『千と千尋の神隠し』を見て

1. なつかしい風景

 私はテレビの「笑点」を見ると泣き出す子どもだった。
 「ほれ、ケイ(私の名)が泣くぞ。早よ、消せ」
 親が大騒ぎして消した。
 「笑点」が怖かったのではない。「笑点」のオープニングのアニメが怖かったのだ。あのオープニングでは、歌丸やら菊蔵やらこん平やらが、いささかリアルな似顔のアニメになって登場する。それが怖かった(とくに小円遊の顔が怖かった)。

 なぜか。

 私の親せきの家は、古びた家で、その家に遊びにいくたびに、怖かったものがある。柱にかかった、恵比須と大黒の顔だ。木彫りの黒い顔が、にっこり笑っている。
 湿った、薄暗いなかに、その笑っている顔がぼんやりと浮かんでいる。いまでも、その恐ろしさを、湿気とともに思い出すことができる。能面もそうだが、日本の仮面の顔というのは、笑っていればいるほど怖い。生きているようでもあり、そのくせ心が読めないような不気味さがある。
 「笑点」のオープニングの噺家たちの似顔絵は、その恵比須・大黒の顔にそっくりだったのである。たしか、オープニングのラストは、噺家たちが七福神に扮していた絵だったのではないだろうか。ますます似ている。
 『千と千尋の神隠し』(以下『千と千尋』)で、はじめに道祖神のような石像が口を開けて笑っているのを千尋が怖がるシーンが出てくる。「ああ、同じだ」と思った。


 私の田舎のお盆は、夜、提灯に灯りをつけ、それをもって村外れの墓に行く。集落をはずれると、すぐ広大な田んぼが広がり、真っ暗だ。はるか向こうの方に、街の明かりが見える。ちょうど海原の向こうに島や陸の灯が見えるのと同じである。
 また、私は小さいころ、親の植木の買い付けに着いていって、夜行のトラックに乗ることも多かった。
 ふだんは、夜九時には寝ていたし、外の風景を夜見ることはない。

 真っ暗の中に、ぽつんとともる街灯。
 淋しげなバーやスナックの看板の明かり。
 海のように暗い田んぼ。

 走る車の窓にアゴを乗せてぼんやりと眺めていると、そういう淋しげな景色が、私の後ろに流れていった。
 『千と千尋』のなかで、千尋があわててもとのところに戻ろうとするが、すでに海に隔てられ、その向こうにぼんやりと明かりのともった街が浮かんでいるシーンがある。そこにたどりつく道中でも、にぎやかなはずなのになぜだか淋しいような商店街、その暗がりに浮かび上がる提灯の明かり、なつかしいような看板が無数に出てくる。
 「ああ、ここも同じだ」と思った。

 こういう記憶は、いまでも夢に出てくる。しかも、淋しさや恐ろしさとどこか隣り合わせの夢である。夢を見終わって、けっして不快ではない。その淋しさや恐ろしさは、どこかなつかしいような気持ちでくるまれていて、「もう一度あの夢みたいなあ」とさえ思わせる。あのころの記憶は、夢と現実の境もあいまいである。

 ある作家は、この映画の感想を次のようにいっている。
 「初めて見る田舎は、なるほどこんなふうに時に心細くなるほど驚きに満ちた不思議の街だったように思う」
 また、別の作家は次のように言う。
 「私は幼い頃下町で育ったので、縁日にもよく行った。/湿った夜の闇に浮かぶ、アセチレンガスの橙色の灯火、ざわめき、ゆれる金魚。夜に浮かぶ島のような縁日の賑わいからすこしはずれた路地の奥に、縁日の主人公のお地蔵様がひっそりと立っておられた。…私の心の深く根をはっているお地蔵様は、あの湿った闇の中で、ずっと頬笑んでいる。そして、心の底で変容した風景の中では、あのお地蔵様の向こう側には底のない異界の闇がある」

 私が、この映画をみて心につよく生じた感覚は、この種のものである。くり返しとりあげることになるが、千尋が最初にハクに言われて元の世界に戻ろうとしたときの心細い風景──明かりのついていた街が真っ暗になり、島が浮かぶように闇の中に明かりが見える──をみたとき、肌が粟立つような、さびしい、しかしなつかしい感覚に襲われる。
 ある評論家は、映画に出てくる「看板」を見て、「つげ義春の『ねじ式』みたいだ」といったが、まさに同じものを思い出した。劇団少年王者館なども、好んでこういう懐かしい世界を舞台にする。
 子ども時代の心象風景を、幻想的に蒸留して再現して見せたのが、『千と千尋』の背景なのである。それは心地よいオブラートのようなものにくるまれているイメージである。



2. 子どもの内的世界

千と千尋の神隠し (徳間アニメ絵本)  私が子どもの頃、寺の銀杏にのぼっては、寺の住職や老婆に火がついたような勢いで怒られた。住職は坊主頭だからタコのようでもあり、それが赤くなっている様は赤鬼のようでもある。その住職の母親である老婆はすでに腰が曲がっていたが、その怒りの心底が見えず、ただただ怒っているようにしか見えない、得体の知れぬ、ヤマンバのようなものだった。
 近所には、ヤギを飼っている家が一軒だけあった。その家はもうあばら屋で、生い茂るツルや草のなかに埋もれていた。そこに一人で住んでいたやさしそうなおばあさんの顔が、ヤギの罪のない顔とダブって思い出されるのである。
 となりの校区にある団地にいくと、同じ年齢の子どもたちが襲ってきた。子どもは残酷だから、捕まれば殴られたり、つるし上げられたりする。相手が自転車で追ってくると凍り付いたような恐怖にとらわれて友だちみんなで逃げまくった。友だちと違って「団地のやつら」は、その心の中が見えない。夷──異民族との戦争とはこんな気持ちなのだろうかと思い出す。

 十歳というのは、思春期、子どもから大人への過渡期がはじまる直前、子ども時代の最後の時期である。『千と千尋』のなかで千尋が出会った異世界とは、まさに十歳の子どもが見た「世界」である。「親と近所の仲良し」という自分中心、絶対安心・安定の世界が壊れはじめ、世界・世間とはじめて向かい合う。経験や理論にもとづく認識の枠組みをもたない子どもにとって、世間とは、まさにあの千尋が出会った異世界そのものにちがいない。
 そして、これはこの映画ですでに方々で論じられていることではあるが、ある小児科医の次の発言が、当を得ている。

 「子どもはそれまで親と一体化して守られていたのが、世界には他の人間たちがいることに気がついていくんです。家から学校までの通い道で、商店街があり、いろんなおじさんおばさんたちがいて、ちょっと意地悪だったり、機嫌が悪かったり、でも大事なことを教えてくれたりする。いろんな年齢の人がいて、それぞれまったく違った考えを持って動いている、それは自分ではどうにも出来ないことなんだけれど、そこで『世間』に出会って、対応するすべを学んでいく」

 ある種の職人は、その技巧ゆえに、子どもには手が八本もあるようにみえるだろう。その職人、ガンコジジイは、両親のように話が通じなくて、子どもから見れば気難しい化け物なのだろう。そして「できないならはじめからやるな!」とか「はじめたら、最後までやれ!」とか、ぶっきらぼうに労働倫理を教えてくれるのだ。
 また、近所の強欲ばばあは、子どもの心象風景のなかでは、頭だけが異様にデフォルメされ、要求をちっとも飲んでくれない、魔女のように見えるにちがいない。そして空を飛んで何でもお見通しのように、昨日自分が買い食いしたことも知っているのだ。

 気心もしれて何でも要求をのんでくれる両親とは違う、カエルやナメクジのような、見たことも聞いたこともない存在、化け物たちによって世界は構成されていると思うのだ。
 それから、世の中には、わけのわからない決まり事がいっぱいある。「橋を渡るまで声を出してはいけない」とか「どんなに断られても働きたいと言い続けろ」とか。子どもにとって、それは外側から押しつけられた、勝手なルールに満ち満ちた世界なのだ。「年上の人にあったらあいさつをしなさい」とか「お隣の悪口をいっちゃいけません」といったことも同じなのだ。

 絶対だと思っていた両親も、実は汚かった。豚のように汚い。両親が、あるいはうちの担任が、セックスをして(子どもをつくって)いることを知ったとき、私は激しい衝撃を受けた。ドラマで出てくるような裸で体をからめあうなんていう行為は、美男美女にしかゆるされないと思っていたので、両親になんとなく不信感、フケツな感じを持ったものだった。

 やがて、クモの化け物だと思っていたのは、実は気のいいオヤジであったり、強欲な魔女だと思っていたのは、自分の子どもにだけは甘い、どこにでもいるような婆さんだったりすることが、だんだんと見えてくる。

 だから、あの『千と千尋』の異世界とは、まさに子どもの見た、子どもの心象風景のなかにある世界なのである。 あの映画を見ると、見ていた大人は、シュルシュルと音を立てて背丈を縮ませ、子どもに戻ってしまうのだ。

 私は大笑いしてしまったのだが、映画のパンフレットをみるとアニメの登場人物の絵と並べて声優の写真がおいてあり、その声優たちの顔が、湯婆婆役の夏木マリを頂点にして、みんな微妙に登場人物の化け物たちに似ているのだ。「全然似てない」と謙遜するハク役の入野自由でさえ、目の切れ具合がそっくりなのである。
 くり返すが、この映画の中に出てくる異世界は、子どもの心象風景のなかの「世界」そのものであり、また、大人が子ども時代を思い出したときに、その記憶をくるんでいるゼリー状の、心地よい何かである。



3. 余談・スカトロジーと子ども

 だとすれば──余談だが──、この映画で出てくる、スカトロジー的な要素も、また私たちの子ども時代の記憶の核心を形成するものの一つだろう(そしてそれは大人の記憶の中では完全に抹消されているだろうが)。

 私が小学生の時、こういうカマボコのCMソングがあった。
「♪潮の香りにむせるよな〜 忘れられない野崎 の・ざ・き・よ〜」
と、クールファイブが磯で唄うのである。野崎とは野崎のカマボコという、商品名である。私は小学生時代、友だちといっしょになって、この歌の替え歌を歌って喜んでいた。いまでも覚えている。
「♪クソの香りにむせぶよな〜 忘れられない野崎 の・ざ・き・の〜……」
とそこまで唄って、最後に
「クソ入りカマボコ!」
と大声で叫び、そこで友人たちと腹をかかえて涙を流しながら笑い転げたものである。

 幼少期はスカトロジーの時代である。

 『千と千尋』では、オクサレサマが汚物を流し続け、湯船に浸かってから、千尋がその汚物の中を歩き回るシーンがある。見ていて、執拗なほどに、汚物の質感がていねいに描写されているという印象を受けた。きれいな湯がすぐに粘液質の汚物に満たされていく様子や、その汚物の中で足を必死で抜こうとする千尋の仕草に、それを感じた。同じく、カオナシが吐くシーンも、リアルだった。追いかけている途中で吐くカットなど、昨日見た新宿の酔漢の嘔吐場面そのものであろう。ただ、アニメ的な処理が施されているので、悪夢のようなシーンにはなっていないが。

 ある批評家も、このシーンをとりあげて、
 「今度の映画ってすごく『悪趣味』でしょう。その最大があのオクサレサマ。スカトロ、糞尿、ヘドロのイメージです」
と述べていた。「スカトロジカルな描写が多い」と言った文学者もいた。
 このスカトロもふくめて、あの異世界は子どもの内的世界なのである。



4. 子どもの中に内在している力

 宮崎駿は、パンフレットの中のインタビューで次のように言っている。

 「僕らの日常ってカエルやナメクジのようなものじゃないですか。自分も含めて難しいことを言っているカエルのようなものだと思います。…このスタジオジブリという会社で10歳の女の子が働かねばならなくなったとします。それは親切な人もいじわるな人も含めて、カエルの大群の中にその子が入っていくようなものですよ」
 「僕は千尋に、あの世界にもきれいな所があるんだということを分からせたかったんです。魔物が住んでいるただ異常なところだという風にはしたくなかった。世界というのは常に美しいものを待っているし、雨が降れば海ぐらいできる。そういう風にあの世界を作ったんです。この世界そのものがそうですから」

 また、こうも言っている。
 
「僕はあの異世界を日本の近代だと思ってやってた」

 建物はコケ脅しのように原色でケバケバしく、派手だ。働かない者は豚にされて食われてしまう。強欲な主人に名前を奪われて支配されながら、楽しかったり苦しかったりして、みんな日々労働とお金のことを考えている。いつかこんなところ辞めてやる、と思いながら。そして、ときには実体のない、顔のない、何でも呑み込んでしまう闇のような欲望が紡ぎ出すカネに踊らされ、その排泄物をひきうけ、そのカオナシを満たすためにモノを送り、ついには手に負えない化け物に育て上げてしまう。
 千尋はその「世界」に放り出される。
 初めはハクがいなければ何もできずに震えているだけだった存在が、やがて先輩のリンや釜爺などの助けを借りて、ハクを救うほどにたくましくなっていく。もっとも宮崎自身は、

「この映画は千尋の成長物語ではない」

と言い、
「けれども、現実がくっきりし抜きさしならない関係の中で危機に直面した時、本人も気づかなかった適応力や忍耐力が湧き出し、果断な判断力や行動力を発揮する生命を、自分がかかえていることに気づくはずだ」
と言う。

 世界で生きていくためには自分がいまと違う何者かにならなければならないのではなく、いま自分の中に、すごいものが眠っているのだということを子どもたちに訴えたいようである。それをファンタジーの力を借りて解放しようというのだ。子どもたちには、計り知れない励ましになるに違いない。

 私は、「赤旗」の投稿欄を注意深く見ていたが、若い人たちはそのメッセージを正面から受け取っている。

 「注目すべきは、千尋の表情の微妙な変化で、物語が進むにつれ、その顔つきはたくましいものになっていきます。この映画には何か訴えるものを感じ、自分を見つめ直すいい機会になりました」(十五歳)
 「千尋が精神的にだんだん強くなっていくのがとても良かったと思います」(十八歳)
 「この映画を見つつ、自分の十歳の時を思い出してました。どこにでもいそうな千尋のキャラがいいですね」(十六歳)

 これは大人も同じだと思う。現実との対決に疲れ、それを変えきれない自分にほとんどの人が苛立っているはずである。それをファンタジーのなかで解放し、何か励まされるような気持ちになって家路につくに違いないのだ。



5. 宮崎駿とペドフィリア

 今回、『千と千尋』についての評論でいちばん刺激的だったのは、「日本的空間において、リアリティを支える最も重要な要因は、セクシュアリティである」という斉藤環の評論だった。

 斉藤は、次のように言う。

 「これほどあからさまなペドファイル(幼児性愛者)保因者の排泄物を、それにもかかわらず見事な物語として食べさせられ続けること。それは果たして不幸なのか幸福なのか。…最新作『千と千尋の神隠し』はどのように好意的に見ても『少女のセクシュアリティ』をライトモチーフにしている。それは自覚されないものだけに、いっそう効果的に表現され得るだろう。…宮崎駿はペドファイルだ。…しかも彼は不能のペドファイルだ。もちろん彼の欲望は、これまでも一度も実現されたことはない筈だし、おそらくこれからもないだろう。そのおかげでわれわれは、現代にはほかに類例のないような欲望の昇華物、すなわち彼の作品群を享受することができる」

 「宮崎はいたるところで、欲望の痕跡を抹消してまわろうとする。『あえて美少女にはしなかった』といわれる千尋の顔を見よ。それはたんにアニメ美少女ではないというだけで、むしろ少女の生々しいセクシュアリティ表現としては十二分に成功して入るではないか。…なぜ千尋のむき出しの背中を描く必要があるのか」

 そして、ディズニーのムーランが性的に去勢されていることを指摘しながら、次のようにも言う。

 「おそらく手塚とは異なり、ディズニーを仮想敵とみなす宮崎は、みずからの国内における圧倒的な優位が、そのセクシュアリティ表現にたぶんに依拠するものであることを、もっとはっきり自覚すべきではないだろうか。同時にそれが、国際的受容の障壁であるかもしれない可能性についても」

 まったく別の批評家たちも、欄干に足を出している千尋の動きや、腹掛けのようなものを着て背中を出しているシーンに「エロティシズム」を感じるという。また湯婆婆がカオナシのいる座敷に千尋を差し出すシーンは、遊女が初めて客を取らされるような「エロ」を感じると言っている。
 さらに別の文芸批評家は、

 「宮崎が想定しているのは戦前の日本、帝国としての日本であり、油屋という湯屋は巨大な遊郭を思わせる。そこに訪れる客はいずれも男である。湯婆婆と契約して『千』という源氏名を与えられる千尋は身売りをした芸者見習いのようであり、実際千尋がオシラサマと一緒にエレベーターに乗る場面はかなり際どいエロティシズムが感じられる」

と言っている。

 精神病理学者も言う。

 「宮崎は、一貫して禁欲的なまでに純粋なペドファイルであった。…虚構の少女に向けられた欲望こそが、作者に生命論(あらゆる現世の仮象はただひとつの本質的なもの=生命の発現であるという立場)の断念と、そこからの出立を強いてやまない。…宮崎駿の倫理と創造性は、彼が倒錯者である限りにおいて保証される。このことを無視したいかなる擁護も、彼を生命論の陥穽から救えないだろう。われわれが宮崎作品を享受することは、彼の不能の愛に感謝することにおいて、はじめて可能になるのだから」

 宮崎駿自身も、記者会見で、カオナシの歌の中に千尋を「食べちゃいたい」という歌詞があり「これはお前だと言われた」というギャグをとばしている。
 以上はすべて男性である。興味深いことに女性は別の感想をのべている。ある女性の英米文学者は、
 「年齢も十歳と…幼い。色気や隠微(ママ)さはほとんど感じさせない」「主人公が十歳の少女というところが、性的なニュアンスや妙な生々しさを感じさせなくていい。むしそさわやかな印象があって好ましい」
とまったく逆のことを言っている。



6. 歴史精神を失った民族はどこへ行くのか

 私は、「ペドファイル」「性的不能」、そして幼児期の揺籃的なまどろみの「異世界」という三つのタームを聞いて思い出したことがある。

 宮崎「勤」である。「駿」ではない。

 ジャーナリストの吉岡忍は、宮崎勤の精神鑑定書から判断して「おそらく宮崎勤は性的不能者だった。…性的不能者だからといって、性的関心や性欲がないわけではない」と結論づけている。そして宮崎勤は、ヒーローものや怪獣ものの「甘い世界」(宮崎勤の言葉)に浸っていた。

 「趣味のあるものを集めた。怪獣とか。自分の部屋に入ってしまえば。趣味というのじゃなくて、おじいさんと同じことをやったんだ。…内容は関係ない。おじいさんの真似なんだ。おじいさんと同じことをやっていれば甘い感じなんだ」

と、宮崎勤は言っている。先に挙げた三つの要素が顔を出している。
 吉岡は同じ本の中でこう言っている。

 「いま、ここで生きているという生理的リアリティーは大切だが、それを背後から励ますものがない。歴史の強靭な精神につなぐものがない。ここから先へ一歩を踏みだすための楽観の根拠がない。/いまここだけの関心。スライスされた現在にしか広がっていかない意識。それは過去から解き放たれて自由だろうが、どこに向かっても、どんな速度でもはじけ飛んでいけるという意味で、やっかいなものでもある。ときとして危険でもあるだろう」

 宮崎勤は、日本に原爆を落とした国の名前を言えなかった。「博士」と学校でよばれる知性をもちながら、自分がいまここにいる根拠である歴史と社会には、興味をまったくもたなかったのである。

 他方、宮崎「駿」は、パンフレットの冒頭でこう述べた。

 「子供達はハイテクにかこまれ、うすっぺらな工業製品の中でますます根を失っている。私達がどれほど豊かな伝統を持っているか、伝えなければならない。/伝統的な意匠を、現代に通じる物語に組み込み、色あざやかなモザイクの一片としてはめ込むことで、映画の世界は新鮮な説得力を獲得するのだと思う。…ボーダーレスの時代、よって立つ場所を持たない人間は、もっとも軽んぜられるだろう。場所は過去であり、歴史である。歴史をもたない人間、過去を忘れた民族はまたかげろうのように消えるか、ニワトリになって喰らわれるまで玉子を産みつづけるしかなくなるのだと思う」

 民話を現代的意匠に変え、歴史をこの作品の中に埋め込もうとする明快な姿勢が感じられる文章である。宮崎駿を支えているのは「強靭な歴史精神」だ。
 一方は、日本中の人々、とりわけ子どもとその親たちから、おしみない賞賛をおくられ、天才と称せられている。他方は、まったく同じ人々から、犬畜生にも劣る貪婪な殺人鬼と罵られ、恐れられている。根底にもっているエネルギーは、人間ならかかえてしまうかも知れない似たようなエネルギーである。しかし、歴史と文化の回路を豊かに持つか、まったく持たないかで、ここまで大きく運命が分かれてしまうのかと、いまさらながらに痛感した。□

メニューへ


参考文献:
●「ユリイカ 詩と批評」2001年8月臨時増刊号 「宮崎駿 [千と千尋の神隠し]の世界 ファンタジーの力」青土社
●吉岡忍『M/世界の、憂鬱な先端』(文芸春秋)
●「千と千尋の神隠し」公式パンフレット
●日本共産党中央機関紙「しんぶん赤旗」