斎藤環『戦闘美少女の精神分析』

 高校のとき、「現代社会」(教科名です)の教師が、「なぜトンカツ屋の看板のブタは、自分が食べられるというのに、ニコニコしているのか」という問いを授業中に発した。

 「はい。それは、食事をする人に、殺されたブタにたいして罪悪感を覚えさせないためです」

という、いま思い出しても転げながら悶えてしまうほど、恥ずかしい回答をしたのは、わたしです。
 教師が用意した回答は“トンカツへの食欲と来店の歓迎を同時にあらわせるアイコンだから”というものだった。広告の非論理的な構造を教えようとしたのだ。関係ないけど、そーいやー、この教師、やがて「やっぱりヘーゲルと道元をやりたい」とかいって、大学院にもどっていったなあ。

 閑話休題。

 アニメや漫画にあふれかえる、戦闘する美少女――セーラームーンやナウシカ、ふるくはサファイア王子、いまならガンスリンガーガールというのは、なんなのか。斎藤環は、第6章「ファリック・ガールズが生成する」を中心に、その解明をおこなう。

 〈戦闘美少女〉とは、性と暴力という、欲望の集約表現ではないのか――

 という、ぼくのタンジュンな思いつきは、斎藤環によって、まず入り口で大声で叱られる

「戦闘美少女という表象物が、あたかも『セックス&ヴァイオレンス』の短縮形として、この『縮み志向』の国民性にフィットしたのだ、などというナイーヴな見解を十分に封じておく……。こうした解釈は、それなりに妥当性をもつようにみえるだけにたちが悪い」

 はい。すいません。

 正直な話、本論である第6章は、精神分析のジャーゴンにまみれていて、ぼくには、ついていけなかった。ページのそれぞれに配置されたテーゼはどうにかこうにかわかるのだが、それを導き出す論理のほうはラカンなど読んだこともないぼくには、追っていくのがやっとだ。辞書をひいたり、ネットで検索したり、あるいはラカンの入門書などを買ってきたりしてどうにかこうにか意味をつないでいく。しかしその努力も269ページで精根尽き果てる。同ページから274ページまでの5ページは、もはや何をいっているのかよくわからないのだ。
 斎藤の本書を〈戦闘美少女〉を論じるさいの参考文献にあげる人がいるけど、どれくらいの人がわかっていってんのかなあ。ひょっとして、わからないのはぼくだけ?

 それでもわかる部分だけをひろって、感想を書いてみようではないか。

 斎藤による、〈戦闘美少女〉生成背景の考察は、こうである。

 「基本的にハイ・コンテクスト性を特質とする、わが国の表象文化の枠内において成立した漫画・アニメという表現形態は、無時間性、ユニゾン性、多重人格性などの要因をいっそう純化することで、きわめて伝達性の高い表象空間となり得た。こうした想像的空間は、自律的なリアリティを維持すべく、なかば必然的にセクシュアリティ表現を取り込まざるを得ない。『自律的』という意味は、それが受け手の欲望の単純な投影であることを離れて、その表象空間内で『自律』する欲望のエコノミーが成立している、ということでもある。このとき受け手の欲望がヘテロセクシュアルなものであるほど、想像的な『表現された性』はそれを乗り越え、逸脱する必要がある。漫画・アニメの多形倒錯性と、受け手の欲望の健全性というギャップは、概ねこのような視点から整理することが可能だ。戦闘美少女というイコンは、こうした多形倒錯的なセクシュアリティを安定的に潜在させうる、希有の発明である」

 つづいて、斎藤は、〈戦闘美少女〉というイコンそのものへの分析へとはいっていく。〈戦闘美少女〉とはペニスと同一化した少女=ファリック・ガールであるとして、「ファリック・ガールには外傷がない」「ファリック・ガールの戦闘には十分な動機が欠けている。……徹底して空虚な存在なのだ」と特徴づける。

 斎藤の結論は、こうである。
 「われわれが共有する幻想とは、いまやほとんど一つのこと、すなわち『われわれが大量の情報を消費しつつ生きている』という幻想のみである」として、「…メディア空間に晒された人々が『情報化幻想』にひきこもろうとするとき、そこにリアリティの回路を開くべく」ファリック・ガールが顕現し、「われわれが彼女たちを欲望した瞬間、そこに『現実』が介入する」。「過度に情報化を被った幻想の共同体で、いかにして『生の戦略』を展開すべきか。それがいかに『不適応』に似て見えようとも、ファリック・ガールを愛することは、やはり適応のための戦略なのだ。……ファリック・ガールを愛することは、自らのセクシュアリティという『現実』に自覚的であるために、われわれ自身が選択した一つの身振りにほかならないのだ」。

 そして、「私はおたく的な生の形式を全面的に肯定する」。

 ぼくにとっては、「ペニスに同一化した少女」、つまり、なぜ〈戦闘美少女〉がファリック・ガールであるのかというくだりは、とりわけ難解で、そこから得るものはほとんどなかった。
 ぼく的には、日本的な空間を支えるリアリティがセクシュアリティにあり、多元的な現実である虚構のなかでリアリティを確保しようとおもえば、それはどうしてもセクシュアリティを導入しなければならなくなる、という指摘のみが、自分の世界観をかきまぜるうえでは刺激的であった。
 むろん、個別には、漫画の「多重人格性」(小説のように複数の人格のポリフォニーではなく、作者の人格を分裂して配置している)の指摘など、うなずけるところは少なくなかった。つげ義春などは、一つの作品ではなく、作品の系統ごとに分裂した人格を配置しているのではないかと思う。


 けっきょく、斎藤の立論は、なぜおたくの虚構世界が「多形倒錯」かという問題には一定答えてはいても、「なぜそれがとりわけ〈少女〉というペドフィリア的方向へ収斂するのか」という疑問には説得的に答えていないように思う。

 斎藤は、「はじめに」で「日本人のロリータ指向」という議論を「倫理以前、科学未満の誤謬」だと切って捨てている。
 だが、よくよむと、斎藤が切ってすてている議論は、それほど一般的な議論だろうかといぶかしく感じる。斎藤が紹介した議論は次のようなものだった。「そもそも日本女性は幼稚である。彼女らは子ども向けの玩具を愛好し、あるいは少女のような甲高い声でしゃべる。こうした幼稚な女性に囲まれて男性も幼稚化する。一般的に日本人は精神年齢が幼く、性的対象にも未成熟や多形倒錯の要素が入り込んでしまう。……日本人男性は性的な抑圧が強いので、成人女性を前にすると萎縮してしまう。彼らは意のままになる幼女にこそ安心して欲望を向けられる」。
 この議論のうち、斎藤が批判のアクセントをおいたのは、「日本人特殊論」、民族論としてこの問題を論じようという思想的営為の貧しさだ。

 なるほどこれには、ぼくもまったく同意できない。

 だが、このような立論が一般的なものだとはとうてい思えないのも事実だ。
 斎藤は、まず架空の“仮想敵”を設定して議論を始めてはいないか。これは斎藤の議論につねにつきまとっている方法で、批判する設定を非常に狭く仕立てあげたうえで、批判を開始するのだ。(たとえば、おたくの「現実への不適応」という問題でも、「不適応」という言葉や、現実への違和感の問題を非常に狭く扱っている印象を受ける)

 たしかに、この分野の議論はさまざまな俗論にとりまかれている。
 たとえば、宮崎勤事件について、あれはオタでロリな、現実と虚構の区別を失った男の特殊な犯罪だったのだという言説。ぼくは、この俗説について、吉岡忍『M/世界の憂鬱な先端』でその俗説が(一定の真実をふくみつつも)基本的には謬論であることを理解することができた。
 ところが、斎藤の議論を読んでもそういう爽快感はわきおこらない。むしろ、はぐらかされたような印象さえ受けるのだ。

 斎藤が、みずからの立論に議論を流し込んでいくさいに、ポイントとなり、じっさいに斎藤自身が「決定的」だといっているのは、「おたくが実生活で選ぶパートナーはほぼ例外なく、ごくまっとうな異性である」という事実である。「『現実に』倒錯者ではない」、だから虚構と現実の混同などもされていない、というわけである。おたくは多重見当識(「わたしは都知事で資産数十兆円だ」といいながら、同時に施設の職員の指示にしたがって作業をしているような患者を二重見当識という)である、というわけである。

 ぼくは、おたくが単純な「現実−虚構の混同」はしていないし、多重見当識であるということには、同意する。しかし、幼女というペドフィリアな方向へ欲望が収斂していくという事実のなかに、斎藤が嫌悪しているはずの俗論が、面目を保つ余地は果たしてないであろうか。

 ひとは、「ごくまっとうな異性」と「ごくまっとうな」つきあいをしながらも、ゆがんだ欲望をかかえつづけることはできる。むしろ、生身の身体と精神をもった異性の〈豊かさ/わずらわしさ〉を十分に知っている「大人」であるからこそ、その逆の、純化された形象を妄想の中に抱き続けることはありうるではないか。
 だからこそ、女性にたいする身勝手な崇拝や無垢さを求めることは、おたく的虚構世界のひとつの定番となっている。幼女への形象の収斂は、やはり「意のままになる」というゆがんだ欲望と密接に結びついているという説明のほうがはるかに説得的だ。むろん、それだけではない。たとえば、ナウシカやセーラームーン、ベルダンディーのような神的形象は、女性への崇拝、無垢への拝跪のようなものと結びついている。しかしそれはいずれにせよ、現実の女性がそのままの形では絶対に存在し得ない純化をとげたものであることはうたがいない。
 多数のおたくが、幼女に現実に手を出さないのは、一つには、虚構と現実の区別がきちんとつき、かつ欲望の管理ということを十分に意識している「オトナ」であるせいだが、それ以上に、現実の幼女や少女は決して純化されたものではなく、欲望が起こりようもないからである。つまり、おたくが欲望しているものとはまるで似ても似つかぬ存在が現実の幼女なのである。
 現実の人間であるということは、妄想の純粋さ=貧弱さにくらべれば、はるかに豊かで、わずらわしく、また、やっかいなものである。意のままにならずに泣くし、自分を愛してなどくれない。病気にもなれば排泄もする。

 だから、ぼくは、おたくのかかえる欲望に「不健全」さをみないわけにはいかないし、現実世界でおきている少女買春や児童ポルノの氾濫といった傾向とまるで無縁なものだとはいえないと考える。なぜなら、少女買春や児童ポルノとは、少女の生身の身体や精神と深くきり結ばずに(行きずりでセックスするだけ、写真で見るだけ)、妄想のままでいられる〈少女〉を求める行為であり、それは純化された少女や幼女を求めるおたく的精神のありようのすぐそばに立っているからである。


 ただ。
 こうしたおたく的多重見当識を生きるということは、正直ぼくにとっては、「他人事」ではない。 

 斎藤は、おたくとマニアを峻別し、
 「・虚構のコンテクストに親和性が高い人
  ・愛の対象を『所有』するために、虚構化という手段に訴える人
  ・二重見当識ならぬ多重見当識を生きる人
  ・虚構それ自体に性的対象を見い出すことができる人」
という特徴づけをあたえる。

 いずれも、ぼくにあてはまる。ぼくは立派な「おたく」であろう。
 とりわけ、女性や女性の知性を崇拝するような妄想とは縁が深い。ペドフィリアにたいしては他人事のように批判できても、このような欲望を批判されればひとたまりもない。
 ぼくは、妄想そのものは管理しながら存続させるべきものなのか、それとも現実との交渉を深めることで完全に根絶できるものなのかは、判断がつかない。だがやはり、後者は理想にすぎないであろう。欲望表現としての漫画なしには生きられないぼくは強くそう思う。だからこそ、われわれは、現実と虚構の区別の問題について、十分に意識的でなければならないし、欲望を管理せず現実へとだらしなく越境させる企てを警戒しなくてはならないのだ。「われわれは現実と虚構を混同したりはしない」などとうそぶく声をにわかに信じてはならない。

 だとしても、現実そのものを変革して、この欲望のゆがみを解消していくことはどうしても必要だと考える。おたくであるぼく自身がそのように思う。

 斎藤は、「虚構と現実」の区別の無意味さを説くことに必死で、しかもそれは唯幻論ではないかという疑惑をあくまで拒否する。自らの立論を、「情報化社会では虚構と現実の区別はつきにくくなる」という下世話な意見と画然と区別するために。斎藤にとっては、過度に情報化された社会(斎藤はこれを「幻想」だというが)のなかで、リアリティを見い出す適応の戦略が「おたく的生」であり、それはあらゆる「普通人」が神経症患者である以上、普遍的な生き方なのだ。

 古典的なマルキストであるぼくにとっては、物質的世界はやはり唯一的であり、根源的なものである。
 たしかに、斎藤のいうように、現実のなかにリアリティがあり、虚構のなかには反リアリティしかないと考えるのは、大きな間違いだとぼくも考える。岡崎京子『リバーズ・エッジ』の感想のところで書いたのだが、岡崎的苦悩とは、現実が膜にへだてられたような感覚におそわれ、そのリアリティを獲得できずにもがく苦悩であり、一種の離人症的な苦悩である。現実の中にリアリティが感じられないという「現実」がたしかに存在している。
 そして、虚構のなかに、リアリティが発生しているというのも、「情報化社会」のなかでこれまた事実である。虚構とはわれわれを日常から解放し、そこから逆に現実を把握させるという作用をもっている。だからこそ、古今東西、虚構という形式は飛躍的な発展をとげてきた。この虚構が最高度の発達をとげる「情報化された社会」では、われわれは、「現実」よりはるかに豊かなリアリティに囲まれうるだろう。

 だが、けっきょく、「おたく的生」=適応とは、やはり耽溺であり、現実からの逃避ではないのか。セクシュアリティよってリアリティを補強された虚構とは、やはり虚構でしかない。虚構の中で発生しているリアリティとは、現実の中にあるリアリイティが、転倒し、変態し、倒錯し、たちいたった姿なのだ。そのことを忘れ、あるいは否定して、虚構のなかにあるリアリティに身を委ねようとするいかなる企ても「逃避」という烙印をおされるだろう。岡崎京子的苦悩は、虚構にセクシュアリティというリアリティを補強するという麻薬によって解決されるとは思えない。現実への変革そのものへととりくまぬかぎり、岡崎的な苦悩は永遠に続くのだ(斎藤は、「だからそういう現実と虚構の区別が無意味なんだってば」と引き続き異議を唱え続けるだろうが)。


 レーニンは、20世紀の初頭にあたって、革命家を襲う、この種の「リアリティ」に悩まされつづけてきた。はじめは『唯物論と経験批判論』で世界の物質的唯一性を説き、つづいて、ヘーゲルの研究をするなかでなぜ観念論が人々を魅了するのかという問題にとりくみつづけた。

 「哲学的観念論は根拠のないものではない。それは疑いもなくあだ花であるが、しかしそれは生き生きとした、実を結ぶ、真の、強力な、全能な、絶対的な人間認識の生きた木についたあだ花なのである」

(『哲学ノート』)


斎藤環『戦闘美少女の精神分析』(太田出版)
2000.4発行
戦闘美少女の精神分析
2003.11.11記
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