となっておりその規制こそが「平和」のためには必要な目標となる(犠牲者は毎年50万人で犠牲の9割が非武装市民。人間社会の奥深くまで浸透できる事実上の大量破壊兵器である)。
 猪口が第二部でとりあげている問題は、そうした不可視性を増すポスト近代の戦争の条件となっている武器や兵器などの規制である。
 ちなみに、基本的なことであるが、たとえばレーニンの時代に毒ガス兵器の禁止が決議されたりしているのだが、そのことと現代の化学兵器にかんする条約とはどういう関係にあるのか、ということも、この部分を読むとごく簡単にわかるようになっている。


 補論の書評は、なかなかに侮れない面白さである。

 フランク、ボブズボーム、センなど、自分と学問的な立場の違う人間にも広く目をくばっており、なによりも短い文章のなかで印象的なエピソードを使って書いており、読ませる書評の見本である。
 『掠奪の法観念史』(山内進)への書評がとくに興味深い。
 「人間社会で、やむを得ない不可避な暴力形態と信じられていたもののうち、やがて否定され、実際にほとんど消滅したものも少なくない」(p.247)として、猪口は奴隷制や掠奪をあげ、「このような当然とされた暴力形態が、人間社会の中で、少なくとも観念的には否定されるようになっていく過程を、本書は解きあかす」(p.248)と紹介する。読む者の興味の核心をついている。そして、この猪口の文章で、「のどを切り裂いて宝石をとりだす」という『銀河英雄伝説』に出てくる掠奪のシーンが、ローマ兵士によるユダヤ人捕虜の大量虐殺が元ネタだったのか、と知る。



 最後に、第一部のおわりのほうに出てくる「常任理事国入り」への猪口の「戦略」思考もまた、注目に値するものであることを、紹介しておこう。

「これからの国際社会では、和解をもたらす能力は、国際意思決定の中心をなしていく必要がある。……第二次大戦後、世界は紛争解決や予防を第一義的な目的として国連を創設し、安全保障理事会(安保理)にその中核機能を付与した。……日本が常任理事国入りを目指す国際交渉を展開する際には、日本もそのような軍事的資質を有する証明が必要であると短絡せずに、この交渉に成功する立論とは何かを考え抜く必要があろう。……安保理の機能が平和を回復させることであるならば、和解プロセスに資する多様な政治資源を抱えている必要があり、軍事力が傑出しているという単一基準による国家群のみで構成する時代は終わったと主張できよう。/安保理改革の鍵となる概念は、多様性である。和解とは人間社会の活動の中でも最も複雑な営みだが、不可能ではない課題である。/安保理常任理事国の国家的資質や経験に多様性があれば、それだけ和解を要する辞令に投入できる要素が増え、成功する確率が高まろう」(p.103〜105)

 戦略的思考がないのが憲法9条である、というのは、岡崎久彦あたりが好んでいいそうなことである。が、安保のもとでアメリカに依存していれば外交という機能をあまり発達させずにすんできた日本外交、すなわち安保型の外交こそ、戦略的平和思考のなさの根源にほかならない。
 
 自衛隊を解消するか専守防衛型でやるかはおいておくとして、憲法9条の決意のもとで生きようと思えばそれはまさに「猛烈なる外交」と「戦略的な平和思考」なくしては生き延び得ない。




『戦略的平和思考 戦場から議場へ』
NTT出版
2005.4.12感想記
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