高木徹『戦争広告代理店』



ドキュメント 戦争広告代理店  本書は、90年代前半のボスニア紛争をめぐる「PR合戦」のルポである。
 「ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国」対「セルビア共和国中心の新ユーゴスラビア連邦」という構図で、ボスニア・ヘルツェゴビナ政府がなんとアメリカのPR会社と契約し、その情報操作・宣伝戦略によって、「セルビア=悪」「モスレム人=善」という図式を国際世論(というかアメリカ世論)につくりだすことに成功したというかたちで描かれている。

 本書を二つの角度から読んだ。



(1)メディア対策の教科書として読む


 一つは、ぼく自身が左翼という形で政治にたずさわる者の一人として、メディア対策をどうおこなうのが効果的なのか、という読み方である(または市民としてメディアをどう読み、使うか)。
 本書ではこの手の話は1〜5章に集中している。ボスニア・ヘルツェゴビナ政府(具体的には外相のシライジッチ)が頼る者もなくアメリカにたどりつき、アメリカの広告会社と手を組んで、「地道な」情報戦をはじめていくプロセスの部分である。

 たとえばこうだ。

 シライジッチの語りは短いセンテンスで構成されているので、テレビのコメントとして使いやすい。他の本でもよく語られている技法だが、PR会社の担当者(ジム・ハーフ)はこのシライジッチの特性を見抜き、それを徹底活用する。
 理屈好きのぼくら左翼は、つい、だらだらと長い「サウンドバイト」(一つひとつの発言の塊)を形づくってしまう。
 この「サウンドバイト」で思い出すのは、もちろん小泉純一郎である。

 あるいは、記者会見や発表のさいに、報道機関にとってのメリットや報道のしやすさを考慮に入れるということ。ハーフはシライジッチの決定的な会見の場に「マスコミへのお土産」として、他国に出した公式書簡のコピーを用意させた。「生の外交文書」を入手できる、という報道側にとってのメリットだ。
 また、同じことをいうときでも、「数項目のポイントを立てた新提案を行え」というアドバイスをする。実際には新味に乏しくても、記事にしやすいからである。

 同じ情報を流すにしても、たとえば米国民の琴線にふれるキーワード「環境」を入れておく、という配慮も登場する。

 ファックスの送り先(舞台は90年代初頭だ)についても会社名や部署名だけでなく、会社を動かせるキーパーソン個人へ狙いをつけよともアドバイスする。さもなくばゴミ箱へ直行だからだ。
 似たことだが、ハーフは「メディアの中で味方とすべきジャーナリストのリスト」をもち、効果的・集中的にそこへの働きかけをおこなっている。筆者の高木は、「利用されたジャーナリストたち」に取材をし、PR会社に接近されてどう思っているかをいくつか書いている。
 ハーフは、そのジャーナリストが好意的な報道をしてくれたあとではキメ細かい礼状を送るようである。
 「そんなみえすいたお世辞にのるのかよ」というツッコミもあろうが、ぼくは、平和運動にたずさわっているある文化人の講演を聞いたとき、その文化人は“記事を書いたら3通励ましがくるとかなり強気になれる。デスクにも「反応がきているんですよ」と強く出られる。だからいい記事を書いたら励ましてあげると、次もまたいい記事を書いてもらえる”とのべていたことを思い出した。

 また、メディア、とくにテレビでどういう身ぶりで登場するかという計算についても書かれている。第五章の「シライジッチ外相改造計画」がそれで、“いま血なまぐさい東欧の現場から到着した、憂いに満ちた政治家”を演出するためのアドバイスをハーフはおこなう。シライジッチは次のようにのべている。

「もし、キャスターの質問に、常に当意即妙で答えてしまえば、私がとてつもなく頭がいい、いや頭がよすぎる人間であるか、さもなければ事前に答えを用意していたのだ、という印象を与えることになります。それでは、私が普通の感覚を持った視聴者と同じ生身の人間、というイメージから遠くなってしまい、効果は半減してしまいます」(文庫版p.96)

 またしてもここで思い出すのは小泉首相、とくに郵政国会直後に自分をガリレオになぞらえた「感動的」な記者会見をした彼である。

 ボスニア紛争をめぐる情報戦において決定的だったことは、ハーフたちが、印象的な二つの単語をとりだして効果的に世論にアピールしたことだった。ひとつは、「エスニック・クレンジング(民族浄化)」、もうひとつは「強制収容所」だった。これらの単語が一人歩きし、イメージを増幅させ、だれもが連想するであろう「ナチ」の悪夢へと世論を誘導していく。
 ただし、ここでの「情報操作」は、ハーフたちが「民族浄化」や「強制収容所」という言葉を「作り出した」り単一の発信源になったわけではない、という点が重要だ。情報操作や世論誘導が、無から有を作り出す錬金術ではなく、すでにある事実のなかで、注目されはじめているものをぐいとつかみだして、一面的に誇張すること――これがポイントなのである。
 この方法は両刃の剣だ。
 事態の本質でない、あるいは事態の本質とは逆の一面を強調すれば、それはデマゴーグになるだろうし、事態の本質をつかみだして一面を強調すれば世論の正しいリードであるといえる。したがって、これ自体は、ある意味で中性的な宣伝技術なのだ。

 この、印象的なワンフレーズにのせて世論をリードしていく、という手法も、またしても小泉純一郎を想起させる。



(2)「おもしろい」読み物として読む


 本書を読みすすめていった二つ目の角度は、「情報合戦劇」としての「面白さ」である。戦争を扱う問題にこのような言葉を使うことは不謹慎だというそしりをまぬかれないかもしれないが。

 これは読み物としての「うまさ」にかかわることだ(そしてそれ自身、筆者である高木のPR戦術ともいえる)。
 ひとことでいえば、人物も事件も「メリハリをきかせた」わかりやすい陰陽で描いているということである。登場するキャラクターを極彩色に塗り、把握しやすい形象として描く。たとえば、シライジッチははじめは何のよるべもない情けない外相として、アメリカに着いてから大使館もなく公衆電話から連絡をとった人物として描かれている。これがハーフの改造によって変化させられていく、そういう物語として仕上がっている。
 また、シライジッチとハーフの「相手役」として登場する、ユーゴの首相パニッチは、いかにも好敵手らしい「やり手」感を満載させる。物語が波乱万丈であるためには、敵役は「大きく」みせねばならない。

 こうした意味において、高木のこの「ドキュメント」は、実にわかりやすい「物語」だ。
 もちろん、取材の努力によって、そうした物語性に、説得的で印象的な事実やエピソードが配置されているために、このドラマツルギーは成功しているのだが。
 したがって、読ませる。
 導入からぐいぐいと引き込まれ、一日で読んでしまった。


 左翼として、あるいはメディアにふれる市民として、情報操作の実例教科書について読む。そして、「おもしろい」読み物として読む。この二つの角度から本書を読んだ。



日本の総選挙とPR戦術


 日本の先の総選挙(2005年9月)は、刺客騒動をはじめメディアが重要な役割を果たし、その結果、これまで選挙にいかなかった20〜30代の層が選挙に出かけ、自民党を大勝させたといわれている。
 「論座」誌2005年11月号に、自民党の幹事長代理で、元NTTの報道担当課長だった世耕弘成参院議員のインタビュー(「すべてセオリー通り、です」)が載っており、実はこれは自民党が今度の総選挙でどうメディア対策をしたか、というものだった。

 世耕が自民党に来て、いかにこの党が系統的なメディア戦略をもっていないのか驚くところからインタビューは始まっている。党内にコミュニケーション戦略チーム(コミュ戦)をつくり、そこを宣伝の総合的司令塔にしてすすめていったという。

 それまで党内でおこなわれていなかった世論のトレンドの分析、刺客へのメディアトレーニング(「岐阜県に嫁ぐつもりで来ました」と言え、と指導されていた)、記者会見の「感動」をCMで再現、失言の迅速な消火(消費税増税の武部発言など)といったことが列挙されている。
 ジャーナリストの鈴木哲夫は「月刊現代」2005年11月号で、この問題を論じ(「圧勝・自民党 情報工作の全貌」)、自民党がマスコミ批判からマスコミを味方につけようとする姿勢に転じたことを、自民党にとって不利な情報をマスコミが流した場合どうするかというコミュ戦担当の一人のつぎの言葉で紹介している。

「これまで自民党が行っていた抗議とは明らかに違います。『ご説明させてほしい』と、紳士的にやりとりする。後の信頼関係にもつながるし、今後の記事で気をつけて書いてくれるようになりさえすればいいんです」

 ぼくはこうした記事を読んで、二つのことを感じた。

 ひとつは、これは『戦争広告代理店』でおこなわれているメディア対策の縮小モデルだということ。
 もうひとつは、それにしても自民党の戦略というのはこの程度なのか、意外とショボいではないか、しかしそんなものに踊らされているのか、ということである。実はもっと大がかりなものがあって、それを隠しているだけなのかもしれないが。



PRが比重を高めたことの意味


 いずれにせよ、『戦争広告代理店』であつかわれているPR戦術が、今後日本でも大きな比重をもってくることになるだろう。
 それは一般的に世の流れだからというよりも、社会の中にある「地力」の低下に反比例する形で、PRや広告が大きな比重をしめてくる、ということである。
 どういうことか。
 少なくとも20年前にこうしたメディアでのキャンペーンがはられたとしても、日本社会のなかにはそれを打ち消す力が作用したのではないか、ということである。たとえば、左翼組織が地域に頑強に根をはっているときは、ネットワークを通じて、こうしたキャンペーンをかき消してしまう力がまだ強かった。これは左翼組織だけではない。商店街や町会などをふくめた草の根の実体的なネットワークという意味である。その力はまだ日本社会には残っているが、弱まりつつあることは否定できない。
 近年、メディアではられるキャンペーンや情報の奔流にたいして、世論が振られる振り幅が昔よりも大きい気がするのは気のせいだろうか。ぼくは、その原因を草の根の実体的ネットワークの弱まり(衰滅しているというわけではない)にみるのであるが、いかがであろうか。

 したがって、メディアリテラシーを高める、というのはこうしたPR戦にたいする一つの対策なのではあろうが、もっと根本的には草の根の組織やネットワークをつくりだすことが対抗策として必要なのではないかと感じている。



池内の解説を批判する


 最後に、本作そのものではなく、文庫版の解説についてひとことしておきたい。

 講談社文庫版の解説を池内恵(大佛次郎論壇賞を受賞したアラブ研究者)が書いている。情報操作とは偽情報を流すことではなく事実を流すことによって成立するのだ、などという点をはじめ、同意できる点は少なくない。
 にもかかわらず、池内が次のようにのべているのは、まったく余計なお世話というほかない。

「そもそも日本のノンフィクション界は国際政治を決定づける場面や瞬間をほとんど扱ってこなかった。そして、たまに国際問題に目を向けると、きわめて分かりやすく単調で劇画的な善悪論や勧善懲悪論に流れてしまう。善玉とされるのは通常『発展途上国』『弱者』『被害者』『少数派』『中小企業』『消費者』といったものである。悪玉とされ糾弾されるのはほとんど常に『国家』や『大企業』であり、『先進国』そして何よりも『アメリカ』(あるいは日本)である。それらが裏で糸を引く『黒幕』と仮定され、その邪悪な意図と操作を暴く、という分かりやすい図式が用いられる」

 意外にこの解説のまさにこの部分が、本作のレビューや評論に「影響」を与えているので、一言しておくものである。
 池内はそれまで高木の用いた「方法」について論じていたはずなのに、いつの間にかここでは高木が報じた「中身」にダブらせて論じている。

 勧善懲悪の図式が高木の著作でとれなかったのは、ボスニア紛争の現実の構図が単純な勧善懲悪の構図になっていないからであって、高木がいついかなるときでも勧善懲悪の図式を拒否する「方法」をとっているかどうかとは別の話である。

 国際政治が複雑で錯綜しており、意図だけをみれば被害側とされる国家でさえもどす黒い意図をもっているのはよくあることだが、にもかかわらず結果的に支配や侵略の構図は厳然と存在している。そのことを忘れたら、つまらない相対主義、もしくは加害の免罪にしかならないだろう。どう豊かにその構図を描くかが課題になるのであって、池内のこの一文は構図そのものを叙述から消せという脅迫にしかみえない。

 第二次世界大戦において中国側がプロパガンダの意図をもっていたことをもって、「情報戦」だという把握を前景化し、日本の侵略という歴史的事実を希釈しようとする、それこそ手のこんだプロパガンダに似ている。

 まったく余計な一文だ。





『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』
講談社文庫
2005.11.14感想記
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